死亡予定者の椅子
真壁朔(まかべ・さく)が座らされた椅子には、床へ固定する金具がなかった。逃げようと思えば立てる。だからこそ、部屋の外に何があるのか分からないことが拘束になっていた。
壁には時計が2つあった。1つは現在、午前2時13分。もう1つは翌日の午前0時を指したまま止まっている。瀬名環(せな・たまき)は机の向こうで、翌日付の死亡者名簿を透明な袋へ戻した。
「事情聴取ではありません。記録照合です」
「扉の外に3人立たせて言う言葉じゃない」
「警察なら、あなたを停電への不正アクセス容疑で逮捕する。ここなら、まだ死ぬ理由を調べられる」
朔は名簿をもう一度見た。真壁朔を含む5人。死亡確認時刻は全員、明日の午前0時7分。場所は別々なのに、確認者コードだけが同じだった。
環は最初の質問をした。「死んだ奥様から届いた避難命令を、なぜ読めたんです」
「日本語だったからだ」
「違う。あれは13年前に廃止された警報形式です。先頭四文字を避難種別、次の二文字を設備番号として読んだ。今の技師は逆に読む」
朔は答えられなかった。習った記憶はない。それでも端末を見た瞬間、意味が分かった。古い家の引き出しを暗闇で開けられるような、身体に残った順序だった。
5人の共通点
環は名簿の残り4人を読み上げた。地方病院の設備員・水瀬千尋。路線バス運転士・郡司隆。河川監視員・新堂真理。退職した気象解析官・安西修吾。
職種も居住地も違う。朔との面識はない。だが5人とも、7年前の汐見湾広域停電の夜、灯台網へ一度だけ接続した履歴を持っていた。
「俺は被災者だ。接続する側じゃない」
環は7年前の制御室映像を止めた。若い朔の右手が卓上にあり、薬指へ結婚指輪がある。隣の梢は画面の外を見ている。映像の隅で、5つの小窓が順番に点灯していた。
「この5つが、名簿の5人の端末です」
朔は画面へ近づいた。小窓の点灯間隔は一定ではない。2つ目と3つ目の間だけ、長い。通信障害なら揺らぎは不規則になる。これは誰かが復唱を待った間だった。
「5人で承認したのか」
「その答えを、あなたが持っている可能性がある」
環は質問票を押し出した。汐見湾当日の記憶、梢との最後の会話、灯台網の旧仕様。答えられない欄に空白を残すと、環は空白へ斜線を引かなかった。
「記憶がないことを、否認として扱わないのか」
「扱った結果が、7年前の公式記録です」
扉の外で短い電子音がした。3回、間を置いて2回。朔には、それが設備の故障ではなく、救助優先度の古い符号だと分かった。
4人分の不在証明
水瀬の救助を待つ間、環は残る3人の現在を照合した。郡司隆は昨夜まで路線バスを運転し、今日は有給休暇。新堂真理は河川監視所の夜勤を終えた記録がある。安西修吾は2年前に死亡届が出ていた。
「死亡者が明日また死ぬのか」と朔が言うと、環は死亡届の原本を表示した。届出人は空欄。医師の署名は有効だが、診療記録がない。火葬許可番号は、別人の番号と重なっていた。
久世(くぜ)は安西を名簿から除外すべきだと主張した。すでに死んでいるなら今夜の救助対象ではない。朔は反対した。「死んでいる記録がある人ほど、助けを求めても本人だと認められない」
環は3人へ一斉連絡せず、別々の経路で安否確認を始めた。名簿の作成者に、こちらが全員を把握したと知らせないためだった。郡司には所属会社から勤務確認、新堂には河川管理局から設備点検、安西には死亡届を出した自治体から戸籍照会。救助と捜査を同じ連絡に混ぜない。
朔は名簿の並び順を見直した。自分、水瀬、郡司、新堂、安西。五十音でも職種でもない。7年前の小窓が点灯した順番だった。水瀬を助けたあとも名前が消えず時刻だけが空白になったのは、彼女の役割が終わっていないからかもしれない。
「5人を一緒にしないで、というのは場所だけじゃない。証言も1つにまとめるなという意味だ」
環は5つの個別記録を作った。共通事件という見出しを付けず、それぞれが何を見て、何を承認し、何を拒否したかを別に保存する。7年前の公式報告は、5人の接続を『共同承認』の一語へまとめていた。その一語が、誰の沈黙も誰の反対も消した。
記憶を証拠にしない
環は朔へ、7年前の映像を音声なしで3回見せた。思い出したことを言わせるためではない。映像から確認できることと、朔の身体に戻る感覚を分けるためだった。
1回目、朔は梢の濡れた袖に気づいた。映像上の事実。雨か消火水かは分からない。2回目、制御卓の左端に紙の地図があると分かった。灯台網が正常なら不要な物だ。3回目、若い朔が承認画面へ触れる直前、梢が首を横へ振っていた。
「止めたのか」と環が尋ねた。
「そう見える。だが俺に向けた動作とは限らない」
朔は、妻を自分の無実を証明する人にしなかった。梢が生きている可能性を信じたいほど、その身振りへ都合のよい意味を付けたくなる。
環は初めて、質問票へ自分で一文を書いた。「対象者は映像と記憶を分離して回答」。久世は皮肉を言った。「模範的な容疑者だ」
朔は返した。「模範的に見えるなら、その評価も証拠から外せ」
そのとき、安西の戸籍照会が返った。死亡届を受理した職員は存在する。しかし届出当日、庁舎は停電で窓口を閉じていた。紙の原本は翌朝持ち込まれたのに、受理時刻だけが停電中になっている。
7年前の汐見湾でも、停電中に複数の死亡記録が作られていた。死亡記録は結果ではなく、誰かを公的な追跡から外すための操作だった可能性が出た。
「継目室が作ったのか」と朔は環を見た。
環は答えなかった。否定しない沈黙を、朔は自白として記録しなかった。ただし、環が名簿を初めて見た人間ではないことは分かった。彼女は安西の名を読むときだけ、敬称を付けなかった。
環は録音を再開し、自分の沈黙も記録へ含めた。「回答保留。理由は、現在の救命対象に影響するため」
真実を隠した。それでも、隠した事実まで消さなかった。朔は継目室が隠蔽側か保護側か、まだ決めなかった。
事情聴取の休憩を求めたのは朔だった。洗面台で水を飲み、梢へ電話をかけようとして、7年前に解約した番号を今も暗記していることに気づく。発信はしなかった。死者の署名が届いたからといって、死者の番号へ答えを求めれば、誰かが用意した道を歩く。朔は番号だけを紙へ書き、環へ渡した。「照会するなら、俺に結果を選ばせるな」。環は受け取り時刻を記録し、単独では照会しないと復唱した。朔も同じ言葉を返した。
警察より先に来た理由
入ってきた久世遼は、朔の手首へ簡易認証器を当てた。朔が引くより早く、画面に赤い表示が出た。「失効鍵、応答あり」。
「本人の端末より古い署名鍵が、皮膚下認証に反応している」と久世が言った。
朔は自分の手首を見た。埋め込みを受けた記憶はない。保守技師用の認証は社員証と生体照合で、皮膚下鍵など使わない。
久世は環へ、警察の照会が3分後に届くと告げた。「引き渡すべきです。こいつの認証で今夜の変電所停止が走った」
「停止したから、昇降機の2人は生きた」と環は返した。
「別の四千世帯が停電した」
朔は2人の会話を遮った。「俺を守るために警察より先に来たのか。それとも、俺から何かを取るためか」
環は、両方だと答えた。継目室は省庁間で食い違う災害記録を監査する。矛盾を消すのではなく、矛盾の間にいる人間を確保する。警察へ渡れば、朔は停電容疑者という1つの記録へ固定される。だが継目室に残れば、7年前の記録を開く鍵として扱われる。
「人ではなく鍵にする点では同じだ」
環は否定しなかった。「だから、あなたには聴取を止める権利がある。ただし止めれば、警察へ引き渡す」
自由な選択に見えて、出口は2つとも誰かが用意したものだった。朔は質問票を閉じ、「その前に、今の救助符号を確認させろ」と言った。
死者名簿からの救助要請
信号は名簿の2人目、水瀬千尋の旧端末から発せられていた。場所は北浜市立病院の地下機械室。病院は半年前に閉鎖され、電力契約も止まっている。それでも端末は37秒ごとに、酸素残量と水位を送っていた。
久世は偽装だと判断した。閉鎖施設に酸素残量はない。救助隊を誘い込む罠なら、朔の不正アクセスと同じ事件として処理できる。
朔は波形を拡大した。37秒という間隔は自動送信にしては半端だ。信号の末尾が1回ごとに短くなっている。送信者が同じ文面を手で打ち、指が動かなくなっている。
「生きている。少なくとも、送信を始めた時点では」
「なぜ分かる」と久世が問う。
「自動装置なら、末尾から欠けない。人は文の最後を諦める」
環は病院所在地の消防へ照会した。公式には無人。昨夜の豪雨で地下通路が浸水した可能性があるが、危険区域へ救助隊を出すには現認が必要だという。
名簿には、水瀬の死亡場所がその地下機械室と記されていた。死亡予定時刻は明日の0時7分。まだ二十二時間ある。
朔は名簿が予言ではなく、予定表なのだと気づいた。誰かが5人を同時に殺すのではない。救助されなければ死ぬ場所と時刻を、先に記録している。
「水瀬を助ければ、名簿が外れる。そうすれば俺も死なない証明になる」
久世は冷たく言った。「自分を救うための救助か」
朔は答えた。「理由が汚くても、救助の順番は変えない」
復唱できない命令
消防が到着するまで26分。地下機械室の設備図は廃棄済みだったが、朔は旧警報形式に含まれる設備番号から経路を推定した。環は遠隔で扉を開ける権限を求めた。画面には単独承認欄が現れ、承認者候補として真壁朔の名だけが表示された。
「押せば開く」と久世が言った。
朔は指を置かなかった。7年前の映像でも、若い自分の前に同じ形の承認欄があった気がした。
「復唱者は」
「緊急時には省略できる」
「だから押さない」
環が水瀬の信号を見た。末尾はもう一文字しか残っていない。時間はない。朔は単独承認を拒みながら、救助を遅らせない方法を探した。消防指令、病院を管理する市職員、現場の救助隊へ、同じ設備番号と浸水予測を同時に送る。三者が別々に開扉の必要を確認し、その音声を記録する。
正式な複数承認ではない。だが1人の判断を、後から英雄にも犯人にもできない形へ分けられる。
久世は「規程外だ」と反対した。それでも自分の端末を取り出し、消防との回線をつないだ。環は市職員の本人確認を取った。朔は設備番号を読み上げ、消防隊長が復唱した。
3つの声が揃った瞬間、画面の単独承認欄が灰色になり、別の表示へ変わった。「現場共同判断を受理」。朔はその機能を知らないはずなのに、表示が出る前から次の文言を口にしていた。
「拒否権は各現場に残る」
環の視線が上がった。「それは灯台網の試作規約です。公開されていない」
1人目の生存者
消防隊は地下2階で水瀬を発見した。閉鎖病院の保守記録を取りに入り、豪雨で防火扉が閉じて閉じ込められていた。酸素残量と見えた数値は、携帯呼吸器ではなく、機械室の非常用空気槽だった。
救出直後、水瀬は救急隊員の端末を借り、継目室へ一文だけ送った。「5人を一緒にしないで」。
名簿の水瀬の行から、死亡確認者コードが消えた。名前は残ったまま、時刻だけが空白になった。名簿は固定された未来ではなく、条件が変われば書き換わる。
朔は安堵するより先に、残る3人の所在地を確かめようとした。環は画面を閉じた。「1人を助けたから、あなたの容疑が消えたわけではない」
「分かっている。だが名簿を作った者は、助けられることも想定している」
公平な手がかりは3つあった。5人の端末が7年前に復唱の間隔で点灯したこと。廃止された警報形式を朔が読めたこと。単独承認を拒むと、隠された共同判断機能が現れたこと。誰かは朔を殺したいだけではない。朔が7年前と同じ選択をするか試している。
水瀬から2通目が届いた。「真壁朔に伝えて。7年前、最後に復唱しなかったのは、あなたです」
朔の胸に、記憶ではなく感覚が戻った。制御室の熱。梢の濡れた袖。4人の声を聞いたあと、自分だけが黙っていた7秒。
環は事情聴取の録音を止めた。「これで警察へ渡せなくなった」
「なぜだ」
「あなたは容疑者である前に、次の救助地点を読める唯一の人になった」
久世が残る名簿を開く。3人目、郡司隆の死亡場所が更新されていた。汐見湾。公式記録では、7年前から立入禁止の旧市街だった。
その下に、新しい一行が増えていた。
救助担当者、真壁朔。死亡確認者、瀬名環。
裏切り者の救命簿
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このシリーズの全話 28編
- 第1話:死者から届いた避難命令
- 第2話:明日死ぬ男の事情聴取
- 第3話:7分間だけ消えた町
- 第4話:救助されたことのない生存者
- 第5話:空白の避難地図
- 第6話:妻の声は本人ではない
- 第7話:記者が売った証言
- 第8話:継目室の裏切り者
- 第9話:容疑者を先に救え
- 第10話:八千二百四十一の空席
- 第11話:妻が生きている映像
- 第12話:空席への突入
- 第13話:指導者のいない組織
- 第14話:被害者が作った仕組み
- 第15話:承認者は真壁朔
- 第16話:署名した記憶がない
- 第17話:1人多い救助班
- 第18話:閉鎖病院の稼働記録
- 第19話:拒否された訂正番号
- 第20話:守られた死亡届
- 第21話:帰国便の到着時刻
- 第22話:7年前の開始条件
- 第23話:死亡前の移管先
- 第24話:第0号の起動者
- 第25話:2つ目の死亡時刻
- 第26話:味方を逮捕する日
- 第27話:公開できない救命
- 第28話:家族に知らせない生存

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