風向きが変わる日 第3篇:名前を呼ばない花屋

NEW MYTH 一日を、もう一度 cover

商店街の端にある花屋「余白」では、客の名前を声に出さない。

注文票には受取人の名を書く欄がある。けれど店主の犬飼澄(いぬかい・すみ)は、花束を渡す時も番号札だけを呼んだ。三番のお客様。七番のお客様。常連であっても同じだった。

その理由を尋ねる人には、聞き間違いを防ぐためだと答えた。旧姓、通称、読みにくい漢字。花を贈る日には、名前を知られたくない事情もある。説明はどれも本当だったが、全部ではなかった。

8月16日の朝、開店前の扉を叩いたのは、紺色の制服を着た女性だった。

「今日の夕方までに、白い花だけで一束作れますか」

女性は40歳くらいに見えた。胸の名札は裏返されている。澄が用途を尋ねると、退職祝いだと答えた。

「どなたのですか」

「私のです」

女性は少し笑い、注文票の受取人欄へ〈佐藤さん〉と書いた。下の名前は書かなかった。

予算は三千円。白いトルコキキョウ、白いリンドウ、葉を少し。香りは弱く。持ち帰り袋は透けないもの。カードは不要。

「お渡しは十七時です。番号札は十二番」

澄が札を差し出すと、女性は受け取らず、カウンターに置いた。

「なくすと困るので、ここへ置いておいてもらえますか」

「番号が分からなくなります」

「名前を言えば、分かりますよね」

澄は答えなかった。女性は名札を裏返したまま店を出た。

午前中、注文が重なった。結婚記念日の黄色いバラ、入院した友人へ贈る青いデルフィニウム、発表会を終えた子どもへの小さなガーベラ。澄は花を切り、束ね、番号を呼んだ。

正午過ぎ、隣の文具店の主人が段ボール箱を運んできた。新しい注文票だった。

「また名前欄を小さくしたのか」

「必要な分だけでいいから」

「昔は、名前を覚えるのが商売だって言ってたのにな」

澄は返事をせず、箱の底に残った古い伝票を見た。10年前の紙だった。文具店の倉庫に紛れていたらしい。

一番上に〈犬飼志穂(いぬかい・しほ)〉とある。澄の姉の名前だった。

姉は結婚後も仕事では旧姓を使い、病院では婚姻後の姓で呼ばれていた。離婚した後、どちらの姓へ戻すか決めないうちに事故で亡くなった。葬儀の日、店へ届いた花の宛名は三種類あった。親族はどれが正しいかで言い争い、澄は祭壇の前で何度も姉の名を訂正した。

それ以来、名前を間違えない方法として、名前を呼ばなくなった。

古い伝票の用途欄には〈自宅用〉とだけ書かれていた。花は白いカラーを5本。受取日時は、事故の一週間前。担当者欄には澄の字で〈未受取〉とある。

澄は記憶を探した。姉が注文したことも、取りに来なかったことも覚えていなかった。受け取られない花は閉店後に短く切り、店頭の小瓶へ移す。それが誰の花だったかは残さない。

午後2時、朝の女性が戻ってきた。今度は制服ではなく、薄い灰色のシャツを着ていた。胸に名札はない。

「注文を変えたいんです」

「白以外を入れますか」

「受取人の名前を消してください」

澄は注文票を出した。女性は〈佐藤さん〉に1本線を引いた。

「会社で22年、ずっと佐藤さんと呼ばれていました。部署に佐藤が4人いたので、最後は経理の佐藤さん。送別会では、みんながそう呼ぶと思います」

「下のお名前を書きますか」

「それも、まだしっくりこなくて」

女性の名は理恵(りえ)だった。名字は佐藤。だが母の介護を終え、仕事も辞め、来月から故郷を離れる。自分を説明していた所属が一度に消えるため、花束だけ先に用意したという。

「退職祝いなのに、誰にも渡されないのは寂しいでしょうか」

「ご自分で受け取るなら、渡す人はいます」

澄はそう言った後、自分が番号札だけで花を渡してきたことに気づいた。渡す相手を間違えないために、その人が何と呼ばれたいかを尋ねずに済ませていた。

理恵は店の奥にある白いカラーを見た。

「あれも白い花ですか」

「はい。ただ、今日の入荷ではありません」

古い伝票を見つけた後、澄は姉が頼んだ5本を再現するようにカラーを取り置いていた。自分で理由を決められず、売り場へ出せずにいた。

「1本だけ、入れてもらえますか」

「これは別の人のために残した花です」

「では、やめます」

理恵は簡単に引いた。欲しいと言った後で、相手の事情を知ればやめられる。その小さな動作が、澄には姉の伝票より強く残った。

午後3時、送別会の幹事だという若い男性が店へ来た。

「経理の佐藤さんが、自分で花を注文したと聞きまして。会社で用意したものと重なるので、こちらをキャンセルできますか」

澄は本人以外へ注文内容を話せないと断った。

「でも本人のためです。2つもいらないでしょう」

「必要かどうかを決めるのは、注文した方です」

男性は不満そうだったが、会社の花束が赤とピンク中心だと教えた。22年勤めた女性らしく華やかに、と上司が決めたという。

澄は理恵の注文票に触れた。白、香りは弱く、透けない袋。そこには会社が知ろうとしなかった選択が並んでいた。

4時半、澄は花束を作り始めた。トルコキキョウの重なった花びら、まっすぐなリンドウ、銀色の葉。白は別れの色だけではなかった。次の色をまだ決めていない人が、自分の余白を持つための色にも見えた。

最後に、取り置いていたカラーを1本手にした。姉のために置くのか、理恵へ入れるのか、自分の店に飾るのか。

澄はカラーを花束へ入れなかった。代わりに店の作業台へ一輪挿しを置き、そこへ立てた。未受取のままにせず、誰かの物語へ流用もしない。姉が自宅用に選んだ花を、姉を覚えている自分の仕事場で受け取ることにした。

十七時、理恵が来た。会社の大きな花束を抱えている。赤いバラの間に金色の飾りがあり、透明な包装から〈経理の佐藤さんへ〉という札が見えた。

澄は番号を呼ばなかった。

「今日、どのようにお呼びすればいいですか」

理恵はすぐに答えなかった。会社の花束を足元へ置き、白い花束を見た。

「理恵、と。今日は下の名前で受け取りたいです」

「理恵さん。お待たせしました」

澄は両手で花束を渡した。

理恵は白い花の中にカラーがないことには触れなかった。代わりに、作業台の一輪を見て尋ねた。

「その花は、どなたのですか」

澄は10年前なら、売り物ではありませんと答えただろう。

「姉の志穂が、自分のために選んだ花です。今日、私が受け取りました」

理恵は「きれいですね」とだけ言った。慰めも事情の詮索もしなかった。

店を出る前、理恵は会社の花束から宛名札を外した。捨てずに裏返し、白い面へ自分で〈理恵へ〉と書いた。2つの花束を左右の腕に抱え、少し不格好なまま笑った。

「2つとも持って帰ります。どちらも、今日までの私が受け取ったものだから」

閉店後、澄は店の入口にある案内を書き換えた。

〈当店では、お名前を声に出しません〉という一文を消し、その下へ新しく書いた。

〈花束を渡す前に、今日のお名前をお尋ねします。答えたくない方には、番号でお渡しします〉

名前を呼ぶか、呼ばないか。どちらか1つを正しさにするのではなく、受け取る人が選べる扉を残した。

澄は一輪挿しのカラーを店の窓辺へ移した。夜の風が入ると、白い花は誰にも呼ばれないまま、初めて自分の方を向いた。

理恵が帰ったあと、文具店の主人が閉店札を見ながらもう一度顔を出した。

「古い伝票、捨てるなら引き取るぞ。個人情報だからな」

澄は姉の伝票だけを特別扱いせず、保管期限を過ぎた伝票の処理方法を確認した。名前の部分を裁断し、花の種類と用途だけを匿名の記録として残す。記憶を守ることと、他人の名前を持ち続けることは同じではなかった。

2人で箱を仕分けると、未受取の注文がほかにも6件あった。転勤祝い、謝罪、出産祝い、用途未記入。澄はそれらを「取りに来なかった人」として1つにまとめていたが、電話番号の記録を見ると、店側が連絡日を間違えたものもあった。名前を呼ばない方針が、間違いを減らすだけでなく、間違いを確かめない言い訳になっていた。

翌朝、澄は開店前に6件の処理記録を作った。誰が悪かったかではなく、注文、連絡、保管、処分のどこで止まったかを記した。今後は受取時の呼び方を注文時に選び、番号、名字、下の名前、指定の呼称から本人が決める。代理受取には合言葉を使う。名前を大声で呼ばなくても、相手を消さずに確認する方法は作れた。

最初の客は、小学生の娘と来た男性だった。ピアノの先生へ贈る花を選び、受取人欄に「みどり先生」と書いた。

「名字が分からなくて」と男性が謝った。

澄は、分からない名前を推測して埋めなくてよいと伝えた。

「その方が受け取りたい呼ばれ方を書いてください」

娘は注文票を自分へ引き寄せ、ひらがなで〈みどりせんせい〉と書いた。さらに余白へ、小さく〈いつもまちがえてもまってくれる〉と加えた。

澄はその一文をカードにするか尋ねた。娘は首を振った。

「これは、お花をえらぶ人にだけ教えることだから」

澄はうなずいた。すべての言葉を花束へ付けて渡す必要はない。選ぶために必要で、届けなくてよい情報もある。

午後、理恵から短いメールが届いた。白い花束は新居の台所へ、会社の花束は22年間使った机の上へ置いたという。写真にはどちらも写っていなかった。窓と、何も置かれていない小さな棚だけが写っていた。

〈ここには、これから自分で選んだものを置きます〉

澄は返信欄へ「理恵さん」と打ち、送る前に一度止まった。昨日選んだ呼び方を、今日も当然だと思ってはいけない。

〈昨日は理恵さんとお呼びしました。次にご来店の時も同じでよいか、また伺います〉

返事はすぐに来た。

〈その時の私に聞いてください〉

澄は窓辺のカラーの水を替えた。姉の名を呼ぶことも、呼ばないことも、喪失の正解にはならない。ただ、姉が自宅用と書いた選択を、家族の物語へ勝手に変えずに受け取れる。

夕方、店の案内を読んだ客が「面倒な店だね」と笑った。澄も笑い、「少しだけ」と答えた。効率のために番号を使い、安心のために名前を避けてきた店に、1つ質問が増えた。その数秒は、花を渡す作業を遅くしたが、受け取る人の時間を戻した。

閉店時、澄は十二番の札を引き出しから取り出した。理恵が置いていった札だった。捨てる前に裏を見ると、小さな字で〈まだ決めなくていい〉と書かれていた。

澄は札を記念に残さず、個人情報の箱へ入れた。言葉の意味だけを新しい注文票の余白へ移した。

〈呼ばれ方は、受取時に変更できます〉

翌日の風が扉を押すと、新しい注文票が1枚、カウンターの中央まで滑ってきた。名前欄は空白のまま、選択肢だけが静かに開いていた。

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風向きが変わる日

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このシリーズの全話 7編
  1. 第1篇:閉店日の忘れ物係
  2. 第2篇:最後の発車ベルを押さなかった運転士
  3. 第3篇:名前を呼ばない花屋
  4. 第4篇:返品できない1日
  5. 第5篇:窓を閉めない写真館
  6. 第6篇:雨を返す傘屋
  7. 第7篇:返事を待つ食堂
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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