雨上がりの朝、江戸の外れにある問屋「まる損」の戸口へ、潰れた干物屋の看板が運び込まれた。
幅は畳1枚ほど。波を跳ねる鯛と「伊勢屋」の三文字が、雨に洗われて妙に鮮やかだった。店を畳んだ看板だけが、昨日より景気よく見えた。
「薪にするなら、裏で割ってください」
店の主人・蔦(つた)は、算盤から顔を上げずに言った。
「表で割ると、うちが潰したように見える」
看板を担いできた男は、肩から縄を外した。五十を少し越えた、骨ばった男だった。名を寿平という。三代続いた干物屋を、昨日閉めたばかりだ。
「燃やしに来たんじゃない。売りに来た」
蔦はようやく顔を上げた。
「看板なら、向かいの古道具屋です」
「看板じゃない。潰れた理由を買う店だと聞いた」
帳場の奥で、手代の直吉(なおきち)がくしゃみをした。埃ではない。面白い客が来たときだけ出る、わざとらしいくしゃみだった。
まる損が買うのは、欠けた茶碗でも質流れの着物でもない。売れなかった品、続かなかった工夫、守れなかった約束。つまり、持ち主が人目から隠したいものばかりだった。
ただし、何でも買うわけではない。
盗んだ品は買わない。人の秘密は買わない。脅しに使える書付は買わない。そして、人そのものへ値段をつけない。
蔦は看板の表を見て、裏を見た。木はまだ固い。虫食いも少ない。端に小さな穴が5つ並び、古い紙片が1枚だけ釘に残っている。
「伊勢屋は、なぜ潰れました」
寿平は鼻で笑った。
「魚が売れなくなったからだ」
「それは潰れた結果です」
蔦は看板を壁へ立てかけた。
「私が買うのは、結果になる前の話です」
寿平の眉が動いた。怒るか帰るか、どちらかの顔だった。
そのとき、店の前に草履の音が止まった。紺の羽織を濡らさないよう裾を持ち上げ、町方の書役・大森新左衛門(おおもり・しんざえもん)が入ってきた。手には細長い木札がある。
「ちょうど客か」
「役人を客と数えるほど、困ってはいません」
蔦が答えると、新左衛門は木札を帳場へ置いた。
営業差止め予告、と墨で書かれていた。
直吉のくしゃみが、今度は本物になった。
新左衛門の説明は簡単だった。まる損は、古物を扱う店として届けを出している。ところが帳面には「売れなかった呼び声」「渡せなかった詫び」「3年続かなかった仕入れ」といった、品物かどうか分からないものが並ぶ。値打ちのない物を買い、別の者へ金を取って渡すなら、詐りの商いではないかという訴えが出た。
「100日やる」
新左衛門は言った。
「その間に、お前たちが何を買い、誰へ何を売り、取引のあと誰が困らなくなったかを記せ。価値が証せなければ、看板を外す」
直吉が伊勢屋の看板を指した。
「ちょうど看板ならあります」
「縁起でもないことを言うんじゃない」
寿平に叱られ、直吉は口を閉じた。
蔦は差止めの木札を裏返した。裏には何も書かれていない。何も書かれていない側を上にして、重石のように帳面へ載せた。
「100日で10分です」
「自信があるのか」
「ありません。自信がある人は、失敗を仕入れません」
新左衛門は笑わなかったが、帰りもしなかった。最初の取引を見届けるつもりらしい。
蔦は寿平へ、店を閉める前の30日分の売上帳を求めた。寿平は持っていないと答えた。直吉が看板の穴へ指を入れると、裏板が薄く浮いた。5本の釘は、紙束を挟むために打たれていた。
出てきたのは、売上帳ではなかった。
「届けられなかった先」と表紙にある。
雨の日は足を滑らせた。橋の普請で遠回りになった。奉公人が1人抜けた。相手が留守だった。代金を待ってほしいと言われ、顔を合わせづらくなった。寿平は干物を届けられなかった理由を、1件ずつ書いていた。
「売れなかった帳面より、よほど細かい」
蔦が言うと、寿平は視線をそらした。
「届けられなかったのは、俺の落ち度だからな」
「売れなかったのは、誰の落ち度です」
「客が来なくなった」
「なぜ」
寿平はまた黙った。
蔦は帳面を日付順ではなく、道順に並べ直した。届けられなくなった家の多くは、同じ橋の向こうにある。橋の普請が始まってから、人通りは新道へ移った。表通りの客は減り、裏道の得意先へは荷を運べない。伊勢屋は両方を同時に失った。
「魚が悪くなったわけではない」
直吉が言った。
「魚は悪くない。だから余計に始末が悪い」
寿平は、店を続けられなかった自分を責めるように答えた。
蔦は帳面の最後の頁を開いた。3か月前から、同じ名前が七度書かれている。おたき。届けられなかった理由は、どれも空欄だった。
「この人には、なぜ届けなかったんです」
「銭がたまっていた」
「代金ですか」
寿平はうなずいた。
「亭主を亡くして、仕立ての内職だけで暮らしてる。待ってくれと言われた。待つと言ったくせに、俺の方が店を閉めた。催促に来たと思われるのが嫌で、知らせにも行けなかった」
蔦は帳面を閉じた。
「買いましょう」
寿平が顔を上げた。
「看板をか」
「看板、届けられなかった帳面、橋が通れない間に試した道順。それから、あなたが1日だけ道案内をする約束」
寿平の顔が固くなった。
「俺まで売るのか」
「人は買いません。あなたの1日を、別に雇います。嫌なら看板と帳面だけです」
蔦が差し出した買値は三十二文だった。
寿平は低すぎると怒った。直吉も小声で、せめて五十文ではと言った。
蔦は首を振った。
「これは同情の銭ではありません。木の値と、まだ誰にも役立つと証明されていない記録の値です。ただし、これを売り直せたら売上の3分を払います」
「売れなければ」
「うちの失敗になります」
寿平は初めて、ほんの少し笑った。
証文には、使ってよい名前と、伏せる名前を書いた。おたきの事情は売らない。得意先の代金も売らない。使うのは、橋が閉じたことで途絶えた道順と、荷を届けられなかった理由だけ。寿平は一字ずつ確かめてから、指へ墨をつけた。
蔦は看板を横に寝かせ、鯛の絵へ白い紙を重ねた。直吉へ、小さな板を6枚切り出すよう頼んだ。
寿平が立ち上がった。
「待て。三代の看板だぞ」
「だから、三代分を薪にしないように分けます」
「店の名が消える」
「残したいのは、名ですか。届けた道ですか」
寿平は答えられなかった。
昼までに、直吉は看板の端から6枚の道標を切り出した。真ん中の鯛と伊勢屋の文字は残した。道標には、橋を使わず裏道へ抜ける曲がり角を描いた。
蔦が向かったのは、近くの豆腐屋、薬種屋、蕎麦屋だった。三軒とも、橋向こうへの配達が減っている。荷は違うが、道は同じだ。それぞれが別々に人を出せば足代がかさむ。
「三軒の荷を、朝と夕に一度ずつまとめます」
蔦は伊勢屋の帳面を見せず、道順だけを写した紙を広げた。
「最初の7日は、寿平さんが案内役です。8日目からは三軒で交代する。道標は迷う辻へ置きます」
蕎麦屋の主人が腕を組んだ。
「潰れた店のやり方だろう」
「潰れた店が、最後まで捨てなかったやり方です」
薬種屋は、道順の代金を尋ねた。蔦は三軒合わせて九十六文と答えた。7日間の案内役の手間賃は別。高いと言われても下げなかった。
「道を知っている人がいなくなってから探す方が、高くつきます」
新左衛門は後ろで話を聞き、何も口を挟まなかった。
三軒は1日の試し運びだけを承知した。売ったのではなく、試す権利を買ったのだと蔦は証文へ書いた。うまくいかなければ、残りの銭は取らない。
夕方、寿平は豆腐、薬包、蕎麦粉を載せた小さな荷車を引いた。干物は1枚もない。自分の店を取り戻す道ではないことが、歩き出してから分かった。
橋手前の大通りは泥で混み、荷車が動かない。寿平は迷わず横町へ入り、寺の裏を抜け、染物屋の干し場が空く刻を待った。帳面には「近道」としか書かれていなかったが、近道は道の形ではなく、町の1日の癖でできていた。
直吉は必死に書き留めた。
「全部覚える気か」
寿平が尋ねた。
「覚えないと、また寿平さんを雇うことになる」
「雇えばいいじゃねえか」
「あ」
直吉は筆を止めた。
寿平は、潰れた店の主人ではなくなっても、道案内の仕事まで失う必要はない。知恵を売るとは、持ち主が用済みになることではなかった。
最初の荷は、おたきの家へ届いた。
戸を開けたおたきは、寿平を見るなり財布を探した。寿平は催促ではないと言い、豆腐屋からの荷を置いた。
「伊勢屋さん、うちが払えないから来なくなったんじゃなかったの」
「橋のせいだ」
寿平は答えたあと、首を振った。
「橋のせいにして、言いに来なかった俺のせいでもある」
おたきはしばらく黙り、戸棚から小さな包みを出した。たまっていた代金の半分だった。
寿平は受け取らなかった。
「店はもうない。勘定は、今度ちゃんと話す。今日は豆腐を置きに来た」
蔦は口を出さなかった。失敗を買ったからといって、詫び方まで店の物にはならない。
帰り道、おたきは荷車へ古い布を一反載せた。荷を雨から守る覆いにしてほしいという。代金の代わりではなく、次の配達への貸し物だった。
三軒の主人は、試し運びの報告を聞き、7日分の銭を払った。九十六文のうち三十二文を寿平へ渡す。案内役の手間賃は別に七十文。看板の買値と合わせても、干物屋を戻せる額ではない。
それでも寿平は、朝より背を伸ばして銭を受け取った。
「明日も案内する。だが、7日で全部教えるとは言ってない」
直吉が笑った。
「8日目も雇わせる気ですね」
「覚えが悪けりゃな」
日が暮れるころ、まる損の壁には、中央だけ残った伊勢屋の看板が掛けられた。鯛の周りは六か所欠けている。立派だったころより不格好だが、切り出した道標は町の6つの辻に立っている。
新左衛門は帳面の最初の行へ書いた。
買ったもの。潰れた店の看板、届けられなかった記録、橋を避ける道順。
売ったもの。三軒が共同で試す配達の仕組み。
取引のあと困らなくなった者。橋向こうの客、三軒の店、案内役になった元店主。
筆を置き、新左衛門は蔦を見た。
「1件では、商いと認められん」
「分かっています」
「あと99日だ」
「1日余りましたね」
「100日目を今日と数えれば、余っていない」
直吉が、どちらでもよいという顔で戸締まりを始めた。
その夜、蔦は仕入れ帳を開いた。最初の一頁だけは、父が生きていたころから糊で閉じてある。今日の取引は二頁目へ書いた。
潰れた店の看板。三十二文。
売れたもの。道ではなく、また届けに行ける理由。
蔦は最後の一文を消そうとして、やめた。役人へ見せる帳面に情けは要らない。それでも、数だけでは今日の価値を残せなかった。
翌朝、店を開ける前から直吉が誰かと話していた。
蔦が戸を引くと、軒下に百個の提灯が積まれている。どれも新品で、どれも火が消えていた。
提灯職人の女が、腕を組んで座っていた。
「火はつくんです」
女は言った。
「でも、客の前へ出すと必ず消える」
蔦が直吉を見ると、直吉は目をそらした。
「いくらで買うと約束したの」
「まだ約束ではありません。約束する約束を」
「いくら」
直吉は、昨日の売上より大きな額を答えた。
蔦は100日のうち2日目にして、店を閉めたくなった。
江戸の失敗問屋
1 / 6

コメント