国枝修司(くにえだ・しゅうじ)が退職届を出した日の午後、社内人事AIから「次の配属先が見つかりました」という通知が届いた。退職を承認しました、ではない。配属先だった。31年勤めた会社を出ようという人間に使う言葉ではないと思い、修司は通知を閉じた。すると3秒後、同じ文面が腕時計にも現れた。
窓の外では、日東生活設備の灰色の社屋に西日が当たっていた。総務運用課の机は半分が空き、残った箱には「廃棄」「保存」「判断待ち」の紙が貼られている。修司の箱だけ、どの紙も貼られていなかった。誰かが判断してくれるのを待つ仕事を31年続けてきたように見えた。
早期退職制度へ応募した理由を、修司は「一区切り」と書いた。本当は、自分がいなくても会社が回ることを、この半年で何度も確かめたからだ。新しい管理システムが備品を発注し、AIが会議室を割り当て、清掃機が床の汚れを見つける。修司が毎朝してきたことは、次々に名前のある機能へ置き換わった。
ただし、退職届の備考欄だけは長かった。5階給湯室の湯量が月曜だけ減ること。夜勤者用ロッカーの鍵は右へ少し持ち上げないと回らないこと。営業二課の佐伯と施設担当の水野を同じメールに入れると、互いに相手が返すと思って返事が止まること。引継ぎ先を11件、担当者名つきで書いた。
人事部の若い担当者はそれを見て、「国枝さんらしいですね」と笑った。褒めたのか、細かすぎると言ったのか分からなかった。修司も笑い返し、どちらでもよいことにした。退職日まであと42日。机を空にして、送別会を断り、娘には決まってから話すつもりだった。
通知が三度目に出たとき、件名の下に小さく「候補提示。本人の同意なく応募されません」とあった。修司はそこだけ読んで、ようやく開いた。画面の中央に表示された職名は、生活調整官。勤務地は、月面居住区ミナモ。契約期間は30日間の現地適性試験を含む1年。
修司は声を出して笑った。誰もいない総務運用課で笑うと、コピー機の待機音まで笑いをこらえているように聞こえた。月へ行く人間は、もっと若く、英語ができ、無重力で宙返りができるはずだ。健康診断で腹囲を二度測り直された男へ届く求人ではない。
「誤配信です」と入力すると、ミナモ・デスクと名乗る支援AIが答えた。「求人は4261名へ提示され、あなたは適合度十四位です」。十四位という数字が絶妙だった。一位なら詐欺だと思えたし、四千位なら広告だと思えた。十四位には、説明を聞くだけ聞こうと思わせる力があった。
適合理由は、宇宙に関する資格ではなかった。2038年8月、冷房故障時に会議室の利用順を変え、熱に弱い薬を扱う部署を優先したこと。2041年1月、大雪で泊まり込んだ社員へ毛布を配る前に、帰宅できる人の交通手段を確認したこと。昨年、食堂の椅子を六脚減らし、車椅子と配膳台がすれ違える幅を作ったこと。
どれも表彰されていない。報告書の件名さえ覚えていなかった。修司は「なぜ記録が残っている」と尋ねた。AIは、設備申請、日報、匿名アンケート、事故が起きなかった日の運用差分を照合したと答えた。事故の記録ではない。事故が起きなかった日の記録だった。
月面居住区ミナモには現在31人が暮らしている。技師、医師、研究者、農業担当、調理担当。設備を直せる人はいる。しかし、直す順番を決めるときに、声の大きさではなく生活への影響を確かめる人が足りない。水一リットル、静かな一時間、誰か1人が休める椅子。その配分を、住民と一緒に決める仕事だという。
「それは、総務ではないですか」
修司が打つと、AIは「地球では、そう呼ばれる場合があります」と返した。月では、生活調整官。場所が変わるだけで、仕事は急に冒険の名前をもらうらしい。修司は嬉しくなった自分を、すぐに恥ずかしいと思った。
応募条件を読み進めた。放射線被ばく量の管理、閉鎖環境訓練、月面重力への順応。持病と家族状況の確認。給与は今より少し高いが、危険手当を含む。地球との通信には時間帯によって遅延があり、緊急時に家族のもとへすぐ帰れない。夢の求人ではなく、細かな不自由が並んでいた。
画面の最後に「家族同意は法的な応募条件ではありません。ただし、あなたが重要な決定を家族へ事後報告する傾向は、閉鎖環境での協働適性に影響します」と表示された。修司は椅子から少し身を起こした。AIに人生の癖まで言われる筋合いはない。
根拠を開くと、緊急連絡先更新の遅れ、娘の住所変更を1年後まで知らなかった記録、介護休暇を取らず妹へ任せた履歴が並んだ。正しいが、正しいから腹が立つ。修司は応募画面を閉じ、退職届の控えを鞄へ入れた。
帰宅すると、娘の咲が台所にいた。合鍵を返しに来たのだという。29歳になった娘は、父の冷蔵庫から期限の切れた豆腐を見つけると、昔と同じ顔でため息をついた。「退職するんだってね」。修司は箸を落としかけた。
人事部にいる咲の同級生から聞いたわけではない。会社の家族向け保険手続きで知ったという。修司は「決まってから言おうと思っていた」と説明した。咲は豆腐を捨てず、匂いを確かめてから言った。「お父さんの決まってからは、相談が終わってからって意味だよね」。
月の話をすれば、退職のことが小さくなる気がした。修司は端末を食卓へ置いた。咲は3秒黙り、それから笑った。修司が会社で笑ったのと同じ、冗談に対する笑いだった。だが募集要項を最後まで読むと、顔から笑いが消えた。
「行きたいの?」と咲は聞いた。
修司は答えられなかった。行けるかどうかばかり考え、行きたいかどうかを考えていなかった。「向こうが必要だと言っている」。そう口にした瞬間、咲は端末を伏せた。「またそれ。会社が必要だから、家族が必要だから。お父さんがどうしたいかは、いつも最後」。
咲は反対しなかった。賛成もしなかった。「私を理由にやめないで。私に黙って決めるのもやめて」。2つの条件は、修司には矛盾して聞こえた。咲は「矛盾したまま話すのが相談でしょう」と言い、期限切れではなかった豆腐で味噌汁を作った。
その夜、修司は応募ではなく説明面談のボタンを押した。月面居住区との画面がつながると、瀬尾凛(せお・りん)という女性が現れた。背後の窓は黒く、机の上のペンだけがゆっくり転がって止まった。「月へようこそ、とはまだ言いません」と瀬尾は言った。「こちらも、あなたを採ると決めていません」。
瀬尾が最初に尋ねたのは志望動機ではなかった。「会議室が暑い。空調技師は二時間後に来る。20人が、今すぐ直せと言っている。あなたなら何をしますか」。修司は窓を開けると答えそうになり、月には開けられる窓がないことに気づいた。
「全員を別の部屋へ移します」と言うと、瀬尾は「別室は水耕農園だけです」と返した。「会議を延期します」「地球との通信枠を使うので延期できません」。条件が増えるたび、正解が遠ざかった。修司は10秒考え、「20人全員が同じ暑さですか」と尋ねた。
瀬尾の眉が少し上がった。高熱を出した1人、宇宙服整備から戻った2人、暑さに弱い薬を持つ1人、残り16人。修司は4人を水耕農園の休憩区画へ移し、会議は15分ごとに1人ずつ交代で外へ出る案を出した。空調が直るまで全員を快適にはできない。だから、同じ我慢を平等に配るのではなく、我慢の影響を確かめる。
「あなたは設備を直していない」と瀬尾が言った。
「直せませんから」
「ここでは、それを早く言える人が必要です」
瀬尾は採用の理由を語らなかった。代わりに、不採用になりうる理由を並べた。修司は体力検査で落ちるかもしれない。狭い場所に耐えられないかもしれない。娘との問題を地球へ置き去りにすれば、月でも重要な話を後回しにするだろう。30日間の現地適性試験は、人生を変える旅行ではなく、向いていないと分かるための試験でもある。
面談が終わる直前、瀬尾は修司の退職届の備考欄を画面に出した。「11件目。夜勤者用ロッカーの鍵。これは直さなかったんですか」。修司は、交換部品の納期が長く、使用者全員へ開け方を伝え、次年度予算へ交換費を入れたと説明した。
「壊れた鍵を美談にしないんですね」と瀬尾は言った。「月では大切です。工夫で使い続けられることと、直さなくてよいことは違う」。修司は、その言葉を手帳に書いた。自分がしてきた工夫の中には、会社が直すべきものを人の我慢で延命しただけのこともあった。月へ行けば過去が全部価値になるわけではない。選び直す必要がある。
翌朝、修司は咲へ端末を渡した。応募ボタンの手前で止めてある。「行くと決めたわけじゃない。受けると決めたい」。咲はしばらく画面を見たあと、家族同意欄へ署名しなかった。その代わり、共有メモを開いて3つの見出しを書いた。連絡の頻度、緊急時の代理人、帰還後の住まい。
「これを決めるまでは署名しない。でも、試験は受ければいい」と咲は言った。修司は、許可をもらったように礼を言いかけてやめた。「一緒に決めてほしい」と言い直した。咲は頷き、4つ目の見出しに「お父さんが本当にしたいこと」と書いた。
修司は応募を承認した。画面には祝福の映像も、月の絶景も出なかった。「一次生活判断シミュレーションを開始します。制限時間、40分」。食卓の照明が少し暗くなり、壁に月面居住区の平面図が映った。
水循環設備の一部が停止。復旧まで六時間。備蓄水は二十六リットル。居住者31人。医療区画、水耕農園、調理室、衛生設備から同時に使用申請が届いている。画面の隅には、全住民が見ている公開チャットが開いた。
最初の書き込みは「技術者の判断に従う」だった。次に「子どもはいないのだから平等でいい」。3つ目は「昨日、研究区画が使いすぎた」。数字より先に、責任の押し合いが流れ始めた。修司は配分表を作る手を止めた。
月へ行く前から、月の1日は始まっていた。修司は31人へ向けて、最初の質問を打った。「水が足りないことで、今日できなくなることを、1人1つだけ教えてください」。送信した瞬間、残り時間は39分22秒になった。月面配属は承認された。だが、修司が月で必要とされるかどうかは、まだ一滴も決まっていなかった。
退職届の行き先は、月だった
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