拍手のないリハーサル 第1話:主役が来ない初日

市民劇場「青葉座」の第一稽古日に、主役だけが来なかった。制作主任の久世真帆(くぜ・まほ)は、午後6時5分、6時10分、6時15分と三度電話をかけ、三度とも留守番電話へつながった。稽古場には二十七脚の椅子と26人の出演者が並び、空いた一脚だけが、台本より雄弁だった。

演目は『灯台まで百歩』。港を失った町で、最後の灯台守が灯りを消すまでの一夜を描く新作だった。青葉座が市の助成を受けられる最後の企画でもある。客席稼働率を七割にできなければ、来年度から劇場は貸館専用になる。劇団員は「作品のため」と言ったが、誰もが自分の仕事場を守るために集まっていた。

主役の香坂瑛太(こうさか・えいた)は、映像作品にも出演する看板俳優だった。彼の名前があるからチケットが売れる。彼の名前があるから、地元紙が取材に来る。演出家の鷺沢(さぎさわ)は空席を見たまま、「読み合わせを始めます」と言った。代役を立てるとも、中止するとも言わなかった。

真帆の仕事は、始まらないものを始められる形にすることだった。台本を配り、遅刻者の席を空け、照明家へ変更を伝え、役者が怒る前に水を置く。舞台に立つのは12年ぶりだった。22歳の初舞台で台詞が消えて以来、客席へ顔を向けていない。

「久世、主役を読んで」。鷺沢が言った。真帆は制作ですと返した。「知ってる。だから台本を持っている」。稽古場の視線が集まった。真帆は立たず、壁際の机から第一場を読んだ。灯台守の最初の台詞は、「灯りは、見ている人のためだけにあるのではない」。

声が震えないよう、意味を考えず句読点だけを追った。ところが相手役の城戸美晴(きど・みはる)が、台本を閉じた。「その読み方だと、私の台詞が嘘になる」。美晴は主役の娘を演じる。役者として厳しく、真帆とは昔、同じ養成所にいた。真帆が舞台を降りた夜、最後まで楽屋の外で待っていた人でもある。

「代役の演技はしていません」と真帆が答えると、美晴は「だから困るの」と言った。真帆の声は、帰ってこない灯台守ではなく、帰る場所を片づけ続けた人の声に聞こえる。演出意図と違う。なのに、台詞の奥に別の道が見える。役者たちは戸惑いながら次のページをめくった。

読み合わせは続いた。真帆は机に座ったまま主役を読み、舞台監督の大路はストップウォッチで場面時間を測った。高校生の見習い・南雲朔(なぐも・さく)は、空席へ香坂の名札を置いた。誰も指示していない。真帆は外すよう言いかけ、残した。来ない人を最初からいなかったことにすると、変更の責任まで消える。

第二場で、台本にない一行が見つかった。真帆の冊子にだけ「娘は灯りを見て戻ったのではない。父が消せなかった暗闇を見て戻った」と印刷されている。改訂履歴にはない。鷺沢はページを確認し、「初稿の削除行だ」と言った。なぜ制作主任の台本だけに残ったのか、印刷担当の朔にも分からなかった。

真帆は稽古を止めた時間を記録した。6分40秒。創作現場では、迷った時間がなかったことにされやすい。予定より遅れれば制作の責任になり、うまくいけば演出のひらめきになる。真帆は差分確認を稽古記録へ残し、後で削除行を採用するなら作者の許可を取り直すと宣言した。鷺沢は面倒そうな顔をしたが、反対しなかった。

ミステリーにする時間はなかった。真帆は全冊の差分を調べ、初稿と決定稿が混在していることを突き止めた。朔がファイル名の「final」と「final2」を取り違えたのだ。朔は青くなったが、真帆は叱る前に、どの冊子がどの版か表紙へ色紙を貼らせた。間違いを犯した人だけが直せる仕組みにすると、次の間違いは隠される。全員で15分かけて交換した。

その間、美晴は削除行をじっと見ていた。「消した方がいい」と鷺沢は言った。「説明しすぎる」。美晴は反対した。「今日の久世さんの声なら必要」。2人の議論は、主役の不在から作品の中心へ移った。真帆は嬉しくなかった。自分の偶然の読みが作品を変えるたび、香坂が戻る場所が狭くなる。

出演者の1人、80歳の大森が手を挙げた。町の郵便配達員役で、台詞は3つしかない。「主役が来ないことと、この一行を残すことは、別に決めませんか」。全員が黙った。目立つ出来事が起こると、関係のない判断まで同じ方向へ流される。真帆はホワイトボードを2つに分け、「欠席対応」と「台本検討」を別の欄へ書いた。大森の3つの台詞より、その一言が稽古を救った。

午後7時20分、香坂から短いメッセージが届いた。『今日は行きません。僕なしで成立するか確かめてください』。鷺沢は画面を見ても顔色を変えなかった。美晴は椅子を蹴りそうになり、大路は「試される筋合いはない」と言った。真帆だけが、主語の曖昧さに気づいた。成立するか確かめたいのは、作品か、劇団か、それとも香坂自身か。

真帆は電話ではなく、全員が読める連絡欄へ返信した。『本日の不在は欠席として記録します。成立可否の試験にはしません。明日、出演意思と参加条件を制作へ回答してください』。怒りも心配も書かなかった。香坂を特別扱いすれば、彼以外の26人の時間が、看板俳優の感情の材料になる。

送信後、広報担当から電話が来た。明朝の新聞広告には香坂の顔が大きく載る。降板の可能性を知りながら出稿すれば、払い戻しと信用の問題になる。止めれば二十八万円が無駄になる。真帆は鷺沢に判断を預けず、広告会社へ午前9時までの保留を依頼した。追加費用は三万円。二十八万円を守るために、香坂の結論を急がせない時間を三万円で買った。

若い劇団員は高いと言い、会計担当は安いと言った。真帆はどちらとも決めなかった。費用を記録し、明日、誰の予算から出すか話す。正しい判断にも請求書は来る。そこを見えなくすると、いつも同じ人が善意で払うことになる。

鷺沢が初めて真帆を見た。「代役を探せるか」。真帆は3人の候補と、稽古日数、契約変更、広報への影響を答えた。すでに考えていた。「君自身は」。稽古場が静かになった。真帆は即答した。「候補に入れません」。

美晴が立ち上がった。「12年前と同じことを言うのね」。養成所の発表公演で真帆が台詞を失ったとき、美晴は袖から最初の言葉を教えた。真帆は戻らず、そのまま舞台を降りた。以来、2人は仕事仲間として付き合い、あの夜の話だけを避けた。

「同じじゃない」と真帆は言った。「あのときは怖くて降りた。今は制作として、出ないと決めている」。美晴は納得しなかった。「決めている人は、そんなに台本を握りしめない」。真帆の指には、紙の角の跡が白く残っていた。

鷺沢は議論を止め、第三場を立って読むよう指示した。香坂の位置には誰も置かない。相手役は空席へ向かって台詞を言う。すると奇妙なことが起きた。主役がいないことで、町の人々が灯台守を待つ物語がはっきり見えた。配達員、漁師、娘、役場職員。それぞれが灯りへ勝手な意味を預け、守る人の疲れを見ていない。

真帆は袖から台詞を読んだ。見えない声へ、役者たちが返す。拍手のない稽古場で、作品の骨が初めて立ち上がった。主役が不要なのではない。主役だけで成立していたように見えた作品へ、周囲の人生が戻ってきた。

第三場の終わりで、美晴は初めて空席ではなく袖の真帆を見た。演出上は間違いだった。鷺沢も止めなかった。美晴の台詞は「帰ってきて」だったが、真帆には「戻ってきて」と聞こえた。帰る場所を残すことと、同じ場所へ戻るよう求めることは違う。真帆は台本から目を上げず、次の台詞を読んだ。今は返事を演技に預けなかった。

午後8時、鷺沢は稽古を終えた。明日までに代役候補へ連絡する。香坂から回答があれば対面で話す。削除行は保留。決まったことを真帆が読み上げ、全員が確認した。創作の熱に流されて、契約と時間を曖昧にしないためだった。

片づけの途中、朔が空席の名札を持ってきた。裏に文字がある。「主役は、最後に入ってくる人」。演出メモらしいが、鷺沢の字ではない。真帆は香坂の仕掛けかと思った。朔は首を振った。「これ、久世さんの字です」。

12年前、養成所の稽古で真帆が使っていた名札だった。美晴が保管していたという。「返す日を決めてなかった」。美晴は名札を机へ置いた。「今日、返せると思った。でも、主役をやれと言っているんじゃない。あなたが舞台に戻らなくても、降りた場所を誰かに決めさせたままにしないで」。

真帆は名札を裏返した。表には、消えかけた旧姓がある。主役は最後に入ってくる人。その言葉を書いたのは、出番を待つのが怖かった19歳の自分だった。先に立つ勇気がなく、最後なら主役になれると信じたかった。

劇場の外で、スマートフォンが鳴った。香坂からではない。代役候補の1人、地方劇団の俳優からだった。「日程が合えば読みたい。ただし、香坂さんが戻るまでの穴埋めなら断る」。真帆は明日の十時にオンライン面談を提案した。役を人の穴の形にしない条件から話そうと思った。

通話を終えると、客席の最後列に人影があった。香坂瑛太だった。いつから聞いていたのか分からない。帽子も眼鏡も外し、舞台ではなく真帆を見ている。「僕なしで成立しましたね」と言った。

真帆は頷かなかった。「成立したかは、客席が決めます。今日は稽古が進んだだけです」。香坂は少し笑い、空席だった椅子へ座った。そして台本を開かずに告げた。「その声でやるなら、僕は降ります」。

美晴が怒るより先に、真帆は出席表へ時刻を書いた。20時17分、香坂瑛太、来場。降板の意思は口頭。明日、書面確認。手は震えていなかった。

香坂は、真帆が自分の言葉を事務処理へ変えたことに腹を立てた。「あなたは何でも記録にして、人の本気を薄める」。真帆は出席表を閉じた。「記録しない本気は、あとで弱い人の責任にできます」。12年前、真帆が舞台を降りた夜も、公式記録には体調不良としか残らなかった。誰が無理な変更を命じ、誰が続行を決めたかは消え、真帆だけが耐えられなかった人になった。

香坂の顔から挑発が消えた。彼もまた、何かを記録させるために欠席したのかもしれない。真帆は推測で救わなかった。明日、本人の言葉で聞く。そのための席を、今夜は空けたままにした。

「では明日、降りる理由と、残る条件を別々に聞きます」と真帆は言った。「今夜は、誰の主役も決めません」。拍手はなかった。それでも稽古場に残った全員が、次のページを開いた。

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拍手のないリハーサル

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このシリーズの全話 7編
  1. 第1話:主役が来ない初日
  2. 第2話:降板届は2枚ある
  3. 第3話:代役は客席から選ばれる
  4. 拍手のない稽古場 第4話:ポスターから名前を消す
  5. 第5話:一行だけ長い沈黙
  6. 第6話:客席を半分閉じる理由
  7. 第7話:照明家は嘘をつかない
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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