海のない町の水族館 第3話:魚のいない開館日

木曜日の朝6時40分、旧浄水場の会議室には魚のいない水槽が1つ置かれていた。

水槽の底には白い砂も水草もない。代わりに、鏡川の上流から河口までを描いた長い紙が敷かれ、その上に小さな透明容器が十二個並んでいた。容器の中身はすべて水だった。採取場所も時間も違うが、遠目にはどれも同じに見える。

藤代結菜(ふじしろ・ゆいな)は入口に貼った手書きの紙を、三度目の貼り直しでようやく水平にした。

「魚のいない水族館。本日、試験開館」

熊谷源一(くまがい・げんいち)が脚立を押さえながら言った。

「名前だけなら立派だ。問題は、中へ入った人が3分で帰らないかだな」

結菜は唇を尖らせた。昨日までなら、魚を借りられないかともう一度言い出していたはずだった。だが、魚を入れるための水温、酸素、検疫、停電時の避難先を1つずつ確認した結果、今日の設備で生き物を迎えることはできないと自分で署名した。

相沢航(あいざわ・わたる)はポンプの音を聞きながら、会議室の隅に置いた仮設分電盤を確認した。水槽の中を循環しているのは水ではなく、細い透明管を通る色付きの光だった。青い光は鏡川の流れ、黄色い光は生活用水、赤い光は施設で使われる水を表す。海斗(かいと)が遠隔で組んだ簡易制御を、航と源一が旧浄水場の電源に合わせて作り直した。

7時15分、役場の野々村光(ののむら・ひかる)がチェック表を持って入ってきた。

「避難経路、消火器、床の養生、立入禁止区域。全部確認します。今日ここでできるのは会議室一室、入場15人まで、90分ごとの休止です」

結菜は「15人」と繰り返した。SNSでは100人以上が興味を示していた。けれど野々村は、期待を削る人ではなく、次の木曜日も開けるための条件を数える人だった。

「15人しか、ではありません。15人ずつなら、開けられます」

その言葉を、結菜は入口の紙の下へ書き足した。

八時、最初の来場者は誰も来なかった。

8時5分、近所の男性が自転車を止め、看板だけ見て走り去った。8時12分、小学生2人が窓から覗いたが、魚がいないと知ると笑って学校へ向かった。

結菜は透明容器の向きを直し続けた。航は声をかけず、ポンプの流量表示を見ていた。開館とは、扉を開けた瞬間に人が押し寄せることではない。設備の仕事では、何も起きない時間を保つことも運用の一部だった。

8時27分、杖をついた女性が入ってきた。名前は千代といった。旧浄水場で26年間、検査補助をしていたらしい。

「魚はいないのね」

「今日は、いません」

結菜は以前なら言い訳を続けただろう。しかし今日はそこで止め、千代に十二個の水を見てもらった。

千代は一番上流の容器を指した。

「きれいに見えるでしょう。でも雨の翌朝は、見た目より先に数字が変わるの」

彼女は展示用のカードを裏返し、そこに書かれた濁度と採取時刻を読んだ。さらに、昔の検査では誰が朝四時に採水へ行き、雪の日にどう容器を温めたかを話した。

結菜は慌てて録音しようとして、手を止めた。

「その話、展示にしてもいいですか」

「名前を出さないなら。水は1人で守ったみたいに書かないでね」

結菜は新しいカードを1枚作った。〈この水の数字の後ろには、朝四時に起きた人がいる〉。千代がうなずくと、それを最初の容器の横へ置いた。

九時を過ぎると、少しずつ人が来た。商店街のパン屋、川沿いを走る配達員、学校を休んだわけではなく登校前に寄った高校生。魚はいないのかと全員が聞いた。結菜は同じ説明をせず、それぞれに1つ質問した。

「あなたの1日は、どの水から始まりますか」

パン屋は4時半の仕込み水を選んだ。配達員は公園の水飲み場を選んだ。高校生は毎朝洗うコンタクトレンズの水を選んだ。答えは付箋に書かれ、空の水槽の外側へ貼られていった。

十一時、問題が起きた。子どもが透明容器へ手を伸ばし、母親が強く腕を引いた拍子に、展示台が数センチ動いた。水はこぼれなかったが、航はすぐに入口を閉めた。

「次の枠まで15分あります。固定方法を変えます」

結菜は待っている人へ頭を下げた。開館日に扉を閉めることが失敗に思えた。しかし源一は展示台の下から工具箱を出した。

「開け続けるより、閉められる方が運営だ」

航は壁に穴を開けず、重りとベルトで台を固定した。野々村は事故報告ではなく、未然対応として時刻と処置を記録した。結菜は入口の紙に、再開予定時刻を大きく書いた。待っていた人は1人も怒らなかった。むしろ、なぜ閉めたかを説明すると、2人が設営を手伝える日を聞いてきた。

午後1時、海斗が遠隔画面に入った。航は息子を「技術者です」と紹介しかけ、言い直した。

「今日の光の流れを作った、相沢海斗です。遠くから参加しています」

海斗は画面越しに、水槽の青い光を一度止めた。

「川の水が止まったら、町はどうなると思いますか」

子どもたちは蛇口が止まる、風呂に入れない、と答えた。千代は検査ができなければ、安全かどうかを言えなくなると付け加えた。パン屋は生地を仕込めないと言った。青い光が再び動くと、水槽の中には魚ではなく、町の1日が泳いでいるように見えた。

午後3時の最終枠が終わるころ、付箋は100枚を超えていた。来場者は合計63人。予定していた100人には届かなかったが、15人の上限も休止時間も守れた。けが人はなく、容器は1つも倒れなかった。

結菜は最後の来場者を見送ってから、空の水槽を眺めた。

「魚がいなくても、開館って言っていいのかな」

航は水槽の外側に貼られた付箋を1枚読んだ。〈祖父が朝、薬を飲むための水〉と書かれていた。

「今日見せたのは、魚じゃなくて、水の中にある生活だ。それを見に来た人がいて、次も見たいと言った。なら今日は開館日だ」

野々村が使用記録を閉じた。

「次の申請には、今日の実績を添えられます。ただし問題が1つあります」

彼が示したのは仮設電源の使用量だった。照明、循環ポンプ、換気、遠隔画面。90分の公開を3回行っただけで、想定の一・八倍の電力を使っていた。

源一が数字を見て、低く口笛を吹いた。

「入場料を百円もらっても、電気代に追いつかんな」

結菜は付箋で埋まった水槽と、赤く表示された使用量を見比べた。町の人が今日ここへ置いていった百の1日を、善意だけで維持することはできない。

航は主電源を落とす前に、次の木曜日の欄へ新しい課題を書いた。

〈展示一時間に必要な電気を、誰が、いくらで支えるのか〉

青い光が消えると、空の水槽には付箋を読む5人の顔だけが映った。

片づけを始めた結菜は、付箋を色別に分けようとした。青は家庭、黄色は仕事、緑は学校。ところが、どうしても分類できない紙が何枚も残った。〈亡くなった妻が毎朝いれたお茶〉、〈祭りの日に子どもが浴びた噴水〉、〈部活を辞めると決めた日の雨〉。水は用途だけでは分けられず、記憶と一緒になっていた。

千代はその紙を捨てず、別の透明箱へ入れるよう言った。

「数字にできないから検査しない、ということにはならないでしょう。分類できないものにも、置き場所がいるの」

結菜は箱へ〈まだ名前のない水〉と書いた。航はその言葉を見て、閉鎖予定の商業施設で設備点検をしていた頃を思い出した。設備台帳には、使用量、修繕日、耐用年数が並んでいた。そこを毎日通った人が何を思っていたかは、一行もなかった。

「次は、水を使う値段だけじゃなく、水を失う値段も見せたい」

結菜が言った。

野々村はすぐに同意しなかった。

「値段という言葉だけだと、払える人のものに見えます。必要な費用と、誰でも入れる仕組みを分けましょう」

そこで5人は、来場者から入場料を取る案をいったん保留にした。代わりに、今日使った電気を設備ごとに測り直すことにした。照明を半分にした場合、遠隔画面を常時接続せず決まった時刻だけ使う場合、ポンプを展示中だけ動かす場合。航は削れる電気と削ってはいけない安全設備を二列に分けた。

海斗は画面越しに、古い建物の換気を止める案へ首を振った。

「人が少ないから大丈夫、は測定じゃない。二酸化炭素濃度を取ってから決めて」

父に指示する息子の声は、以前より用件だけではなかった。航も「分かった」で切らず、測定器を借りられる場所を相談した。海斗は地元へ戻るとは言わなかったが、来週木曜の午後だけ遠隔で参加すると、自分から予定を入れた。

夕方、結菜は今日来られなかった同級生へ写真を送ろうとして、空の水槽に映った来場者の顔が写り込んでいることに気づいた。彼女は投稿をやめ、顔のない角度で撮り直した。人を集めたい気持ちと、来た人を材料にしないことは両立できる。午前なら見落としていた判断だった。

源一は最後のベルトを外しながら、古い配管図を広げた。

「夏祭りの噴水へ行っていた線が、まだ床下に残っている。水は通せんが、電線を引く道には使えるかもしれん」

航は図面へ定規を当てた。既存の線を再利用できれば、仮設ケーブルを人が歩く場所へ這わせずに済む。だが図面の末端には、現在の建物には存在しない部屋番号が書かれていた。

「三〇七号室?」

千代が図面を覗き込み、首を振った。

「部屋じゃないわ。昔の電力契約の区分番号。浄水場が止まった後も、そこだけ契約を切らなかったはず」

野々村が役場の記録を検索すると、毎月少額の基本料金が今も支払われていた。使用量はゼロ。契約名義は、すでに解散した水質検査組合だった。

結菜は赤い使用量表示と、ゼロのまま続く契約を交互に見た。

「使われていない電気に、町はずっとお金を払っていたってこと?」

「そうかもしれません。でも、間違いだと決める前に、なぜ残したかを調べます」

野々村は三〇七の横へ確認印を付けた。百円では買えない電気。その答えは、新しい料金表だけでなく、誰かが切らなかった古い契約の中に残っていた。

航は閉館記録の余白へ、今日だけは数字ではない一行も残した。〈魚はいなかった。それでも63人が、水の向こうに自分の暮らしを見つけた〉。次の木曜日、その記録を入口に置くことにした。

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海のない町の水族館

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このシリーズの全話 8編
  1. 第1話:水槽だけが届いた
  2. 第2話:木曜日だけ開く浄水場
  3. 第3話:魚のいない開館日
  4. 第4話:百円では買えない電気
  5. 第5話:雨の日の来場者
  6. 第6話:移せる水族館
  7. 第7話:町で1番小さな魚
  8. 第8話:水門を開ける人
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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