海のない町の水族館 第2話:木曜日だけ開く浄水場

旧浄水場の門が開くのは、木曜日の午後1時から三時までだった。鍵を預かる河野文江が、隣町の図書館勤務を終えて立ち寄れる時間である。藤代結菜(ふじしろ・ゆいな)は12時40分に着き、錆びた門の隙間から中を覗いていた。

相沢航(あいざわ・わたる)は「開く時間が決まっている場所へ、早く入ることはできない」と言った。結菜は「20分あれば配管を1本見られます」と返す。航は首を振った。「鍵の問題じゃない。誰がいる時なら安全かという約束だ」

旧浄水場は22年前に役目を終えた。低い管理棟、丸い沈殿池、斜面へ沿う導水路。町は解体費を確保できず、年4回の点検だけを続けている。立入禁止の看板は、危険と忘却の両方を防いでいた。

午後1時、河野が黄色い鍵札を持って現れた。町役場の野々村光(ののむら・ひかる)、元配管工の熊谷源一(くまがい・げんいち)、航、結菜の4人へ署名簿を出す。「見学者は5人まで。2階へ上がらない。沈殿池の縁から一メートル離れる。今日は使える理由ではなく、使えない理由を数えてください」

結菜は不満そうだった。「使えない理由ばかり探したら、何も始まりません」。河野は鍵を回しながら答えた。「使えない理由が見えない計画は、始まった後で誰かに背負わせることになります」

管理棟へ入ると、湿った紙と鉄の匂いがした。壁には昭和の配管図が残り、青い線が取水、赤い線が排水、緑の線が薬品注入を示す。航はスマートフォンで撮る前に、撮影許可を確認した。河野は図面だけならよいが、警報盤と鍵番号は写さないよう言った。

最初の使えない理由は電気だった。受電設備は停止し、再開には高圧設備の検査と改修が要る。仮設電源を入れても、大型水槽のポンプと照明を同時に動かせない。熊谷は「水槽を置けても、水を生かせない」と言った。

2つ目は床だった。管理棟の展示室候補は一平方メートルあたり三百キロまで。ミカゲプラザの巨大水槽を置けば、1/3の水でも超える。結菜が「屋外の沈殿池を水槽にできない?」と言うと、航は柵の腐食と転落、雨水、鳥、冬の凍結を挙げた。

3つ目は水道だった。浄水場なのに、現在の飲用水は来ていない。古い原水管は閉じられ、再接続は禁止。トイレも手洗いもない場所へ、来場者を呼ぶことはできない。水の施設で水を用意できないという矛盾を、結菜はノートへ大きく書いた。

15分で、使えない理由は九個になった。結菜の歩幅が速くなる。反論を探しているのだと航には分かった。夢を守ろうとするほど、人は危険条件を敵の言葉として聞いてしまう。

旧薬品室の前で、結菜は立入テープをくぐろうとした。「窓から中が見えます」。航が腕を掴むより早く、河野が声を上げた。「止まって」。床に細い亀裂があり、その先は一段下がっていた。埃で境目が見えない。

結菜は足を戻し、「見えていました」と言った。河野は責めずに尋ねた。「何が?」。窓、テープ、床、暗さ。結菜が1つずつ答えると、亀裂は見えていなかったと認めた。見たいものが先にあると、見えている範囲を広く思ってしまう。

航は見学を中止するか迷った。最初の会議で、安全条件を破った場合は止めると決めている。だが一度の違反で全員を退出させれば、次から失敗を隠す。航は10分間の休止を宣言し、結菜に見学経路の危険箇所を地図へ書かせた。

「罰ですか」と結菜が聞く。「違う。今見つけた危険を、次の人が踏まない形にする仕事だ」。結菜は赤いペンで亀裂、暗所、段差を記した。河野はその地図を、今後の見学者へ使いたいと言った。失敗が許可を失う理由ではなく、安全を増やす資料になった。

休止中、野々村が町の財産台帳を開いた。旧浄水場は行政財産ではなく普通財産へ変更済みで、期間限定の使用許可なら議会の新規条例は不要。ただし占有区域、責任者、保険、復旧方法が必要だ。「水族館を丸ごと許可するのは無理です。でも、一室の公開実験なら道があります」

結菜はすぐ「いつから」と聞いた。野々村は「条件がそろってから」と答える。航は2人の間へ入り、条件を期限へ翻訳した。床調査は二週間、仮設トイレの見積りは一週間、避難経路確認は10日。最短でも1か月。

「ミカゲプラザは3か月後に閉まります。1か月も調べたら間に合わない」。結菜の焦りは正しかった。巨大水槽を移すには、閉館前に搬出計画が必要だ。航は、旧浄水場を本館候補、水槽は別の場所に置くという二段階案を出した。

結菜は「水槽のない水族館になります」と言った。熊谷が笑う。「今だって魚のいない水族館だ。足りないものを恥ずかしがるな」。旧浄水場では町の水の歴史、ミカゲプラザでは巨大水槽の公開実験。2つを1つに押し込まなければ、床荷重の問題は小さくなる。

管理棟の奥に、古い採水窓があった。かつて職員が処理前後の水を並べた場所で、腰の高さに6つの小窓が並ぶ。魚は入らないが、鏡川の上流、中流、町中、雨の翌日の水を密閉容器で比較できる。結菜の目が初めて明るくなった。

「ここなら、川の1日を見せられる」。ただし直射日光で藻が増え、容器の交換と洗浄が必要だ。結菜は毎日来ると言った。航はそれを採用しなかった。高校生1人の毎日に依存する展示は、試験期間や病気で止まる。

結菜は「私が始めたいんです」と食い下がった。航は「始める権利と、休む権利を一緒に作ろう」と返した。採水は週2回、学校の科学部3人と大人2人の当番制。欠員時は展示容器を減らす。全部の窓を埋め続けることを成功条件にしない。

その場で結菜は科学部のグループへ連絡した。1人は興味がある、1人は受験勉強で無理、1人は月1回なら参加できると返した。結菜は断った人へ説得の文章を打ちかけ、消した。「参加しない返事も、人数に入れないといけないんですよね」。航はうなずいた。

午後2時、海沿いにいる航の息子・海斗(かいと)と映像通話をつないだ。採水窓と配管図を見せると、海斗は巨大水槽を移さない判断に賛成した。「水処理展示なら、循環設備を隠さない方がいい。ポンプやフィルターを裏方にせず、交換するところまで見せる」

結菜は「壊れた時も?」と尋ねた。「特に壊れた時」と海斗は答えた。水族館では透明な水が自然に存在するように見えるが、実際は人が測り、洗い、待って作っている。設備の停止を閉館理由だけでなく展示にできる。

航は用件が終わった後も通話を切らなかった。「来られるか」と初めて尋ねた。町へ戻れという意味に聞こえないよう、「1日だけ、床と配管を見てほしい」と付け加えた。海斗は勤務表を確認し、次の木曜日なら半日空くと答えた。

「帰ってくるの?」と結菜が喜ぶ。海斗は画面越しに首を振った。「見に行くだけ。住む場所を変える話とは別」。航も「それでいい」と言った。親子が一緒に働くことを、帰郷や親孝行の物語へ急いで変えなかった。

見学終了まで30分。河野は、使える場所を1つに絞るよう求めた。結菜は採水窓、熊谷は旧ポンプ室、航は入口に近い会議室を選んだ。野々村は、許可が通りやすいのは会議室だと言う。

多数決なら採水窓が一票しかない。航は、目的を確認した。最初の1か月で来場者へ何を見せたいのか。水の違い、設備の仕事、町の記憶。会議室なら移動式の展示台で3つを試せる。採水窓は魅力的だが、最初から固定すると変更しにくい。

結菜は採水窓を諦めたくなかった。河野が「木曜だけ開く見学コースに残せばいい」と提案した。常設区域は会議室。職員経験者か安全担当がいる木曜だけ、採水窓まで案内する。開館日を増やすことより、開けられる条件を明確にする。

野々村は使用許可の下書きへ「木曜限定見学」を加えた。航は責任者欄へ自分の名を書いたが、任期を3か月とした。その後は更新か交代を話し合う。退職後も永久に背負う約束にはしない。

帰り際、熊谷が壁の配管図を指した。夏祭り噴水の線と同じ緑色が、旧浄水場の裏門まで延びている。実際につながっているわけではない。開業時の設計者が、町の水施設を同じ色で描いたらしい。

航は写真を撮り、ミカゲプラザの古い配管を再利用しない代わりに、2つの図面を並べる展示を思いついた。使えない管も、町が水をどう運んできたかを伝える。廃材を無理に動かさず、経路の記憶を移す。

午後3時、河野が施錠した。結菜は門の外から建物を振り返る。「今日は何も使えるようになっていない」。航は、赤い危険地図、会議室の占有案、木曜見学の条件、海斗の訪問日を順に挙げた。場所はまだ開いていないが、開け方は昨日より具体的になった。

その夜、野々村から暫定使用許可の事前相談が受理されたと連絡が来た。正式許可ではない。床調査と保険見積りが必要。それでも申請番号が付いた。結菜はグループへ「水族館、許可されそう」と送ろうとし、「会議室一室の公開実験、相談開始」と書き直した。

次の木曜日、海斗が工具箱1つで町へ来た。巨大水槽を見る前に旧浄水場へ行き、会議室の床を叩いた。「ここは水槽を置く場所じゃない。でも、水槽をどう支えるか考える場所にはできる」。

海斗は床下へ小型カメラを入れ、梁の位置を確認した。補強なしで置けるのは百二十キロまで。結菜は落胆せず、透明な十二リットル容器を6つ並べる計算を始めた。第1話では大きさに夢を見た彼女が、今日は安全な小ささから展示を組み立てていた。

河野が採水窓まで案内し、海斗は古い蛇口へ「使用禁止」の札を追加した。その隣に、現代の処理設備を遠隔映像で見せる小さな画面を置く案を出す。古い設備を復活させるのではなく、役目を終えた理由と今の技術をつなぐ。

午後3時、最初の木曜見学が終わった。来場者は航たちを含めて5人だけ。魚も巨大水槽もない。それでも結菜は出口のホワイトボードへ、次回見たいものを書いてもらった。「雨の日の川」「水道水になるまで」「止まったポンプの音」。

最後に海斗が「父さんの閉館作業も展示にしたら」と書いた。航は消そうとしたが、手を止めた。終わらせる仕事も、水族館を作る仕事と同じくらい町の生活を支えてきた。隠す必要はなかった。

門を閉める前、河野が次週の鍵札を航へ渡しかけ、やめた。「鍵はまだ私が持ちます。来週も一緒に開けましょう」。航は管理者になったからといって、全ての鍵を1人で持たないことを受け入れた。

木曜日だけ開く浄水場。その少なさを、結菜はもう欠点と呼ばなかった。閉じている6日間に測り、相談し、休む。開く1日には、何を見せるかを選ぶ。海のない町の水族館は、毎日開く夢ではなく、続けられる扉の重さを覚え始めていた。

帰り道、ミカゲプラザから連絡が入った。巨大水槽の電気代試算が、想定の二倍になったという。魚を入れなくても、透明な水を保つだけで費用はかかる。次に決めるのは、入館料でも寄付でもない。百円では買えない電気を、誰の負担にせず減らすかだった。

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海のない町の水族館

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このシリーズの全話 8編
  1. 第1話:水槽だけが届いた
  2. 第2話:木曜日だけ開く浄水場
  3. 第3話:魚のいない開館日
  4. 第4話:百円では買えない電気
  5. 第5話:雨の日の来場者
  6. 第6話:移せる水族館
  7. 第7話:町で1番小さな魚
  8. 第8話:水門を開ける人
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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