存在しない病棟
新堂真理から届いた映像の自治体コードは、7年前に廃止された試験用の番号だった。真壁朔(まかべ・さく)は番号を地図へ入れず、当時の河川監視網の保守記録へ照合した。表示されたのは汐見湾から北へ四十キロ、閉鎖された療養所の地下設備だった。現在の地図では資材倉庫。電力使用量はゼロと記録されているのに、夜間だけ医療用酸素の納入車が通っている。
瀬名環(せな・たまき)は突入を許可しなかった。患者が死亡記録で守られているなら、制服を着た救助者が現れるだけで保護場所を壊す。久世遼(くぜ・りょう)は反発したが、朔は環へ同意した。ただし何もしないことにも同意しない。3人は救助者ではなく、設備故障の保守班として入ることにした。身分を隠すためではない。最初に「助けに来た」と名乗り、本人の意思を確認する前に連れ出さないためだった。
地下への搬入口には、新しい車椅子の跡と、古い泥の靴跡が重なっていた。車椅子は内側へ、靴跡は外側へ向かう。守られている全員が閉じ込められているのでも、自由に出入りしているのでもない。入口の認証盤には、死亡者名簿と同じ五角形の刻印があった。朔が工具を出す前に扉が開き、白衣の新堂が立っていた。
「救助に来たなら帰ってください」
彼女の背後で、13歳ほどの少女がこちらを見た。映像で見た腕輪には『朝倉ひかり』とある。真壁灯(まかべ・あかり)ではない。少女は朔の顔を見ても反応しなかった。朔は名前を呼ばず、新堂に尋ねた。
「ここから出たい人は何人いますか」
新堂は答えた。「その質問を、7年前にしてほしかった」
死亡記録の2つの役目
病棟には26人がいた。公式には全員死亡しているが、寝たきりの患者ばかりではない。食堂で将棋を指す老人、帳簿をつける元看護師、オンライン授業を受ける2人の子ども。外へ出られない共同体が、内側だけで暮らしを続けていた。
新堂は死亡記録の利点を説明した。追跡者から消え、債権回収や報道取材からも離れられる。汐見湾直後、身元を狙われた証言者と治療継続が必要な患者を守るには、最も速い方法だった。だが記録が定着すると、別の顔を見せた。口座を持てず、学校を選べず、家族へ連絡すれば保護対象全員の場所が危うくなる。保護は期限のない隔離へ変わった。
環は死亡記録を作る側にいたことを隠さなかった。「緊急時の七十二時間だけ使う予定だった」と言う。新堂は、七十二時間後の判断会議が開かれなかった記録を示した。延長の署名欄には環の名がある。
久世は環を責めた。環は弁明せず、署名の横にある条件を指した。『本人ごとの帰還審査を開始すること』。その条件だけが実施記録から消されていた。環は保護を延長したが、永久化には賛成していない。誰かが条件を切り離し、署名だけを残した。
朔はまた1人の悪者へ結論を寄せそうになる自分を止めた。環の署名は事実で、消された条件も事実だ。善意の条件が消されたからといって、7年間を奪った責任まで消えるわけではない。
新堂は朔へ1冊の薄い台帳を渡した。題名は『救命簿』。救助された者ではなく、救助されたことにできなかった者の名前が、本人の選んだ仮名で記されていた。最初の頁には26人。最後の頁には、まだ空欄が八千以上続いていた。
助けてほしくない患者
病棟の非常灯が赤へ変わった。酸素供給の圧力が落ちている。地上の納入車が来ないまま、残量は三時間を切っていた。環は行政へ医療救援を要請しようとしたが、新堂が止めた。正式な救援が入れば、施設と全員の身元が同時に記録へ戻る。強硬派はその瞬間を待っているという。
最も酸素を必要とするのは、元水門技師の安西だった。7年前、予測値の再計算を担当した5人の1人。朔の死亡予定者名簿にはない。しかし安西が死ねば、汐見湾の予測改ざんを証言できる者が減る。
朔は携帯型酸素を持って安西の部屋へ入った。安西は装着を拒んだ。「私は助かりたくないんじゃない。あなたに助けられた記録を残したくない」と言った。真壁朔の認証が再び使われれば、保護場所へ侵入する正当化に利用される。
朔はマスクを置き、触れなかった。生存を優先するという言葉で拒否権を奪えば、高城(たかしろ)が作った1人の決定者と同じになる。けれど、放置も選択ではない。朔は安西へ3つの案を並べた。自分の機器を使う、病棟の共同名義で使う、別室へ運び新堂の判断で使う。それぞれ誰に記録が残るかを説明した。
安西は共同名義を選んだ。「個人に借りを作らない。だが、みんなが決めたなら受ける」
久世は時間がないと苛立ったが、自分でマスクを装着せず、新堂の復唱を待った。患者代表2人、医療者2人、安西本人が同意し、酸素をつないだ。救助は遅くなったが、誰か1人の善意で所有されなかった。
その直後、配管室の圧力がさらに下がった。故障ではない。地上側の主弁が手動で閉じられている。内側にいる者を殺すためではなく、外へ救援を呼ばせるための操作だった。
保護から出る1人
朔と久世が地上へ向かう途中、靴跡の主が現れた。元郵便局員の倉本修、61歳。彼は毎週一度、病棟から外へ出て食料と手紙を運んでいた。死亡記録のまま外を歩き、戻るたび別の名を使う。新堂は危険だと止めていたが、倉本は「守られるだけでは人間関係が死ぬ」と続けていた。
主弁を閉じたのも倉本だった。ただし酸素を断つ意図はない。外部の保守業者を呼び、病棟の存在を公にするつもりだった。計算では予備タンクが六時間もつはずだったが、1本に微細な漏れがあった。告発は救命を急がせる一方、患者を危険へ置いた。
久世は倉本を拘束しようとした。新堂は止めない。朔は倉本へ、いま選びたいのは公開か逃走かと尋ねた。倉本は首を振った。「帰還だ。私は妻に、死んでいないと伝えたい。ここを売りたいわけじゃない」
1人の帰還と全員の所在地公開は同じではない。環は倉本だけの死亡記録を解除し、病棟を特定しない証人保護の新しい申請をその場で作った。制度上は前例がない。却下される可能性が高い。それでも申請者本人の署名と、残る者たちの不同意を別々に記録した。
倉本は病棟の全員を代表しない。残りたい人も、別の場所へ移りたい人もいる。『生存者を救出』という一文でまとめれば、その違いがまた消える。新堂は救命簿の倉本の欄へ、赤線ではなく出発時刻を書いた。
主弁を開くには地上倉庫の電子錠が必要だった。認証要求には真壁朔の古い鍵が表示された。朔は押さない。倉本、新堂、安西の3人の選択を別々に入力し、環が臨時の複数承認を組んだ。久世が物理鍵を回し、朔は圧力計を復唱した。4人の操作がそろって弁は開いた。
少女の選んだ質問
圧力が戻ると、少女が朔のところへ来た。朝倉ひかりという腕輪は本人が選んだ名だと新堂は説明した。朔は本名を尋ねなかった。少女の方から質問した。
「あなたは、真壁朔ですか」
朔は肯定した。声が震えないようにすることより、返事を急がないことを選んだ。少女は13歳、黒い髪を耳へかける癖が灯に似ている。しかし似ていることは証拠ではない。
「私の父は死んだと聞きました。でも、父の名前があなたと同じです」
環が一歩動き、止まった。新堂も答えを代わらない。朔は、自分が父かもしれないとも違うとも言えないと伝えた。確認する方法はあるが、本人が望むまで行わない。
少女は失望より先に安心した顔をした。「大人はいつも、知っている答えを私に選ばせるから」
彼女は今日、病棟から出ないことを選んだ。倉本の帰還が安全に行われるか見たい。自分の名前を調べるのはその後にする。朔は抱きしめず、連絡方法だけを紙へ書いた。父親なら近づく権利がある、という考えを使わなかった。
少女は紙を受け取らず、新堂へ預けた。「私が欲しくなったら渡して」
その選択は朔を傷つけたが、同時に救った。灯かどうかを確かめることより、彼女が自分で確かめる順番を持てることが重要だった。久世は離れた場所で見ていた。弟の名を今すぐ照合しないと決めた自分の選択と、少女の保留を重ねたのかもしれない。
救命簿の欠けた頁
倉本の帰還手続きが始まると、救命簿の頁番号が1枚飛んでいることに朔が気づいた。26人の次が二十八頁になっている。新堂は二十七頁を見たことがないと言う。製本跡には、後から破った繊維ではなく、最初から1枚少なかった痕跡があった。
環は継目室の保全庫に同じ様式の二十七頁があると認めた。そこには保護対象ではなく、保護を拒否した者が記されている。7年前、死亡記録への登録を拒み、それでも追跡を避けるため自力で身分を変えた人々。継目室にも空席にも属さない第三の集まりだった。
倉本の告発計画へ主弁の位置を教えたのは、その1人かもしれない。病棟を壊す強硬派ではなく、保護制度から1人ずつ出すため、危険な圧力をかける者たち。善意でも、本人の同意なしに酸素を賭けた責任は残る。
朔は二十七頁の開示を要求した。環は拒んだが、理由を記録した。「名簿の全員から同意を得ていない」。朔は拒否を隠蔽と決めつけず、代案を出した。氏名を伏せ、人数、登録条件、現在の生存確認だけを第三者が監査する。
新堂はその監査役を倉本へ頼んだ。帰還する人間が、残る者と拒否した者の両方を代表しないまま、手続きだけを見る。倉本は初めて、自分の告発が誰かの代弁になりすぎていたと認めた。
環の端末へ承認通知が届いた。送信者は元危機管理監・高城冬一。まだ正式な照会を出していないのに、二十七頁の限定監査を許可している。こちらの会話を知っているか、同じ結論へ誘導する仕掛けを先に用意していた。
救われたことにしない
夕方、倉本は病棟を出た。報道発表も救出映像もない。新しい身分証が届くまで、継目室の施設ではなく、本人が選んだ古い友人の家へ向かう。久世が同行するが、監視者ではなく連絡役として氏名を記録した。
新堂は救命簿の倉本の欄へ「救助完了」と書かなかった。「帰還手続き開始。本人選択」と記した。安西の欄には「共同名義の酸素を使用」。朝倉ひかりの欄には何も加えなかった。少女が記録を望んでいないからだ。
朔は病棟を救ったという達成感を持てなかった。酸素は戻ったが、25人は死亡記録の中に残る。けれど、一度に全員を救おうとしなかったことが、初めて誰かの選択を守ったのかもしれない。
帰りの車で、環は二十七頁の監査用データを開いた。氏名は伏せられている。登録者は5人。そのうち1人は7年前に死亡、1人は所在不明、2人は生存確認済み。最後の1人だけ、今日の日付で灯台網へ接続していた。
役割欄には『反対票を保存する者』。第3話で新堂の映像へ接続した鍵と同じ役割だった。接続地点は継目室本部。内部の誰かが、保護を拒否した第三の集まりとつながっている。
久世から連絡が入った。倉本を友人宅へ届けた直後、玄関に7年前の死亡届が置かれていた。死亡時刻だけが明日の午後6時41分へ書き換えられている。倉本を再び消す予告なのか、帰還を公にするための合図なのか分からない。
さらに死亡届の裏には、継目室職員の識別番号が1つ記されていた。環が番号を見て黙る。朔が誰の番号か尋ねると、環は今度は保留しなかった。
「久世遼です」
電話の向こうで、倉本と一緒にいる久世が息を止めた。継目室の裏切り者を示す最初の証拠が、最も疑い深い男の名前を指していた。
疑いを1つにしない
環は久世へ帰投を命じなかった。識別番号が本物なら、本部へ戻すこと自体が罠かもしれない。偽物なら、疑われた久世を現場から外すことが相手の目的になる。朔は倉本の安全と証拠保全を分けるよう提案した。久世は友人宅に残らず、近くの交番へ倉本と一緒に入り、死亡届をその場で封印する。継目室だけの証拠にしないためだった。
久世は従う前に、自分の端末を朔へ遠隔開示した。過去30日の接続履歴に異常はない。ただし7年前の識別番号は、現在の番号へ更新される前に一度失効している。誰かが古い番号を使い、久世本人の経歴へ手がかりを結びつけた可能性がある。
「俺を信じるな」と久世は言った。「記録を分けろ」
朔はその言葉を忠誠の証明にしなかった。久世の自己申告、端末履歴、死亡届、倉本の証言を4つの保全番号へ分けた。仲間だから1つの無実へまとめず、容疑者だから1つの有罪へもまとめない。
病棟では新堂が夜の点呼を始めていた。25人と、まだ記録を望まない少女。救助した人数を数える代わりに、それぞれが明日も同じ名前を使うか確認する。朝倉ひかりは少し考え、今日と同じ名を選んだ。
その返答が記録された瞬間、救命簿の空欄へ遠隔で文字が浮かんだ。『五番目の帰還者は、継目室から出る』。次に救われる対象は病棟の患者ではなく、疑われた久世なのかもしれなかった。
裏切り者の救命簿
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このシリーズの全話 28編
- 第1話:死者から届いた避難命令
- 第2話:明日死ぬ男の事情聴取
- 第3話:7分間だけ消えた町
- 第4話:救助されたことのない生存者
- 第5話:空白の避難地図
- 第6話:妻の声は本人ではない
- 第7話:記者が売った証言
- 第8話:継目室の裏切り者
- 第9話:容疑者を先に救え
- 第10話:八千二百四十一の空席
- 第11話:妻が生きている映像
- 第12話:空席への突入
- 第13話:指導者のいない組織
- 第14話:被害者が作った仕組み
- 第15話:承認者は真壁朔
- 第16話:署名した記憶がない
- 第17話:1人多い救助班
- 第18話:閉鎖病院の稼働記録
- 第19話:拒否された訂正番号
- 第20話:守られた死亡届
- 第21話:帰国便の到着時刻
- 第22話:7年前の開始条件
- 第23話:死亡前の移管先
- 第24話:第0号の起動者
- 第25話:2つ目の死亡時刻
- 第26話:味方を逮捕する日
- 第27話:公開できない救命
- 第28話:家族に知らせない生存

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