裏切り者の救命簿 第1話:死者から届いた避難命令

停電した都市を見下ろす旧庁舎で避難命令を確認する真壁朔

午前2時17分、真壁朔(まかべ・さく)の携帯電話に、死んだ妻から避難命令が届いた。

地震はなかった。雨も降っていない。窓の外では、終電を逃したタクシーが1台、赤信号に律儀に止まっていた。

朔は区役所の旧庁舎にいた。翌朝の防災訓練で使う通信端末を点検し、127台目の「正常」を記録したところだった。誰もいない会議室に、警報音だけが三度響いた。

画面には、通常の災害通知とは違う黒い帯が出ていた。

《個別避難命令。対象者、真壁朔。午前3時までに第六保全庫へ移動してください》

その下に、送信者の認証名があった。

真壁梢(まかべ・こずえ)。

7年前、汐見湾広域停電で死亡した、朔の妻の名前だった。

朔は通知を閉じた。閉じたはずの画面が、すぐに戻った。

《この命令を他者へ転送しないでください。真壁灯(まかべ・あかり)の生存に関わります》

今度は、娘の名前まで書かれていた。

6歳で死んだ娘の名を、悪戯に使う人間がいる。そう思った瞬間、胸より先に指が動いた。朔は通知の詳細を開き、送信経路と署名時刻を確認した。

経路は政府の防災通信基盤「灯台網」。署名は7年前に失効した梢の災害医療従事者証。時刻は、今から4分後を示していた。

午前2時21分。

携帯電話の時計は、まだ2時17分だった。

朔は机上の訓練端末を1台起動した。個人情報を入力せず、警報番号だけを照会する。結果は「存在しない命令」。2台目も同じ。3台目は照会を始める前に電源が落ちた。

天井灯が消えた。

窓の外を見ると、交差点の信号も、向かいのコンビニも、奥の高層住宅も一斉に暗くなっていた。タクシーの尾灯だけが、止まったまま赤く浮かんでいる。

停電範囲が広い。だが非常灯が点かないのはおかしかった。旧庁舎には独立電源があり、前月の点検でも十時間は動くと確認している。

朔は携帯電話のライトを点け、壁際の制御盤へ向かった。途中で、廊下の奥から硬い物が床へ落ちる音がした。

「誰かいますか」

返事はない。

防災訓練の準備をしていたのは朔1人のはずだった。警備員は1階、清掃員は零時に退出している。

制御盤の表示には、故障ではなく「外部停止」と出ていた。旧庁舎の非常電源を、正規の権限で誰かが止めている。

朔の携帯がもう一度震えた。

《階段を使わないで》

送信者は梢。時刻は午前2時21分。今度は現在と一致していた。

廊下の突き当たりで、防火扉が閉まる音がした。階段へ続く扉だった。

朔は反対側の資料室へ走った。旧庁舎の改修図面は紙でも残してある。通信が失われたとき、最後に役立つのは充電量ではなく、誰かが捨てなかった紙だ。

扉を開けると、人影がしゃがみ込んでいた。

「動かないで」

若い女の声だった。

朔はライトを床へ向けた。女は黒いコートを着て、片手に小さな録音機を持っている。もう一方の手には、旧庁舎の配線図があった。

「それはこっちの台詞です。誰ですか」

「御影芽衣(みかげ・めい)。記者です」

「夜中の区役所に入る取材は、たぶん取材とは呼びません」

「あなたに会いに来ました。連絡しても返事がなかったので」

「連絡は受けていません」

「受けていたら、ここへ来なかったでしょう」

芽衣は床へ置いた鞄から、透明な袋に入った1枚の紙を出した。死亡者名簿の写しだった。

名前が5つ並んでいる。上から4人は知らない。5人目だけ、よく知っていた。

真壁朔。

死亡確認日は、明日の日付だった。

「趣味が悪い」

「私が作ったものではありません」

「なら、どこから盗んだんです」

「送られてきました。差出人は真壁梢」

朔は芽衣の表情を見た。嘘を見抜けるとは思っていない。ただ、人は用意した嘘を話すとき、相手の反応より自分の言葉が崩れないかを見ている。芽衣は紙ではなく朔を見ていた。

「妻は死んでいます」

「公式記録では」

「遺体も確認した」

言ってから、朔は息を止めた。

遺体を確認した。それは7年間、一度も疑わなかった記憶だった。白い布、梢の腕時計、左手の結婚指輪。

だが顔を見ただろうか。

停電で冷却が止まり、身元確認には所持品と歯科記録が使われた。職員から、顔を見ない方がいいと言われた。朔は布を上げなかった。

娘の遺体は見つかっていない。

「あなたが今、何を思い出したかは聞きません」

芽衣は言った。

「その代わり、三時までに第六保全庫へ行ってください」

「同じ通知を見たんですか」

「いいえ。名簿の余白に、そう書いてありました」

朔は紙をライトへ透かした。表からは見えない細い圧痕がある。鉛筆の腹でこすれば文字が出るだろう。芽衣はすでに読んでいた。

「第六保全庫は存在しません」

「地図には」

「地図以外にはあります」

朔が答えると、芽衣が初めて目をそらした。

知っているか試されたのだ。

旧庁舎には、過去の災害記録を保管する地下倉庫が5つある。第六は正式な部屋ではなく、増設工事の途中で閉鎖された搬入路の通称だった。古い職員か、図面を読める者しか知らない。

そのとき、階下から非常ベルが鳴った。電気を使わない手回し式の鐘だった。

一度、二度、間を置いて三度。

火災ではない。建物内に取り残された人がいるときの合図だ。

朔は資料室を出た。芽衣が腕をつかむ。

「三時まで、あと30分です」

「取り残された人は、30分待てません」

「あなたは明日死ぬ名簿に載っている」

「明日なら、今は生きています」

朔は防火扉の手前で足を止めた。階段は使うなと通知にあった。従う理由はない。だが停電後、防火扉が閉まった時刻が早すぎる。人を階段へ誘導して閉じ込める仕掛けなら、命令は警告になる。

耳を澄ます。鐘は1階からではなかった。壁の内側、荷物用昇降機の竪穴から響いている。

「階段じゃない。昇降機です」

旧庁舎の荷物用昇降機は、停電時に最寄り階へ停止する。人が乗ることは禁止されているが、明日の訓練資材を運ぶ業者が残っていた可能性がある。

2人で3階の扉へ向かった。手動解放器具は制御盤の下にあるはずだったが、箱は空だった。代わりに赤い布が1本、取っ手へ結ばれている。

梢が災害現場で使っていた目印と同じ結び方だった。

「これは写真に撮らないでください」

朔が言うと、芽衣は録音機ごとポケットへ入れた。

「理由は」

「まだ自分で分かっていません」

赤い布の先に、解放器具が隠されていた。朔は扉を数センチだけ開け、竪穴へ呼びかけた。

「中に何人いますか」

下から、かすれた声が返った。

「2人。ひとり、息が苦しい」

昇降機は2階と3階の間で止まっている。無理に扉を開けば落下の危険がある。朔は救助隊を待つよう伝え、呼吸の苦しい人の姿勢と服装を確認した。薬を持っているか、暑さはどうか、返事が途切れないよう短い質問を続ける。

芽衣は携帯電話を掲げた。圏外だった。

「外も停電です。救助隊へどう知らせます」

「建物の外へ出て、北側の公衆電話を使ってください」

「公衆電話も電気が必要では」

「あれは災害優先回線です」

芽衣は走りかけ、振り返った。

「あなたは」

「ここで声を切らさない」

「第六保全庫は」

朔は時計を見た。午前2時37分。

「人を置いてまで守る真相なら、たぶんろくな真相じゃない」

芽衣が去ったあと、昇降機の中の男が、苦しい息の合間に言った。

「真壁さん、ですか」

朔は壁へ当てていた手を離した。

「なぜ名前を」

「あなたが来たら、これを読めと」

男は紙を持っているらしい。暗くて読めないと言う。朔は携帯電話のライトを竪穴へ向けようとしたが、届かない。

「何が書いてあります」

「明かりが戻ったら、最初の一行だけ読むな、と」

「誰に渡されました」

「女の人です。医療の腕章をしてた。顔は、よく」

建物の電気が戻った。

天井灯ではなく、昇降機の非常灯だけが点いた。下の箱がぼんやり照らされ、作業服の男2人が見える。呼吸の苦しい方は床へ座り、胸を押さえていた。もう1人が紙を開く。

「最初の一行は読むな」

朔は止めた。

男は二行目から声に出した。

「真壁朔は、第六保全庫へ来ない」

三行目。

「来なかった場合、彼はまだ救命する側にいる」

四行目。

「来た場合、彼を拘束してください」

紙の最初の一行が、照明の下で透けて見えた。

《この指示を書いたのは真壁朔である》

直後、遠くから消防車の音が近づいた。芽衣が連絡できたらしい。

朔は昇降機の2人に、救助隊が来るまで話し続けると告げた。紙について考えるのは後だ。今、優先する順番だけは間違えない。

7分後、救助隊が到着した。呼吸の苦しかった男は搬送されたが、命に別状はなかった。もう1人は事情を聞かれ、医療腕章の女について同じ説明を繰り返した。

停電は区内の4つの街区だけで、9分間。交通事故が2件、閉じ込めが3件。大きな被害はなかった。

消防隊長は、なぜ朔が昇降機の位置と手動解放器具を知っていたのか尋ねた。朔は図面を見たと答えたが、図面を探す前に竪穴の鐘だと気づいていたことは説明できなかった。

7年前まで、朔は災害時の音を分類する仕事をしていた。停電のあと、二度と危機判断に関わらないと決め、端末の保守だけを引き受けてきた。故障なら直せる。誰を先に救うかは、自分以外が決めればいいと思っていた。

だが今夜も、朔は順番を決めていた。第六保全庫より昇降機を先にした。2人を救う間に、妻と娘の手がかりを失う可能性を受け入れた。

正しかったかどうかは、救助された人数だけでは決められない。もし保全庫に100人を救う情報があったなら、2人を優先した判断は変わる。危機のたびに、その後でしか分からない数字が、人の選択を裁く。

芽衣が警察の質問から解放され、朔の隣へ戻ってきた。

「偶然だと思いますか」

彼女は停電地点を手帳の地図へ記していた。2件の交通事故、3件の閉じ込め、旧庁舎。その六点を線で結ぶと、第六保全庫を囲む歪な輪になる。

「私を保全庫から遠ざけるために事故を起こした、と?」

「逆かもしれません。あなたが事故を無視して保全庫へ行く人間か、確かめた」

「試験のために人を危険へ置くなら、結果がどうでも不合格です」

「誰が?」

「試した側が」

搬送される直前、昇降機にいた男が朔を呼んだ。救急隊員に支えられながら、先ほどの紙を差し出す。

「これ、あなたの物じゃないんですか」

紙は新しく見えたが、端に小さな透かしがあった。汐見湾市が7年前まで公文書に使っていた波形の印。災害後に市そのものが再編され、今は作られていない。

裏面には、筆圧の弱い数字が並んでいた。

二、一、七、九。

現在時刻の2時17分にも見える。だが汐見湾の停電が始まった時刻も、午後9時27分だった。数字を並べ替えれば同じになる。

芽衣は写真を撮らず、数字だけを手帳へ書いた。

「あなたの奥さんは、こういう暗号を使いましたか」

「妻は、暗号を使う人を信用していませんでした」

「では誰が」

「私に分からない形で伝える必要がある人です」

それが敵なのか味方なのか、朔にはまだ区別できなかった。

そして非常電源を外部停止した認証者は、真壁朔になっていた。

警察官が、朔へ携帯電話を渡すよう求めた。任意だと言いながら、左右には制服が1人ずつ立っている。

芽衣は少し離れた場所で別の警察官から質問を受けていた。目が合っても、初対面のように視線を外した。

朔が携帯電話を差し出そうとしたとき、濃紺のコートを着た女が規制線の内側へ入ってきた。四十代前半。名札も腕章もない。警察官へ1枚の書類を見せると、2人の姿勢がわずかに変わった。

「真壁朔さん」

女は確認ではなく、呼び止める声で名前を言った。

「瀬名環(せな・たまき)です。内閣危機管理点検室、通称『継目室』。災害記録の食い違いを調べています」

「食い違いなら、今夜だけで10分あります」

「今夜の分だけなら、警察へ任せます」

環は死亡者名簿の写しを示した。芽衣が持っていたものと同じだが、朔の名の横に赤い印が増えている。

《死亡確認済み》

時刻は午前3時ちょうど。時計は2時58分だった。

「2分後、私は死ぬんですか」

「記録上は」

「実際には」

「それを決めるために来ました」

環は2つの封筒を出した。白い封筒には警察への任意同行書。黒い封筒には何も書かれていない。

「白を選べば、停電を起こした容疑者として事情聴取を受ける。黒を選べば、継目室で7年前の映像を見る。ただし、見たあとは今までの仕事へ戻れない可能性があります」

「選ばせているようには聞こえません」

「選択肢が2つあることと、どちらも親切であることは別です」

「妻と娘は生きていますか」

環は答えなかった。代わりに、朔の携帯電話を見た。

「梢さんから届いた避難命令を、まだ信じていますか」

「信じていません」

「では、なぜ第六保全庫へ行かなかった」

「行けと書かれていたからです」

環の眉が少し動いた。

「逆らった?」

「違います。途中に助けを求める人がいた。命令より先だっただけです」

午前3時になった。

朔の携帯電話から、死亡者名簿の通知が消えた。警察官の端末も同時に鳴る。朔に関する任意同行の表示が、画面から消えていた。

白い封筒が、意味を失った。

「最初から黒を選ばせるつもりだったんですね」

「いいえ」

環は白い封筒を破らずにしまった。

「あなたが三時までに誰も助けなければ、白だけを渡す予定でした」

朔は黒い封筒を取った。中には鍵も身分証もなく、古い映像の静止画が1枚入っていた。

日付は7年前、汐見湾広域停電が始まる18分前。場所は、灯台網の地域制御室。

画面中央に、若い朔が映っている。

死んだはずの梢が、その隣に立っていた。

2人ともカメラを見ていない。制御卓の上にある、赤い承認ボタンを見ていた。

「私は、この部屋へ入った記憶がありません」

「映像の改ざんは検出されていません」

「なら、似た人間です」

「そうかもしれません」

環は静止画を裏返した。裏には手書きで一行ある。

《この映像の真壁朔を、現在の真壁朔へ会わせるな》

筆跡は、朔自身のものだった。

「真壁さん」

環は、初めて質問する声になった。

「7年前のあなたは、誰を救おうとしていたんですか」

旧庁舎の非常灯が、遅れて一斉に点いた。

明るくなったはずなのに、朔には自分の立っている側が分からなかった。

READ ON

裏切り者の救命簿

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このシリーズの全話 28編
  1. 第1話:死者から届いた避難命令
  2. 第2話:明日死ぬ男の事情聴取
  3. 第3話:7分間だけ消えた町
  4. 第4話:救助されたことのない生存者
  5. 第5話:空白の避難地図
  6. 第6話:妻の声は本人ではない
  7. 第7話:記者が売った証言
  8. 第8話:継目室の裏切り者
  9. 第9話:容疑者を先に救え
  10. 第10話:八千二百四十一の空席
  11. 第11話:妻が生きている映像
  12. 第12話:空席への突入
  13. 第13話:指導者のいない組織
  14. 第14話:被害者が作った仕組み
  15. 第15話:承認者は真壁朔
  16. 第16話:署名した記憶がない
  17. 第17話:1人多い救助班
  18. 第18話:閉鎖病院の稼働記録
  19. 第19話:拒否された訂正番号
  20. 第20話:守られた死亡届
  21. 第21話:帰国便の到着時刻
  22. 第22話:7年前の開始条件
  23. 第23話:死亡前の移管先
  24. 第24話:第0号の起動者
  25. 第25話:2つ目の死亡時刻
  26. 第26話:味方を逮捕する日
  27. 第27話:公開できない救命
  28. 第28話:家族に知らせない生存
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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