青葉座の客席に、代役候補が7人並んでいた。
舞台の上には誰もいない。通常のオーディションなら、候補者が1人ずつ照明の中央へ立ち、課題台詞を読み、審査する側が客席から点をつける。だが制作主任の久世真帆(くぜ・まほ)は、受付で全員へ「まず20分、客席に座ってください」と伝えた。
三列目中央に座った長峰奏が、空の舞台を見たまま尋ねた。
「これは待ち時間ですか」
「選考の一部です」
「何を見ればいいんでしょう」
真帆は答えなかった。代わりに、舞台袖の南雲朔(なぐも・さく)へ合図した。朔が作業灯を1つ消すと、客席の右端だけが暗くなった。次に城戸美晴(きど・みはる)が舞台奥をゆっくり横切った。台詞はなく、足音だけが残った。
7人の視線が、美晴を追った。6人は舞台中央へ顔を向け続け、奏だけが暗くなった客席右端を振り返った。
演出家の鷺沢遼(さぎさわ・りょう)が真帆の隣で小声を出した。
「主演の代役を選ぶのに、客席を見る必要があるのか」
「主演の穴を埋める人なら、必要ありません」
真帆は候補者に聞こえる声で続けた。
「私たちが探しているのは、作品の欠けた場所を見つける人です。香坂(こうさか)さんの声や立ち姿に似た人ではありません」
看板俳優の香坂瑛太は、最後列に1人で座っていた。全公演の単独主演から降り、四公演だけ長峰と交代で出演する契約を結んだ本人が、代役選考を見ることに反対したのは鷺沢だった。候補者が萎縮するという理由だった。しかし香坂は、見えない場所から決められる方が怖いと言った。
真帆は7人へ1枚ずつ紙を配った。そこには採点欄ではなく、3つの質問があった。
〈今、舞台で何が起きたか〉
〈客席で何が起きたか〉
〈自分が舞台へ上がる前に確認したいことは何か〉
候補者たちは書き始めた。奏は三問目だけを空白にした。
20分後、真帆は1人ずつ回答を読んでもらった。演技経験の長い候補者は、美晴の歩幅、重心、呼吸を細かく分析した。若い俳優は照明の変化が孤独を強めたと答えた。奏は、客席右端が暗くなった時、そこにいた受付係が資料を読めなくなったと書いていた。
「舞台ではなく、受付係を見たんですか」
鷺沢が聞いた。
「見えなくなったからです。見えるものより、急に見えなくなったものの方が気になりました」
香坂が最後列で姿勢を変えた。
次の課題は、第1幕終盤の対話だった。灯台守が帰港しない船へ向け、毎晩同じ時刻に明かりを点ける場面。候補者は美晴と組み、指定された台詞を読む。
1人目は正確だった。2人目は声がよく通った。3人目は香坂の過去公演を研究し、間の取り方まで似せていた。だが客席の香坂は、似た台詞を聞くほど小さくなっていくように見えた。
奏の番になった。彼女は舞台へ上がらなかった。
「始めてください」
鷺沢が言うと、奏は客席通路に立ったまま返した。
「確認したいことがあります。この役は、舞台へ上がらなければ成立しませんか」
「役者は舞台に立つものだ」
「この人物は、戻らない船を待っています。待っている人が、最初から灯台の中にいる必要はありますか」
鷺沢の眉が動いた。美晴は舞台上から奏を見下ろし、台本を閉じた。
「客席から始めたいの?」
「はい。でも、奇をてらいたいわけではありません。観客と同じ場所から立ち上がる方が、この人が待つ側へ移る瞬間を見せられると思います」
真帆は奏の三問目が空白だった理由を尋ねた。
「確認したいことを、紙に書く前に聞いていい現場か分からなかったからです」
客席が静かになった。
香坂の降板届は、出演契約と広告契約を分けるためのものだった。長峰が前回提示した条件も、穴埋めとして扱わないことだった。だが条件を紙に書いても、稽古場で質問できなければ、古い構造は残る。
真帆は鷺沢を見るのではなく、奏へ言った。
「聞いていいです。答えが出ていないこともあります。その場合は、出ていないと伝えます」
奏はうなずき、客席通路の一番後ろまで歩いた。
美晴が舞台上で最初の台詞を言った。
「明かりは、帰る者のために点けるのではない」
奏は答えなかった。九十九歩、ゆっくり歩いた。客席の階段、通路、舞台前の平らな床。朔が数えかけて、途中で声を止めた。奏は九十九歩目で舞台の縁に手を置き、上がらずに台詞を返した。
「では、残された者は、何を見て朝を知るのですか」
美晴の呼吸が変わった。稽古で何10回も読んだ場面なのに、舞台と客席の境目が岸壁に見えた。美晴は中央の印を離れ、舞台端まで歩いた。
「あなたが、明かりを消す時を決める」
台本にはない言葉だった。
鷺沢が止めようと手を上げたが、香坂が先に立った。
「続けてください」
奏は舞台へ上がった。ただし美晴と同じ中央には立たず、端に残った。2人の間に空いた距離が、帰らない船のための海になった。
場面が終わっても拍手はなかった。オーディションで候補者へ拍手をすると、人気投票のようになるため、最初に禁止していた。
その代わり真帆は、全員へ同じ質問をした。
「今の場面で、作品は何を得て、誰が負担しましたか」
候補者の1人が、客席通路を使うことで観客の出入りを妨げると答えた。別の1人は、奏が九十九歩を毎公演歩けば身体負担が偏ると指摘した。朔は、暗転中に客席階段を歩く安全確認が必要だと言った。
奏は自分の案を守ろうとせず、全部を書き留めた。
「なら、毎回同じ人が歩かない形も試したいです」
香坂が最後列から言った。
「僕も歩けます」
候補者たちが振り返った。香坂は舞台へ近づかず、その場で続けた。
「交代出演なのに、役の正解を僕が持ったままでは意味がない。長峰さんの案を僕が真似るのでもなく、僕の過去公演を長峰さんが再現するのでもない。歩く人が変われば、九十九歩の意味も変わるようにしたい」
鷺沢は長い間、台本を見ていた。やがて赤鉛筆で演出プランの中央線を消した。
「代役という呼び方も、変える必要があるな」
最終選考は1人を落とす形では終わらなかった。奏を交代出演者として契約候補にし、残る6人には群衆役と公開稽古の参加希望を改めて確認した。断っても次回選考に不利にしないことを、真帆がその場で書面へ加えた。
候補者が帰ったあと、美晴は舞台端に座り、真帆へ言った。
「客席から選ぶって、客席にいる人を舞台へ引っ張ることじゃなかったんだね」
「舞台から見えていなかったものを、客席に教えてもらうことだった」
美晴は真帆の手元にある九十九歩の図面を見た。
「これ、誰が作ったの」
図面の右下には作者名がなかった。だが真帆は、線の引き方を知っていた。12年前、自分が俳優を辞める直前に提出した初稿整理表と同じ癖だった。
真帆は劇場の古い制作フォルダを開いた。元データの作成者欄には、彼女の名前ではなく、鷺沢遼と表示されていた。
客席の照明が1つずつ消える中、真帆は無記名の図面を鷺沢の机へ置いた。
「次の稽古の前に、ポスターから消す名前と、戻す名前を話しましょう」
鷺沢はすぐには答えなかった。図面を裏返し、日付を確かめた。それは12年前、真帆が舞台を降りた週に作られたものだった。
「君が作ったと証明できるか」
「今ここで証明を求めているんじゃありません。劇場が、名前のない仕事をどう扱ってきたかを確認しています」
真帆は古い制作フォルダから、同じ週のメール一覧を印刷した。添付ファイル名は残っていたが、本文は欠落している。送信者欄も移行時に消えていた。確実な証拠ではない。だからこそ、鷺沢を盗用者と決めつけることも、真帆の記憶をなかったことにすることもできなかった。
美晴が2人の間へ入った。
「次のポスターを止めよう。名前の確認が終わるまで印刷しない」
制作会社への入稿締切は翌朝だった。止めれば追加費用が出る。進めれば、また誰かの名前を消すかもしれない。
朔が壁の工程表を見て、恐る恐る言った。
「仮タイトルだけの告知にできませんか。出演者の顔と名前を並べる前に、作品が変わっていることだけ伝える」
真帆は広告契約の修正版を開いた。香坂1人の顔を中心にしないことは決まっている。だが全員の名を載せるだけでは、制作、衣装、照明、受付の仕事がまた背景になる。
「名前を増やせば公平になる、でもない」
奏が帰り支度をやめ、客席から言った。
「今日、私が歩いた九十九歩は、受付の人が暗くなったことを見たところから始まりました。舞台に立たない人の仕事も、作品を変えています」
鷺沢は赤鉛筆を机に置いた。
「12年前、初稿を整理した資料を受け取った。私はそれを演出部の作業だと思い、最終図面にした。誰が作ったか確認しなかった」
「私が送ったと言っていますか」
「そうだと断定できない。ただ、君が作った可能性を考えなかった。それは私の責任だ」
謝罪は証明の代わりにはならない。だが、証明できないから責任もないという話ではなかった。真帆は図面を取り戻して終わらせず、調査手順を提案した。旧端末のバックアップ、当時の制作助手への確認、紙資料の筆跡と版番号。結果が出るまで、図面には〈作者確認中〉と記す。
香坂はポスターの案を破らず、顔写真の上へ白い紙を重ねた。
「僕の名前を消すことが目的じゃない。僕の名前だけで売れると言って、ほかの仕事を見えなくした仕組みを変えたい」
「では、何を載せる?」と鷺沢が聞いた。
真帆は今日の選考で使った3つの質問を見た。舞台で何が起きたか。客席で何が起きたか。上がる前に何を確認したいか。
「次の公開稽古では、完成した顔写真ではなく、確認中の問いを載せます。作品がまだ変わること、質問できること、参加を断れること。その3つを告知する」
広告として弱い、と誰かが言うと思った。しかし美晴は、初めて劇場へ来る人にはその方が入りやすいかもしれないと言った。完成品を見せられる場所ではなく、変わる途中へ立ち会える場所だと分かるからだ。
翌朝までに、朔が文字だけの仮ポスターを作ることになった。中央には作品名も俳優名も置かず、短い一文だけを置く。
〈あなたが気づいた欠けた場所から、稽古は始まる〉
候補者7人には、選考結果と同時に、今日の記録をどこまで公開してよいか確認するメールを送った。奏だけを成功例として宣伝しない。断った人や別の案を出した人も、作品を変えた参加者だった。
深夜、真帆は誰もいない客席に座った。舞台へ戻りたいかと聞かれ続けた12年間、制作の仕事は舞台に立てなかった人の避難所のように語られてきた。だが今日、客席の暗がり、契約の一行、質問する権利、名前のない図面が場面を作り変えた。制作は舞台の外ではなかった。
美晴が隣へ座った。
「戻す名前の中に、真帆の名前も入る?」
「調べてから。自分の記憶だけで決めたら、私も同じことをする」
「じゃあ、調べている人の名前は?」
真帆は少し考え、調査記録の担当欄に自分の名前を書いた。作品の所有を奪い返すためではなく、確認する仕事を無記名にしないためだった。
その時、朔から仮ポスターの初稿が届いた。中央の一文の下に、予定していなかった空白が1本ある。
〈この一行に、初日まで毎日1人ずつ名前を加えます〉
最初に加えられていたのは俳優ではなく、12年前に青葉座で受付をしていた女性の名前だった。真帆はその名を知っていた。自分の初稿整理表を、鷺沢へ渡したと最後に連絡してきた人だった。
拍手のないリハーサル
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