戻ってきた案内は17通だった。消えた1通だけが、空き家の郵便受けへ入っていた。
戸田直人(とだ・なおと)は朝7時、軍手をした桜庭澄江(さくらば・すみえ)に呼び止められた。澄江は郵便受けへ触れず、50センチ離れた場所から指をさしている。
「触らないんですか」
「触ったら、見守りじゃなくて開封係に任命されそうだからね」
直人は笑いかけ、すぐ真顔になった。昨夜まで返送箱にあった夏祭り案内が1通だけ消え、長く雨戸の閉まった家の郵便受けへ差し込まれている。誰かが善意で届け直したのかもしれない。誰かが不在を確かめたのかもしれない。
町内会の名簿には「空き家」と書かれていた。だが登録日は3年前で、確認者名がない。高梨芽衣(たかなし・めい)が地図へ重ねると、17軒のうち5軒は夜に明かりがつき、2軒は庭の水道が使われ、1軒には週末だけ子どもの自転車があった。
「空き家じゃなくて、町内会が暮らし方を知らない家です」と芽衣。
直人は17通を、宛先不明、受取辞退、転居先不明、投函禁止の4つへ分けた。戻ってきたという結果は同じでも、理由は違う。全戸訪問で確かめる案は早いが、不在時間を集める名簿にもなる。
鈴木保(すずき・たもつ)は防災上の安否確認を主張した。「災害時に誰もいないと思って救助が遅れたらどうする」
陳浩然(チェン・ハオラン)は逆を尋ねた。「誰かいると町内会に書かれたせいで、留守の時間を知られたらどうしますか」
会議は15分。直人は結論を急がず、決めるものを3つに絞った。郵便物へ触れられる人、連絡先を預ける相手、緊急時に共有する情報の範囲。
最初の笑える失敗は、直人自身だった。触れない札を作ろうとして「郵便受けに触らないでください」と印刷し、それを郵便受けへ貼るには触れる必要があると澄江に指摘された。
そこで札は門扉や共用掲示板へ置き、住人が自分で選べる返信はがきと短いウェブフォームを用意した。選択肢は「通常居住」「長期不在」「週末利用」「答えない」。町内会へ詳しい日程を書かず、緊急連絡先も本人が選んだ1か所だけに保管する。
防災用の情報はさらに分けた。救助時に人がいる可能性、電気やガスの停止希望、動物の有無。家族構成や不在日程は集めない。鈴木は物足りなそうだったが、必要情報を説明されると項目を2つ削った。
「昔は隣近所が全部知っていた」
「昔も、知られたくない人はいたと思います」と直人。「言えなかっただけで」
消えた案内を入れたのは、隣家の男性だった。返送箱から盗んだのではなく、配布担当が「どうせ空き家だから」と捨てようとしたものを拾ったという。本人は正しいことをしたつもりだった。
直人は責める前に、郵便受けへ入れる権限がないことと、案内を捨てる権限もないことを分けた。善意か悪意かではなく、誰が何をしてよいかが曖昧だった。
案内は回収しなかった。回収もまた郵便物へ触れる行為になる。代わりに投函日時と差出人だけを記録し、住人が来た時に説明できるよう封筒を追加で差し込まない札を門へ置いた。
その日の午後、家の持ち主から電話が来た。空き家ではなく、母親の介護で隣県と往復している。夏祭りには参加できないが、防災連絡は受け取りたい。ただし近所に不在日を知られたくない。
直人は謝罪し、名簿の「空き家」を削除した。代わりに本人だけが更新できる連絡コードを発行した。町内会役員には住所とコードの有効期限だけが見え、連絡先そのものは災害時に指定担当2人が同時承認した時だけ開く。
「大げさじゃないか」と鈴木は言った。
「大げさに見える仕組みで、誰か1人が全部知る必要をなくします」
直人は自分が管理者になる案も断った。30日限定の会長が、将来まで全員の連絡先を持つのはおかしい。澄江と鈴木、それに外部の地域包括支援窓口を加え、目的ごとに違う連絡先を預ける。
17軒の確認は訪問ではなく、公共料金や郵便物を町内会が調べない前提で進めた。返送理由だけを配布業者から受け取り、本人が希望する場合に限って登録を更新する。返事がない家は「空き家」ではなく「未確認」とする。
芽衣は地図の色を変えた。赤い空き家印を消し、未確認は輪郭だけの四角にした。「分からないことを、危険と同じ色にしない方がいい」
その言葉で鈴木が黙った。彼は防災放送を1人で抱えた理由を少し話した。15年前、避難対象外と書かれた家に寝たきりの男性がいた。名簿が古く、救助が遅れた。それ以来、分からない家を放置することが怖かった。
直人は恐れを否定せず、鈴木だけが知る運用にも戻さなかった。未確認の家は災害時に「不在」と扱わず、外から安全確認する。侵入が必要な場合は消防や警察へ渡し、町内会員が塀を越えない。
澄江は「これで鈴木さんも覗き係を退職できますね」と言った。鈴木は「一度も就職した覚えはない」と返し、会議で初めて笑った。
小さな試行として、週末利用の家の持ち主がフォームを使った。連絡先は娘、緊急時は犬1匹、ガス停止済み。回答後に「町内会へ参加しますか」という必須欄がないことを確かめ、ほっとしたと書き添えた。
見守りと加入勧誘を分けたことで、今まで返事を避けていた3人が連絡先だけを登録した。人数を増やす施策ではない。それでも災害時の選択肢は増えた。
消えた1通の家の持ち主は、週末に戻ってきた。郵便受けの案内を見て、直人へ電話した。「勝手に入れられたのは嫌です。でも、捨てられるよりはましだと思ってしまう自分もいる」
直人はどちらかへ決めさせなかった。今後の受取方法を選んでもらい、今回の無断投函は記録に残す。案内を届けた男性には、謝罪を強制的に訪問させず、本人が受け取りを選べる短い文書を書いてもらった。
文書には最初、「心配しただけです」とあった。直人は「だけ」を消してもらった。心配は理由になるが、許可にはならない。男性は書き直した。「心配して、確認せず投函しました。次は連絡経路を使います」
17通は再配布しなかった。住人が選べる窓口へ通知し、受け取りを希望した6人にだけ送った。4人は電子版、2人は指定した店舗で受け取り、残りは返答なしのまま保管期限を決めた。
直人は成果表へ「17通を届けた」と書けなかった。代わりに、無断投函0、空き家断定0、本人選択6、緊急連絡登録3、と記した。届かなかったことも失敗として隠さない。
会議の終わり、澄江が古い名簿の裏から紙片を見つけた。空き家印を最初につけたのは、3年前の会長ではない。役員名簿にない同じ筆跡が、47件の議題を増やした紙にも残っていた。
黒幕ではない、と直人は先に言った。筆圧と漢字だけで人を決めない。だが誰かが、役員でないまま町内会の仕事を長く引き受けていた可能性はある。
直人は新しい連絡手順を自分の退任後にも残せるよう、役職名ではなく担当番号で書いた。会長が替わっても、住民の選択が勝手に初期化されないためだ。
運用表には保管期限も入れた。返答のない案内を永久に積み上げれば、古い情報がいつか事実のように扱われる。紙は30日、緊急コードは1年で本人へ更新確認を送り、返事がなければ連絡先を閉じる。ただし家が無人だとは記録しない。
配布担当は住所を見る人と投函する人を分けず、持ち帰った封筒を自宅で保管していた。直人は責める代わりに、未配達箱を公民館の施錠棚へ移し、2人で件数だけ確認する手順を作った。封筒の宛名を会議資料へ写すこともやめた。
澄江は古い規約から「善良なる注意」という曖昧な文言を見つけた。全員が善良さを証明しようとすると、覗く人も抱え込む人も生まれる。直人は、善良さではなく禁止事項と相談先を1枚にした。開封しない、塀を越えない、不在日を共有しない。迷ったら触れずに番号だけ記録する。
試行初日、電子通知を選んだ住人へ紙も届ける二重配布が起きた。担当者は丁寧さのつもりだった。直人は謝り、丁寧さも本人の選択を上書きすると確認した。以後は受取方法を1つだけ有効にし、変更履歴を本人にも見えるようにした。
芽衣は高校生の立場で連絡先管理から外れた。地図作りに協力したからといって、未成年へ住民の個人情報まで渡さない。彼女は公開情報だけで避難路を更新し、「できる人へ全部任せない」が若い協力者にも適用された。
浩然の店は案内受取拠点になったが、誰が受け取ったかを店の客へ見せないため、番号札だけを使った。パンを買わなくても受け取れる。町内会加入を聞かない。日本語が難しい人向けに、4つの選択肢を絵でも示した。
直人は「未確認」の家へ毎週確認を繰り返す案を断った。返答しない権利が、催促の回数で消えてはいけない。災害情報だけは全戸共通の公開場所へ出し、個別連絡は本人が登録した場合に限る。
1週間後、17軒のうち2軒が実際に無人だと所有者から回答した。町内会へ鍵は預けず、管理会社と消防が必要時に連携する番号だけを登録した。町内会が空き家管理業者の代わりにならない境界も決まった。
鈴木は新しい一覧を見て、「知らない欄が増えた」と不安を漏らした。直人は空欄を減らす約束をせず、空欄ごとの行動を決めた。未確認なら外から声掛け、危険兆候なら専門機関、平時なら何もしない。知らないことを、勝手に知る理由にしない。
この仕組みで町内会の仕事は増えたように見えたが、実際には覗き込み、聞き込み、噂の照合が消えた。担当時間は1件3分以内になり、途中で辞めても番号から引き継げる。直人の逃げ道づくりが、また誰かの負担を小さくした。
成果報告会で、住人の1人が「昔より冷たい」と言った。直人は否定しなかった。「近さを強制しないぶん、冷たく見えるかもしれません。その代わり、助けを求めた時は誰の好意に頼らず動けます」
澄江はその横で、希望者だけが参加する月1回の縁側茶会を提案した。見守り制度へ雑談を義務づけず、会いたい人の入口は別に残す。制度と関係を分けることで、どちらも選べるようになった。
紙片の裏には犬の名前が12匹分並び、その横に飼い主ではない人の電話番号が書かれていた。
芽衣が首をかしげた。「町では、人の名前より犬の名前の方が正確に届くのかもしれません」
直人の携帯が鳴った。知らない番号からだった。
「うちの犬の名前で呼ばれている人を、探してくれませんか」
町内会長は、今日も逃げたい
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