真砂悠介(まさご・ゆうすけ)は、白紙の契約書が好きだった。
印鑑も、署名も、金額もない。
ただ、余白だけがある。
人は余白を見ると、自分に都合のいい未来を書き込む。値上がりする土地。消える借金。誰にも知られない成功。家族に見せられる肩書き。失った人生を取り戻すための、一発逆転。
真砂は、その余白を売る。
嘘を売るのではない。
相手がもともと欲しがっていた嘘に、名前をつけて渡す。
その夜、ホテルのラウンジで待っていた男は、真砂を見るなり立ち上がった。
「真砂先生」
先生。
便利な言葉だ。
医者にも、弁護士にも、政治家にも、占い師にも使える。そして、人は先生と呼んだ相手を疑うのが少し遅れる。
真砂は名刺を出さなかった。
名刺は、相手が確認できるものだ。確認できるものは、嘘には向かない。
「急ぎましょう」
真砂は低い声で言った。
「この話は、長く置くほど汚れます」
男は緊張した顔で頷いた。
地方の建設会社の二代目。父親の会社を継いだが、借金と見栄だけを増やしている。欲しいのは事業ではない。父親を超えたという証拠だった。
だから真砂は、再開発予定地の話を持ってきた。
駅から徒歩7分。古い商店街の奥。まだ表には出ていない都市計画。今なら関係者だけが動ける。
もちろん、嘘だ。
ただし、全部が嘘ではない。
駅はある。商店街もある。古い建物もある。都市計画の噂も、本当にある。
嘘は、真実の隙間に置くとよく育つ。
「地主さんは、本当に売る気があるんですか」
男が聞いた。
真砂はすぐには答えなかった。
沈黙は、相手に想像させるためにある。
「売る気がある人間は、売る気があるとは言いません」
男は感心したように息を吐いた。
真砂は心の中で、その反応に小さな値札をつけた。
この男は、高く売れる。
ラウンジの奥では、羽鳥ミカ(はとり・みか)が紅茶を飲んでいた。赤い爪でスマートフォンを触りながら、こちらを見もしない。けれど、男が腕時計を外してテーブルに置いた瞬間、彼女は一度だけ瞬きをした。
焦っている。
金を用意する気がある。
家庭には言っていない。
羽鳥の瞬きは、3つの情報を意味していた。
真砂は書類を出した。
白紙の契約書。
男の目が、そこに吸い寄せられる。
「これは」
「まだ何も書かれていません」
「なぜ」
「あなたが、本気なら書けるからです」
こういう言い方をすると、人は自分で檻に入る。
強制されたと思いたくない。選ばされたと思いたくない。自分で決めたのだと思いたい。だから、白紙は強い。
男はペンを持った。
そのとき、羽鳥からメッセージが入った。
標的変更。老女がいる。
真砂は画面を伏せた。
男が顔を上げる。
「何か」
「いいえ」
羽鳥は、子どもと老人を標的にしない。
甘い。
真砂はそう思っている。
甘さは、嘘の邪魔になる。線を引く人間は、その線を使われる。守りたいものがある人間ほど、脅しやすい。
それでも、羽鳥を切らない理由が1つだけあった。
彼女は、真砂がまだ人間に見えるための最後の照明だった。
「地主の確認をもう一度取ります」
真砂は書類を引いた。
男が焦った。
「待ってください。私は本気です」
「本気なら、待てます」
真砂は立ち上がった。
ラウンジを出ると、羽鳥が後ろから来た。
「珍しいね。降りるの」
「降りてない。値段を上げただけだ」
「老女がいる」
「だから?」
羽鳥はスマートフォンを差し出した。
画面には、古い家の前に立つ小柄な女性が写っていた。白髪。曲がった背中。両手で植木鉢を持っている。
真砂は、写真を見て動けなくなった。
知らない顔のはずだった。
けれど、その家の門柱を知っていた。
子どもの頃、父に連れられて一度だけ行った場所。
父はその日、深く頭を下げていた。
正直に生きろ、と言っていた父。
正直なまま、全部を失った父。
真砂は写真から目を離した。
「この案件、誰から来た」
羽鳥の顔から、いつもの軽さが消えた。
「黒瀬(くろせ)」
その名前を聞いた瞬間、ラウンジの空気が遠くなった。
黒瀬征一。
寄付と再開発を表の顔にして、欲望のある場所にだけ橋をかける男。真砂より大きな嘘を、真砂よりきれいに売る男。
羽鳥は言った。
「もう1つある」
彼女は別の画像を開いた。
再開発計画書の一部。関係者一覧。そこに、真砂の名前があった。
いや、違う。
真砂悠介ではない。
彼が17年前に捨てた、本名だった。
白紙の契約書は、まだ誰のものでもない。
そう思っていた。
けれど、真砂は初めて気づいた。
この契約書の空白には、もう誰かが自分の名前を書いている。
嘘を売る人
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
