町内会長は、今日も逃げたい 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ

町内会長は、今日も逃げたい

戸田直人(とだ・なおと)が回覧板に辞任届を挟んだのは、町内会長に選ばれる3日前だった。役職に就く前に辞めるのは順番がおかしい。しかし直人は、順番が正しくなるのを待っていると逃げられなくなることを、会社員生活22年で学んでいた。

辞任届の宛名は「東若葉町内会関係者各位」。辞任する役職の欄は空白にした。会長、副会長、班長、防災部長、祭礼係、何に選ばれても使えるようにするためだ。日付も空白。理由は「一身上の都合」。一身のどの辺が都合悪いか聞かれたときの回答だけ、別紙で十二種類用意した。

直人は争いが嫌いだった。嫌いというより、争いが始まる前に両方の言い分を想像しすぎて、どちらにも返事ができなくなる。スーパーで最後の値引き弁当へ手を伸ばした人が2人いると、自分が買う予定もないのに離れた棚へ逃げた。オンライン会議では「どちらでも」を言いすぎ、議事録に名前が載らなかった。

東若葉町へ越して6年、町内会では目立たないことに成功していた。清掃日には開始より5分早く来て、人が増える前に側溝を終わらせる。総会では出入口に近い席へ座る。懇親会の参加表には、欠席へ丸をつけるためだけに定規を使った。

ところが今年、会長選出のくじ引きで事件が起きた。くじ箱を用意した前会長が、箱だけ置いて腰痛の治療へ行った。誰も引きたがらず、会館にいた17人は互いにお茶を勧め始めた。湯飲みが三巡したころ、書記の桜庭澄江(さくらば・すみえ)が言った。「では、最も辞める準備ができている方にお願いしましょう」。

澄江は71歳で、町内会規約の頁番号まで覚えていた。彼女は回覧板から直人の辞任届を抜き、総会の机へ置いた。隠していた紙を見つけられた直人は、恥ずかしさより先に感心した。回覧板は十二軒を回ったのに、誰も抜かなかったらしい。

「これは就任を承諾した文書ではありません」と直人は言った。

「承知しています。ですが、この裏面がすばらしい」

澄江が紙を返すと、辞任届の裏には引継ぎ表が印刷されていた。会長の仕事を調べ、連絡、会計承認、会館予約、防災放送、見守り、清掃、行政文書、祭礼など十七項目に分けた表だ。辞めるときに「後任へ引き継ぎます」と言えるよう、先に作っておいた。

表には必要時間と、代替できる人、外部へ頼める可能性まで書いてあった。防犯灯の故障連絡は年2回、10分。会館の鍵は月8回、1回15分。夏祭りは準備を含め百四十時間で「個人へ割当不可」と赤字になっている。

17人が表をのぞき込んだ。くじ箱の存在は忘れられた。「戸田さん、仕事が分かってるじゃない」「やったことはありません」「やる前から引継ぎを考えられる人こそ適任です」。褒め言葉の形をした包囲網が、静かに狭まった。

直人は十二種類の断り文句を順番に試した。在宅勤務で時間がない。介護や育児をしている人よりは時間があると言われた。人前で話せない。会長は聞く仕事だと言われた。経験がない。前会長もなかったと言われた。健康に不安がある。桜庭が血圧計を持ってきた。

最後の断り文句は「私が引き受けると、町内会をなくすかもしれません」だった。会館が静かになった。防災部長の鈴木保(すずき・たもつ)が眉を寄せた。68歳、毎朝六時の防災放送を15年続けている人だ。「なくしたい人に任せるわけにはいかん」。直人は、ようやく逃げ道が開いたと思った。

だが澄江は「なくせるものと、なくせないものを分けてください」と言った。「全部続けると言う人より、よほど信用できます」。鈴木は反論しかけ、裏面の防災欄を見た。担当時間、年間七百三十時間。代替者、なし。原稿保管場所、鈴木宅。そこだけ、直人が赤い二重線を引いていた。

「わしの仕事に文句があるのか」

「文句ではなく、鈴木さんが風邪をひいたら町の朝が止まる構造に文句があります」

言ってから、直人は自分で驚いた。争いを避ける人間が、町で最も声の大きい人へ構造という言葉を投げた。鈴木も驚いたらしく、怒る前に一度口を閉じた。

その間に、高校生の高梨芽衣(たかなし・めい)が会館の後ろから手を挙げた。母親の代理で来ていたが、議決権はない。「朝の放送、うちでは窓を閉めていて聞こえません。聞こえる家と聞こえない家の地図、作れます」。大人たちは、そこに高校生がいたことへ今さら気づいた。

商店街でパン屋を始めた陳浩然(チェン・ハオラン)も手を挙げた。「私は日本語、朝六時、半分しか分かりません。でも災害のとき必要です。文字も欲しい」。鈴木は「放送は耳で聞くものだ」と言ったあと、陳が補聴器を指さすのを見て言葉を止めた。

直人は、逃げるために作った引継ぎ表の空欄へ2つ書いた。聞こえ方の地図。文字で受け取る方法。自分が会長にならなくても、誰かがやるべきことだった。だが誰かという言葉は、たいてい一番断れない人の名前へ変わる。

「30日だけなら、引き受けます」

直人が言うと、17人は拍手しようとした。彼は両手を上げて止めた。「条件があります。30日後に続けるか、全員でもう一度決める。会議は1回15分。仕事は1人へ渡さず、1回30分以下に分ける。できないものは、やめるか、お金を払って頼む」。

「町内会は善意で成り立つものだ」と鈴木が言った。直人は「善意は、勤務表にできません」と答えた。「善意がある日に手伝える仕組みにします。善意がない日も、責められない仕組みにします」。言い切ったあと、背中に汗が流れた。会館から逃げたい気持ちは、一言ごとに強くなっていた。

澄江は規約集を開いた。会長の任期は1年。ただし欠員時の代行期間については総会が定める、とある。30日限定は可能だった。「では、戸田会長」。澄江は淡々と言った。直人は「代行です」と訂正した。17人は面白がって、もう一度「会長」と呼んだ。

就任最初の仕事は、会館の鍵を受け取ることだった。鍵は12本あり、誰が持っているか分からなかった。前会長宅に3本、澄江に2本、鈴木に1本、祭礼係が1本。残り5本は「たぶん昔の役員」。直人は鍵を集める会議が始まりそうなのを見て、15分のタイマーを押した。

「今日決めるのは、鍵を探すことではありません。今夜、誰が会館を閉めるかだけです」

全員が澄江を見た。澄江は笑わなかった。「私は去年まで毎回閉めました。今年はしません」。その一言に、会館の空気が少し変わった。直人は初めて、澄江が自分を会長にした理由の一部を見た。有能だから続けてきたのではない。誰も代わらなかったから、有能でい続けるしかなかった。

芽衣が「私、九時までなら」と言った。直人は首を振った。未成年者へ夜の施錠を頼まない。陳は店の仕込みが十一時からなので、帰りに閉められると言った。ただし鍵を翌朝誰へ返すか分からない。そこで直人は、会館入口の暗証番号式保管箱を一週間だけ借りる案を出した。購入は総会承認が必要だが、ホームセンターの試用品なら無料だった。

鈴木が「機械は信用ならん」と言った。直人は紙の受渡簿も残すと答えた。スマートフォンだけにしない。暗証番号は毎週変える。変更できる人を2人にする。鈴木は不満そうだったが、「2人なら、まあ」と言った。1人で守ってきた人ほど、2人という言葉に弱いのかもしれない。

タイマーが鳴った。15分で、鍵の問題は解決していない。しかし今夜の施錠者、明朝の受渡し、試す方法は決まった。直人は会議を終えようとした。すると町内会員の1人が「ついでにごみ集積所の当番も」と言い、別の人が「公園の猫の件も」と続けた。

澄江は大きな茶封筒から議題一覧を出した。47件あった。道路の穴、落ち葉、空き家、回覧板の文字の小ささ、夏祭りの踊り、誰のものか分からない植木鉢。直人は紙の長さを見て、辞任届の日付欄へ今日の日付を書きたくなった。

「全部を会議で扱いません」と直人は言った。「困っている人、手伝える人、決める必要がある人を分けます」。議題1件につき、最初の質問を3つだけにした。いつまでに困るか。誰が影響を受けるか。町内会でなければできないか。答えられない議題は、情報待ちへ移す。

その場で47件のうち21件が消えた。市役所へ直接連絡できるものが9件、個人の好みで町内会が決めないものが7件、すでに解決していたものが5件。残った26件に優先順位をつけると、最初は「午前6時の防災放送」になった。

鈴木が椅子を引いた。「放送をやめる話なら、わしは帰る」。直人は、やめるとは言っていないと答えた。「必要な人へ届くようにして、鈴木さんが1日くらい寝坊できるようにする話です」。会館の何人かが笑った。鈴木だけは笑わなかったが、帰りもしなかった。

会議のあと、澄江は直人へ会長印と分厚いファイルを渡した。直人は受け取らず、机へ置いてもらった。「どうして私だったんですか」と尋ねると、澄江は辞任届の裏を指した。「逃げる人は、出口を作ります。ここには入口ばかりで、出口がなかった」。

澄江は去年、夫の通院日に総会が重なった。それでも書記を代われる人がおらず、夫を1人で病院へ行かせたという。大きな悲劇にはならなかった。夫は帰りに饅頭を買ってきた。ただ、その日から澄江は、善意という言葉を信用しなくなった。「断れなかった人を、善意のある人と呼ぶのは簡単ですから」。

直人は会長印を鞄へ入れた。重さは百グラムほどなのに、肩が下がった。帰宅して辞任届を机へ置き、日付を書かなかった。代わりに30日後の日付をカレンダーへ入れた。件名は「逃げるか決める日」。

午後11時、陳から会館を閉めたという短いメッセージが届いた。保管箱の写真と、紙の受渡簿の写真が1枚ずつ添えられている。澄江は「確認しました」と返し、芽衣は聞こえ方の地図の下書きを送った。鈴木からの返事はなかった。

翌朝5時58分、直人の電話が鳴った。鈴木だった。「放送室の鍵がない」。昨日まで鈴木自身が持っていたはずの1本だ。直人が会館へ走ると、放送室の前に鈴木、澄江、芽衣、陳がそろっていた。誰も呼び集めていないのに、最初の事件だけは時間どおりに始まった。

六時になり、町からいつもの声が消えた。静かな朝を喜ぶ人がいる一方で、鈴木の放送を目覚まし代わりにしていた人から電話が来た。防災情報ではなく、生活の習慣になっていたのだ。必要か不要かだけでは分けられない。

直人は閉じた放送室の扉を見た。鍵を探せば今日だけは元へ戻せる。だが、鍵を1人が持ち、1人が読み、1人が休めない仕組みまで元へ戻る。30日の1日目、47件の最初の議題は、すでに町中を起こしていた。「まず、放送しない朝に何が起きたか集めましょう」。逃げたい会長の、最初の仕事が始まった。

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町内会長は、今日も逃げたい

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:回覧板に辞任届を挟んだ
  2. 第2話:午前6時の防災放送
  3. 第3話:会議は15分で逃げ切れる
  4. 第4話:判子を持っていない副会長
  5. 第5話:夏祭りを一度やめてみる
  6. 第6話:空き家の郵便受け
  7. 第7話:犬の名前で呼ばれる人
  8. 第8話:管理者のいない防災倉庫
  9. 第9話:会長職廃止の付則
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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