町内会長は、今日も逃げたい 第9話:会長職廃止の付則

「会長職を、廃止します」。直人(なおと)が読み上げると、集会所の蛍光灯が1本だけ消えた。誰かが劇的な合図だと言い、鈴木保(すずき・たもつ)は単なる寿命だと脚立を取りに立った。未提出の付則は20年前の日付を持ち、最初の署名者はその鈴木だった。

付則は茶色い紙に6条まで印刷されていた。第1条は会長の代表権、第2条は会計承認、第3条は防災、第4条は行政連絡、第5条は紛争調整を、それぞれ別の当番へ分ける内容だった。第6条だけが空白で、末尾に提出日も廃案印もない。

直人は、自分が辞めたいからこの紙を利用しているのではないかと先に言った。澄江(すみえ)は「それは全員知っている」と答え、芽衣(めい)は笑った。隠して立派な改革に見せるより、利害を公開した方が話しやすい。直人は議長席を降り、説明者の椅子へ移った。

鈴木は署名したことを覚えていた。「あの年、会長が倒れても町は2週間動いた。なら最初から分ければいいと思った」。だが、なぜ提出しなかったのかは話したくないと言った。直人は理由を迫らず、紙に残る事実から確かめることにした。

古い回覧板には、翌月から4週間の試行日程が書かれていた。月曜は行政連絡、水曜は会計確認、土曜は防災点検。担当者名はなく、参加できる人が当日札を取る方式だった。実施前に中止されたなら、なぜ具体的な日程だけが残ったのか。

会計箱を調べると、20年前の4週間だけ会長印が使われていなかった。それでも電灯代も集会所代も支払われている。金庫の鍵は会長宅ではなく、商店、学校、消防団の3か所に分けて保管されていた。付則は未提出でも、試行は一度行われていた。

澄江は当時の領収書を3つの机へ分けた。支出を提案した人、確認した人、支払った人が別々に署名している。1人の会長印がないせいで遅れた支払いはない。むしろ、何を誰が確認したかは今より分かりやすかった。

では、なぜ元へ戻したのか。陳が尋ねた。回覧板の最終日には、「試行終了。会長職へ復帰」とだけある。反対人数も事故も書かれていない。鈴木の署名の横には、賛成印も反対印もなく、ただ「第6条待ち」と鉛筆で残っていた。

第6条に必要だったのは、困ったときの最終責任者だった。5つの役割へ分けても、どれにも当てはまらない問題が起きたとき、誰が決めるのか。それを決められず、町は慣れた会長へ全部を戻した。仕組みが失敗したというより、最後の空白を1人で埋める癖に戻ったのだ。

直人は「では私が第6条を担当します」と言いかけ、飲み込んだ。それでは会長という名前を消し、同じ役を残すだけになる。逃げたい人間ほど、短期の例外担当なら引き受けられる気がしてしまう。だが例外は、いつも日常になっていく。

芽衣は、最終責任者ではなく最終停止条件を決めればよいと言った。迷ったら誰か1人が決めるのではなく、その仕事をいったん止める。期限、金額、安全性の3つで停止基準を置き、再開には異なる2人の確認を必要とする。決められないことを失敗にしない条文だ。

鈴木は、それが20年前に書けなかった答えだと認めた。当時、夏祭りの会場変更を誰も決められず、雨の中で準備が遅れた。住民は「やはり会長が必要だ」と言い、試行の成果より1度の迷いを重く見た。鈴木自身も疲れ、反論しなかった。

直人は成功だけを掘り出して改革の根拠にはしなかった。20年前の試行で困った人を探し、話を聞いた。屋台の店主は連絡先が5つに分かれて混乱した。高齢者は担当札の意味が分からなかった。役割分散は、窓口まで分散させてしまっていた。

そこで今回の試行では、入口を1つ、判断を複数にした。電話番号と受付机は変えない。受けた相談を、会計、防災、連絡、調整、記録へ振り分ける。住民は組織図を覚えなくてよい。内部だけが、1人へ全部を渡さない。

5つの役割は任期を持たない。1回30分、1件だけ、1週間だけでもよい。途中で返すときは理由を書かず、未確認事項だけを残す。経験者は答えを代わりに出すのではなく、次の人が確認する場所を示す。

会計承認だけは法律や銀行の手続き上、代表名が必要だった。直人は名義を残すことと判断権を集中させることを分けた。銀行上の代表者は支払い内容を決めず、2人の確認済み記録を送る役だけにする。金庫の鍵と会長印は同じ人へ渡さない。

行政からの文書も、会長宛てをやめられないものがある。野々村光が役所へ確認し、宛名は代表者でも、回答者を複数登録できる制度を見つけた。今まで使っていなかっただけだった。直人は「制度が古い」で終わらせず、使える余白を1つずつ拾った。

集会所で模擬相談を行った。題は、空き地の草が伸びて危ないというもの。受付の澄江が場所と危険だけを記録し、所有者確認を陳へ、安全確認を鈴木へ、費用見積もりを芽衣へ渡した。直人は机の端で時計を測った。

12分後、草刈りを町内会が勝手に行わず、所有者へ期限付き連絡を送り、歩道側だけ役所の安全措置を依頼する案ができた。誰も会長へ許可を求めなかった。直人が口を出そうとしたのは3回、そのうち必要だったのは0回だった。

2つ目の題は難しかった。祭りの寄付を断った店が、回覧板から名前を外されたという相談。事実確認と感情の調整が重なり、誰も札を取りたがらない。以前なら直人が引き受け、帰宅後まで電話を続けていた。

新しい第6条を使い、処理を24時間止めた。止めている間に、名前を外す決定と回覧板の印刷を別の人が行ったことが判明した。寄付の有無ではなく、掲載同意の更新漏れだった。急いで悪者を決めなかったことで、店へ訂正と謝罪を分けて届けられた。

「止めるだけなら、逃げているのと同じじゃないか」。住民の1人が言った。直人は、逃げることを否定しなかった。逃げた後に誰も分からなくなるのが問題で、止めた場所と再開条件が残るなら、それは撤退ではなく引き継ぎだと答えた。自分自身へ言っているようでもあった。

採決の前に、直人は辞任願を机へ置いた。ただし、付則が通らなければ辞めるという脅しには使わないと宣言した。辞任と制度変更を交換条件にすれば、結局会長1人の意思で町を動かすことになる。辞任願は別の日程で扱う。今日は1か月の試行だけを決める。

賛成18、反対3、保留5。全会一致ではなかった。反対した人には、緊急時に責任が見えなくなる不安があった。保留した人は、役割を頼まれること自体を負担に感じていた。直人は少数意見を説得不足として消さず、試行の検証項目へ入れた。

第6条にはこう書いた。「分類できない案件は、担当者を指名せず一時停止する。停止した者は解決責任を負わない。再開条件を公開し、異なる立場の2人が確認する」。鈴木は20年前の署名の隣へ、今日の日付で再び名を書いた。

翌朝、直人はいつもの会長席へ座らなかった。受付机には澄江、電話当番には陳、記録には芽衣がいた。鈴木は蛍光灯を交換したが、それを防災実績には数えなかった。直人は試行の検証表だけを持ち、誰も札を取らなかった時間を記録した。

午前10時までに、相談は4件。3件は会長なしで進み、1件は停止された。止めた案件は、集会所の利用料を無料にしてほしいという依頼だった。無料にする権限を持つ人はいなかったが、減免基準を次の会議で決めるところまで整理できた。

直人は、自分が不要になった安堵と、少しの寂しさを同時に感じた。辞めたいと言い続けた役が本当に消え始めると、自分まで消えるように思える。芽衣はその顔を見て、「暇なら入口の看板をまっすぐにしてください」と言った。役職ではなく、今日できる仕事が残っていた。

正午、会計担当の端末が鳴った。町内会口座へ3万円が振り込まれた通知だった。寄付者名は空白。摘要には「会長職廃止祝い」とある。誰も頼んでおらず、受け取る条件も決めていない。

直人は反射的に返金を決めそうになり、手を止めた。受け取る、返す、警察へ相談する、そのどれを誰か1人が決めても新しい制度の試験にならない。第6条に従い、3万円を動かさず停止表示を付けた。

入金時刻は、20年前の試行が終わったのと同じ午後6時12分。銀行の振込予約日は、鈴木が最初の付則へ署名した日だった。直人が鈴木を見ると、彼は首を横へ振った。「祝い金じゃない。たぶん、あのとき返せなかった金だ」

20年前の会計簿には、同額の支出が1件だけあった。名目は「臨時連絡費」。領収書はなく、代わりに5人の受領印が並ぶ。付則の試行中、台風で孤立した5世帯へ携帯電話を借りるために使った金だった。後日、補助金で補填される予定が、申請者名を決められず戻ってこなかった。

鈴木は自分が立て替えたと認めた。ただし、今回の振込はしていない。通帳には20年間、毎月125円ずつ別口座へ積み立てられた記録があった。3万円は誰か1人の寄付ではなく、当時の5世帯が少しずつ返していた金だった。

直人は感動話として回覧板に載せる案を止めた。5世帯が返金を望んだか、匿名を望んだかは確認できていない。鈴木へ渡すにも、町内会が受け取るにも本人たちの意思が要る。善意の物語にすると、返さなかった人まで比べられてしまう。

新制度の最初の難題は、役職を分ければ自動で解ける問題ではなかった。会計担当は金を動かさず、記録担当は出所を断定せず、連絡担当は5世帯へ公開可否を尋ねる。直人は誰も選ばない間の停止期限だけを確認した。

5世帯のうち2世帯は転居し、1人は亡くなり、連絡できた2人も返事が違った。1人は鈴木へ返したい。もう1人は、当時使えたように次の災害通信費へ置いてほしい。1つの入金に1つの善意があるわけではなかった。

直人たちは3万円を分割せず、意思が揃うまで預り金として凍結した。急ぎの防災費へ使えば喜ばれそうでも、使途を後から正当化しない。30日後に合意できなければ銀行へ組戻しを相談する。止める条文が、初日に本当に役立った。

鈴木は、自分の立替金ではなく町が動いた時間への返金だと言った。「俺に返されたら、また会長1人の手柄になる」。直人はその言葉を議事録へ入れず、本人の許可を取って制度の検証欄へだけ残した。

夕方、入口の看板には会長名の代わりに、本日の担当札が5枚並んだ。直人の名前は「検証」の小さな欄にだけある。帰ろうとしたとき、空白だった連絡札を中学生が裏返し、「明日の30分ならできる」と書いた。会長をなくす試行は、役割を減らすだけでなく、入口を増やし始めていた。

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町内会長は、今日も逃げたい

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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