戸田直人(とだ・なおと)が町内会長代行を辞めるまで、あと22日。
役員を置かない30日試行の初日、町内会館の机には承認待ちの書類が13枚積まれていた。
夏祭り道路使用申請、防災倉庫の棚購入、見守り腕章の追加、集会所の雨漏り修繕。すべての右下に、会長印と副会長印の欄がある。
直人は印鑑箱を開けた。会長印はあった。副会長印は空だった。
「副会長を置かない試行なのに、副会長印が必要なんですか」
パン職人の陳浩然(チェン・ハオラン)が聞いた。今日の役割は15分だけの書類読み上げ係で、会議が終われば店へ戻る。
前年度書記の桜庭澄江(さくらば・すみえ)は、規約の古い付則を指で押さえた。
「町内会の中では不要。でも、この申請書を受け取る外側の組織が、昔の役職欄を使い続けています」
直人は逃げたくなった。内部の仕組みを変えれば終わると思っていたのに、書類の向こうには役所、警察、業者、銀行がいる。町内会長という役名を消しても、欄は消えない。
そこへ、高梨芽衣(たかなし・めい)が学校帰りに顔を出した。
「副会長、決まったんですか」
「置かないことに決めた」
「じゃあ、誰の判子がないんですか」
質問が正確すぎて、直人は黙った。
13枚のうち、本当に副会長印を必要とする根拠が書かれていたのは2枚だけだった。残り11枚は、前年の様式をコピーしたため欄が残っているだけだった。
「まず、必要と書いてあるものと、欄があるだけのものを分けましょう」
直人は付箋を赤と青に分けた。赤は法令や契約で複数承認が必要なもの。青は慣例。すると鈴木保(すずき・たもつ)が腕を組んだ。
「判子は責任の所在だ。減らせば、何かあった時に誰が責任を取る」
「今まで、誰が責任を取っていましたか」
陳が尋ねた。
鈴木は会長と副会長だと答えた。だが雨漏り修繕の見積内容を確認したのは源一という大工で、棚の寸法を測ったのは鈴木、防災倉庫の利用者へ聞いたのは芽衣だった。判子を押した2人が、全部を判断したわけではない。
澄江は過去5年分の申請控えを出した。副会長印は毎年きれいに押されていたが、その人物がどこを確認したかは一行も残っていない。
直人はホワイトボードに書いた。
〈判子=全部分かった人、ではない〉
「では、確認した内容ごとに名前を残します。寸法、金額、安全、住民への案内。全部を1人の役職へまとめません」
鈴木は納得しなかった。
「名前だけ増やして、最後に決める人がいないのは困る」
それも正しかった。確認者を分散しても、支出を決める権限は必要だ。
直人は30日試行の付則を読み直した。そこには、役員を固定しない期間、案件ごとに2名以上の短期承認者を選べるとあった。ただし同じ世帯から2人を選べない。金銭の支出では、依頼した人と支払う人を分ける。
「副会長の代わりを1人決めるのではなく、案件ごとに承認者を2人決めます。確認した項目も書く。期間はその案件が終わるまでです」
芽衣が手を上げた。
「高校生は承認者になれますか」
会則では議決権がない。だが確認者にはなれる。通学路の安全確認なら、大人だけより芽衣の地図が必要だった。
「確認者として名前を残せる。最終承認者は別にする」
「名前を残したくない人は?」
匿名箱を提案した住民のことだった。
直人は、公開用と内部記録を分けることにした。公開一覧には役割と確認日だけを載せ、個人名は本人が同意した場合だけ。会計記録には責任追跡のため実名を残すが、閲覧者を会計担当と監査担当に限定する。
最初の案件は、防災倉庫の棚だった。鈴木が寸法と耐荷重を確認し、澄江が予算と付則を確認する。購入依頼は陳、支払いは直人。芽衣は通路幅を地図で確認する。
「結局、直人さんが支払うなら、会長に集まるのは同じじゃないですか」
陳の指摘に、直人は頭を抱えた。
会長印を金庫から出せるのが直人だけだった。副会長印をなくしても、会長印が最後の門として残っている。
澄江は印鑑箱の底から、もう1枚の紙を出した。20年前の付則の運用細則。会長印を使えない場合、案件番号と2名の署名をもって代えることができる。ただし、使った実績は一度もなかった。
「なぜ今まで使わなかったんですか」
「署名を2人から集めるより、会長を探す方が早かったから」
早い方法が、いつの間にか1人しかできない方法になっていた。
直人は会長印を押さず、案件番号〈防災棚〇八一六〉を付けた。鈴木と澄江が、自分が確認した項目の横へ署名する。
ところが鈴木はペンを止めた。
「耐荷重は分かる。だが価格が適正かは分からん。そこへ署名したことにされたくない」
「なら、耐荷重だけに署名してください」
直人は欄を4つに分けた。安全、費用、必要性、支払手続。全部へ丸を付けなくていい。分からない欄には〈未確認〉と書ける。
鈴木は初めて安心したように息を吐いた。
「判子は、分からないと言えなかったんだな」
1つ押せば、書類全部へ賛成したように見える。だから押す前に長い説明を聞き、断れず、役職者だけが疲れていった。
午後、直人たちは役所の地域支援窓口へ棚の申請書を持ち込んだ。担当者は副会長印のない書類を見て眉を上げた。
「様式上、ここが空欄です」
直人は付則と、案件別承認記録を示した。
「副会長を置かない試行中です。確認内容と承認者は、こちらに分けて記録しています」
担当者は前例がないと言った。直人の背中に、いつもの逃走経路が浮かんだ。今日は持ち帰りますと言えば、揉めずに帰れる。
しかし陳が隣で、小さな声で言った。
「分からない時は、誰がいつ確認するかを決める会議でしたよね」
直人はうなずいた。
「却下でしょうか。それとも、確認が必要でしょうか」
担当者は上司へ確認すると答えた。回答期限は三営業日。直人はその場で、担当部署、確認事項、期限を書いた。結論は出なかったが、誰かが持ち帰る場所は決まった。
町内会館へ戻ると、匿名箱に封筒が1つ入っていた。中には副会長印があった。
空だった印鑑箱から消えたのではない。前年度の副会長が、自宅へ持ち帰ったままだった。
添えられた手紙には、こう書かれていた。
〈押した書類の内容を、私はほとんど覚えていません。会長に頼まれたから押しました。返すのが怖くて、1年持っていました〉
鈴木は印鑑を見つめた。
「盗んだわけではない。責任だけ持ち帰ったのか」
直人は前副会長へ電話をかけなかった。まず、返却を受け取ったこと、責任を追及しないこと、必要なら匿名のままで当時の運用を教えてほしいことを書いて、同じ箱へ入れた。
副会長印は再び印鑑箱へ戻さず、透明な封筒へ入れた。表には〈使用停止・運用確認中〉と書いた。
その日の夕方、役所から電話が来た。案件別承認記録を添付するなら、当面は副会長印なしで受理できる。ただし他部署でも同じとは限らない。
直人は成功とは書かなかった。〈一部署で試行受理〉と記録した。できたことを大きく言えば、次にできなかった人が責められる。小さく正確に残す方が、逃げ道を守れる。
13枚の書類は、その日のうちに全部終わらなかった。4枚は根拠確認、3枚は見積不足、2枚は住民への説明が先。処理できたのは4枚だけだった。
それでも、誰も「会長が押しておいて」とは言わなかった。
直人は空欄になった副会長印の欄へ、赤字で1本の矢印を書いた。
〈この欄が必要な理由を、先に確認する〉
帰り際、澄江が次の議題を机へ置いた。夏祭り実行委員会からの申請だった。
「今年も例年どおり開催、会長印をお願いします」
直人は申請書を開いた。予算欄には前年と同じ数字、担当者欄には〈町内会役員一同〉。誰が何をするかは、1つも書かれていない。
判子より大きな空欄が、夏祭りの中に残っていた。
翌朝、直人は13枚の書類を玄関の壁へ貼り出した。ただし個人名や金額の詳細は隠し、現在地だけを色で示した。緑は承認済み、黄色は確認待ち、青は説明待ち、白は依頼者へ差し戻し。終わっていない書類を隠さず、誰かが止めているようにも見せないためだった。
最初に足を止めた住民は、雨漏り修繕を依頼した女性だった。
「まだ黄色なんですね。反対されているんですか」
「反対ではなく、屋根全体の修繕か、漏れている部分だけかを業者へ確認中です。金曜日までに回答をもらいます」
女性は安心したようにうなずいた。未承認という一語では、拒否、放置、確認中の区別がつかなかった。直人は進捗欄へ〈誰が〉ではなく〈何を〉待っているかを書くことにした。
昼前、前年度の副会長から匿名箱へ2通目の手紙が届いた。
〈判子を返したので、もう関係ないことにしたいです。でも1つだけ。去年の夏祭りの支出は、見積書を見る前に押しました〉
手紙には業者名も不正の告発もなかった。ただ、自分が確認していないことへ押印した事実だけが書かれていた。直人は過去を暴く材料にせず、今年の手順を変える根拠として扱った。
夏祭りの申請を、支出、道路、安全、出店、騒音、片づけの六項目へ分けた。各項目は30分以内の確認作業にし、できる人を募る。全体を背負う実行委員長は置かない。
募集文を見た鈴木は、夏祭りがばらばらになると心配した。
「最後に1本へまとめる人は必要だろう」
「まとめる人は必要です。でも、決める人、調べる人、働く人を同じ1人にしないようにします」
澄江は〈まとめ役〉の任期を一週間と書いた。次の週には別の人へ替われる。引継ぎには直人の辞任届の裏面にあった十七項目の表を使う。
陳は出店確認へ名乗り出た。ただし条件として、店の仕込みがある朝六時から十時は連絡を受けないことを書いた。芽衣は通学路と重なる道路区間だけを見る。鈴木は防災動線。澄江は昨年の支出記録。直人は全体ではなく、未担当の項目を見つける係になった。
誰も手を挙げなかったのは片づけだった。
以前なら、役員一同という言葉で消されていた仕事だった。直人は空欄を埋めず、赤い紙のまま残した。
「担当がいないなら、規模を小さくするか、片づけ費用を予算に入れます」
祭りを続けることより、終わった後の仕事を先に決める。その提案に、鈴木はしばらく黙った後、自分1人で倉庫へ運んだ去年の椅子の数を話し始めた。
直人はその数を美談にせず、必要な人数と時間へ変えた。折りたたみ椅子八十脚、机12台、分別袋40枚。4人で90分。2人なら三時間。人が集まらなければ、椅子を半分にする。
壁の赤い紙の前で、初めて2人が「一時間なら」と名前を書いた。役職ではなく、終わる時刻が見えたからだった。
副会長印の透明封筒は、会館の金庫ではなく、壁の説明欄へ移された。押せない判子を見せ物にするためではない。何を確認したか分からない承認へ戻らないための、30日だけの標識だった。
直人の退任まで、あと21日。逃げ道は少なくなっていなかった。誰か1人が全部から逃げなくてもよいように、出口の数が増えていた。
町内会長は、今日も逃げたい
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