町内会長は、今日も逃げたい 第2話:午前6時の防災放送

町内会長は、今日も逃げたい

午前6時、町は静かだった。

戸田直人(とだ・なおと)は目覚まし時計より先に目を開け、天井を見た。いつもなら防災塔から「本日も火の元に注意し、健やかにお過ごしください」と鈴木保(すずき・たもつ)の声が流れる。最後の「お過ごしください」だけ、15年間ずっと「おすごしくらさい」に聞こえる放送だ。

今日は聞こえない。放送室の鍵が消えたからである。

直人は布団の中で、会長代行を辞める理由が1つ増えたと思った。鍵の管理も、防災放送も、自分が引き受けた十七項目には入っていない。入っていない仕事は断れる。それが30日限定で就任した条件だった。

スマートフォンが鳴った。前年度書記の桜庭澄江(さくらば・すみえ)からだ。

「戸田さん、放送がないから、みんな起きてます」

「放送があった方が起きるのでは」

「ないことが気になって起きたの。七時に公民館ね」

「会議は15分です」

「鍵が見つかるまで」

「15分です」

直人は通話を切り、辞任届を入れた封筒へ「2日目」と書き足した。

公民館には、すでに12人いた。放送が止まって困った人が7人、静かで助かった人が5人。鈴木は腕を組み、時計を見ていた。高校生の高梨芽衣(たかなし・めい)は壁へ大きな町内地図を貼り、パン職人の陳浩然(チェン・ハオラン)は紙袋から小さなパンを配っている。

「会議中の飲食は禁止だ」と鈴木。

「朝ごはんなしの会議も禁止にしたいです」と陳。

直人は机へタイマーを置いた。「15分です。今日は放送を復活させるか廃止するか決めません。困ったことと助かったことを分けます」

最初に手を挙げたのは、78歳の中田だった。毎朝の放送を聞いて薬を飲んでいる。今日は30分遅れた。隣の若い母親は、夜泣きした赤ん坊が六時直前に眠り、放送がなかったので一時間眠れたという。

商店街の魚屋は、開店準備の合図にしている。夜勤明けの介護職員は、放送のたび目が覚める。登校する子どもにはほとんど聞こえていない。防音性の高い新築住宅では窓を閉めると届かない一方、古いアパートでは部屋の中まで響く。

鈴木が机を叩いた。「だから全員へ同じように聞こえるよう、音量を上げる必要がある」

芽衣が首を振った。「同じ音を出すことと、同じように届くことは違います」

彼女の地図には、青、赤、黄色の点が打たれていた。青は放送が生活の合図になっている家。赤は睡眠や体調に負担がある家。黄色はそもそも聞こえない家。1本道の両側に青と赤が並び、同じ塔から同じ距離でも結果が違う。

「一晩で調べたの?」と直人。

「前から部活で音の地図を作ってました。大人の会議は長いから出してなかっただけ」

タイマーが9分を示した。直人は、問題を解決するより会議から逃げ切る方法を考えた。「今日は3つだけ試します。音声が必要な人、文字が必要な人、個別の合図が必要な人を分ける。鈴木さんの放送は戻さない。内容だけを試験配信します」

鈴木の眉が上がった。「私の放送を勝手に文章へするのか」

「内容は町のものです。声は鈴木さんのものです。分けます」

陳が、店の注文通知に使う無料の一斉連絡サービスを見せた。文字で受け取れる人には、朝六時ではなく前夜八時に翌日の防災情報を送る。スマートフォンを使わない人には、希望者だけ玄関札を配り、近隣の短期担当が朝の散歩中に札の向きを確認する。

「見守りという名の監視になります」と澄江。

直人は頷いた。善意の仕組みほど断りにくい。玄関札は表が「連絡不要」、裏が「声かけ希望」。何も掲げない家は対象外とし、希望を毎月変更できるようにした。

音声を希望する人には、自動電話を使う案が出た。鈴木は録音を拒んだ。「災害の情報は、その日の空を見て読む。機械に昨日の声を流させるものではない」

直人は反論せず、鈴木が毎朝何を確認しているか尋ねた。雨量、川の水位、強風注意報、学校の休校、火災情報。放送原稿にはない確認が5つあった。

「それ、鈴木さんしか知らないんですか」

「部長の仕事だ」

「鈴木さんが風邪をひいたら?」

「風邪でも読む」

鈴木は胸を張ったが、澄江は目を伏せた。昨冬、高熱でふらつきながら放送室へ来たことを知っていた。

タイマーが鳴った。直人は立ち上がった。「終了です。続きは実験で決めます」

「鍵も見つかっていない」と鈴木。

「15分を超えたら、私が見つからなくなります」

笑ったのは陳だけだった。

午前8時、文字配信の試験を始めた。内容は「本日の定例放送はありません。急を要する防災情報もありません」。情報がないことを伝える一文だ。百二十世帯のうち三十八世帯が登録し、七世帯が家族経由で紙の通知を希望した。

鈴木は登録数の少なさを指摘した。「全員へ届かない」

「今までの放送も全員へ届いていませんでした」と芽衣。

彼女は責める口調ではなく、黄色い点を指した。鈴木は地図を見て、初めて新築地区のほとんどで音が届いていないと知った。

昼、直人たちは希望者3人へ自動電話を試した。機械音声ではなく、鈴木がその朝確認した項目を短く読んだ録音だ。中田は薬を飲む合図として使えたが、「鈴木さんが病気の日も電話は来るのか」と尋ねた。

鈴木は「病気にならない」と答えた。

中田は笑わなかった。「私も病気にならないつもりだった。だから薬を忘れる」

その言葉で、鈴木の肩が少し下がった。

午後、鍵探しを再開した。放送室の扉には新しい南京錠と、古い差し込み錠が2つ付いている。鈴木が持っていたのは新しい鍵。消えたと騒いでいたのは古い鍵だった。

澄江が規約ファイルを調べると、8年前の改修で新しい錠へ交換した記録が出た。しかし古い錠を外した記録はない。2つとも扉に残り、引継ぎ表にも「放送室の鍵」としか書かれていなかった。

「なくしたんじゃない」と直人。「存在しない役目を、まだ探していたんです」

古い鍵は盗まれていなかった。鈴木の机の奥に、使用停止の札を付けたまま保管されていた。本人が保管したことを忘れたのではない。新しい鍵と古い鍵を別々に引き継ぐ必要があると思い込み、毎年2本ある前提で確認していたのだ。

「無駄な確認ではない」と鈴木は言った。

「無駄だったかは責めません。でも来年も誰かが探します」

直人は古い錠を外す申請を出し、鍵台帳には写真を付けた。鍵の名前だけでなく、どの扉のどの錠かが分かるようにする。鈴木しか知らない5つの確認項目も、1枚の朝点検表へ分けた。

「私の仕事をマニュアルにするのか」

「鈴木さんを交代させるためではなく、休めるようにするためです」

「休む必要はない」

「休まない人しかできない仕事は、防災として弱いです」

鈴木は怒って帰るかと思われた。だが彼は点検表の「川の水位」という欄へ、「上流の色も見る」と追記した。数字が同じでも濁り方で流木の危険が分かるという。

芽衣がその知識を地図へ書き込もうとすると、鈴木は止めた。「地図だけでは分からない。現場へ行く必要がある」

「なら、一緒に行ける人を2人に教えてください」

鈴木はすぐ答えず、翌朝5時40分に集合と言った。芽衣は「学校があるので6時20分まで」と条件を出した。鈴木は不満そうだったが受け入れた。

夕方の臨時会議も15分で終えた。放送を廃止せず、毎朝の定例音声は一週間休止する。緊急放送は残す。日常情報は前夜の文字、希望者への電話、公民館掲示へ分ける。実験後に困った人と助かった人をもう一度数える。

鈴木の声を残してほしいという意見もあった。直人は、声を町の所有物にしないと決めた。鈴木が担当を降りた後も録音を使うなら、その都度本人の同意を確認する。代わりに、点検項目と判断理由は町の共有記録にする。

「声より判断を残すのか」と鈴木。

「声は真似できません。判断は渡せます」

鈴木はその日初めて、少し笑った。「判断も簡単には渡せん」

「簡単じゃないから、今から2人に渡します」

実験の前夜、直人は登録できなかった世帯を「未登録」と一覧にする案を止めた。未登録という言葉は、参加すべき手続きをしなかった人のように見える。実際には日本語の通知を読みづらい人、端末を持たない人、町内会へ連絡先を渡したくない人がいる。

陳は店頭に、日本語、やさしい日本語、中国語、英語の四種類で短い案内を置いた。翻訳文には「登録してください」ではなく、「受け取りたい方法があれば選べます」と書いた。選ばない人には、緊急時以外の連絡を送らない。

芽衣は地図の黄色い点を「届かない家」から「別の方法を選べる場所」へ呼び替えた。放送が聞こえない家を欠席扱いにしないためだ。鈴木は言葉遊びだと言ったが、地図を見に来た住民が自宅へ点を打つとき、前よりためらわなくなった。

夜勤明けの介護職員は、緊急放送だけは寝室ではなく台所の小型受信機へ送れるか尋ねた。すぐにはできなかったため、実験期間中は家族の端末へ転送することにした。完成した仕組みを押しつけず、一週間だけ試してやめられる形にした。

直人は試験表の一番上へ、「参加しないことで不利益を受けない」と書いた。町内会の連絡を受け取らない自由も、防災情報へ別経路で届く権利も、同時に残す必要があった。

翌朝六時、放送塔は静かなままだった。中田の電話は6時5分に鳴り、薬の時間を知らせた。夜勤明けの介護職員は眠れた。魚屋には前夜の文字が届き、いつもどおり店を開けた。全員が満足したわけではない。スマートフォンの通知を見落とした人も1人いた。

直人は失敗を消さず、次の試験で通知時刻を選べるようにした。町の仕組みを一度で完成させない。変更したら、困る人をもう一度探す。それを会長の善意ではなく手順にする。

公民館の入口で、澄江が言った。「戸田さん、今日は逃げなかったわね」

「15分ごとに逃げました」

「それを世間では休憩というの」

直人は辞任届の裏にある十七項目のうち、「防災放送」を4つへ分けて書き直した。情報確認、緊急判断、配信方法、希望確認。1人分の仕事だったものが、30分以下の小さな役割になった。

会議終了のタイマーが鳴る直前、議題箱へ白い紙が1枚落ちた。誰が入れたかは見えなかった。

『放送を止めた本当の人を知っています』

直人は紙を裏返した。裏面には、午前6時の放送で15年間ずっと言い間違えられていた一文が、正しい漢字で書かれていた。

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町内会長は、今日も逃げたい

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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