雨の降らない日に、草履を買う客はいなかった。
失敗問屋まる損の軒先には、朝から40足の草履が積まれていた。鼻緒は太く、底には細い溝が斜めに刻まれている。見た目は丈夫だが、乾いた板の上で履くと、きゅっと嫌な音を立てて滑った。
「雨の日だけ売れた草履です」持ち込んだ草履職人の伊助が言った。「晴れの日に買った客が3人転び、店を閉めました」
蔦(つた)は値を付けず、まず1足を履いた。店内を2歩進むと、右足が半寸滑る。直吉(なおきち)が慌てて腕を支えた。
「危ない物は買えません」と直吉。
「危ない理由を買うのが、うちだよ」
「昨日、荷運びの六助さんへ10足売るって約束しちゃいました」
蔦は足を止めた。第2話で直吉は、灯らない提灯を確かめる前に高い買値を約束し、その責任を負った。今度は売値だけでなく、売り先まで先に決めている。
「いくらで」
「1足18文。雨道なら滑らないって聞いたから」
「誰から聞いた」
直吉は伊助を見た。伊助は目を伏せた。「買ってくれた客です。雨の日だけは、もう1足欲しいと言われた」
晴れの日に3人を転ばせ、雨の日には買い足された。同じ草履に、悪評と注文が並んでいる。
蔦は仕入れ帳へ書いた。
品名。雨の日だけ売れた草履。
失敗。晴天の板道で滑る。
未確認。雨天の泥道で本当に滑らないか。
「六助さんへは、今日売らない」と蔦。
「約束したのに」
「約束を守るなら、危ない物を渡していいのかい」
直吉は口を閉じた。約束を破る責任と、確かめずに売る責任は別だ。蔦は六助へ事情を伝え、試し履きへ来てもらうよう頼んだ。
昼前、空は晴れたままだった。雨を待っていては商いにならない。蔦は裏庭へ水をまき、乾いた板、濡れた板、土、泥の4つの道を作った。
伊助は「そんな試し方では雨道と違う」と不満を言った。
「なら、違うところを証文へ書く。売れる答えが出るまで試すんじゃない。どこまで分かったかを売るんだよ」
六助が荷箱を背負って現れた。体重だけで試せば、空荷の客に安全でも荷運び人には危ない。箱へ砂袋を1つ、2つ、3つと増やした。
乾いた板では、荷が重いほど足が前へ滑った。濡れた板では少し改善したが、横向きに踏むと危ない。土では普通の草履と変わらない。
泥へ入った時だけ、結果が変わった。
斜めの溝が泥を外へ逃がし、太い鼻緒が足首を固定する。普通の草履が泥を抱えて重くなるのに、伊助の草履は3歩ごとに底が軽くなった。
「滑らない草履じゃない」と六助が言った。「泥が残らない草履だ」
欠点が長所へ反転したのではない。使う道を選べば、危険な部分を避けて強みを使えると分かっただけだ。
蔦は40足すべてを買わなかった。まず6足。雨の日の土道で荷を運ぶ者に限り、乾いた板道では使わない札を付ける。3日間の試用後、六助と他の荷運び人が同意した分だけ追加する。
伊助は顔を赤くした。「40足を売ってくれる店を探して来た。6足では借りを返せない」
「借りを返すために、次の3人を転ばせるのかい」
「そんなつもりはない」
「つもりじゃなく、使える範囲を証文にする」
その時、店先へ榊屋惣兵衛(さかきや・そうべえ)の番頭が来た。40足をまとめて買うという。ただし用途札を外し、榊屋の名で売ることが条件だった。
「失敗を腐らせないための買値です」と番頭は笑った。
蔦は40足ではなく、伊助へ尋ねた。「あなたは、誰に何を売ったことにしたい」
伊助は長く黙り、「雨の日に働く人へ、雨の日の道具を」と答えた。
人そのものへ値段を付けない。失敗した本人の同意がない使い方へ売らない。まる損の証文にある2つの決まりが、まとめ買いより先に置かれた。
番頭は笑みを消した。「札を付けたままでは、晴れの日に売れませんよ」
「晴れの日に売らないための札です」
蔦が答えると、番頭は積まれた草履を一度だけ見て帰った。伊助は追いすがらなかった。40足を一度に手放せる話が消えたのだから、肩を落とすのは当然だった。それでも彼は、用途札の文面を自分で読み直した。
雨天の泥道に用いること。乾いた板敷き、石段、屋内では脱ぐこと。荷を背負う時は、最初の1町を軽い荷で試すこと。鼻緒に緩みが出たら使わないこと。
「書けば書くほど、売れない草履になりますね」と直吉が言った。
「違うよ。買ってはいけない人が、買わずに済む草履になる」
蔦は6足の代金として108文を伊助へ渡し、残る34足は預かり品にした。売れたことにして帳簿を飾らず、売れていない数をそのまま残す。伊助の借金については3日だけ待ってもらうよう、貸し主へ蔦が同行して話す。その代わり、試用中に出た不具合を伊助自身が直すことを証文へ加えた。
直吉にも役目があった。先に10足を約束した責任として、六助の仲間4人へ1人ずつ頭を下げ、約束が6足の試用へ変わった理由を説明する。さらに3日間、朝夕の履き心地を聞いて記録する。売れれば自分の手柄、転べば職人の失敗という逃げ道は塞がれた。
「謝れば済むと思うなよ」と六助。
「はい。転んだ人が出たら、医者代も僕の取り分から出します」
直吉は帳面の表紙へ、約束より先に確認、と大きく書いた。
翌朝、空は白いままだった。雨は降らず、試用は始められない。伊助は店先で34足を見つめ、榊屋へ持ち込めばまだ間に合うと言った。
蔦は止めなかった。ただ、用途札を外すなら、昨日の証文を破棄すること、その時はまる損の名を使わせないことを告げた。
伊助は草履を風呂敷へ包みかけ、手を止めた。「俺は、売れなかったことを恥じていた。転ばせたことより先に」
彼は風呂敷を解いた。そして34足のうち、鼻緒の締めが甘い7足を自分で抜き出した。数を減らすのは損だが、隠して売るより小さい損だった。
昼過ぎ、ようやく雨が来た。屋根を細かく叩く音が町を覆い、土の道が黒く沈んだ。六助たちは6足を履き、米俵、反物、薬箱をそれぞれ背負って別の道へ出た。直吉は普通の草履を履き、同じ荷を交代で運んだ。
最初の1町では伊助の草履が勝った。普通の草履は泥を吸って重くなり、鼻緒の付け根へ土が固まる。伊助の草履は溝から泥が抜け、歩幅が崩れない。米俵を運んだ六助は、往復で12歩は少なく歩けたと言った。
だが、2町目の石橋で事故が起きた。
若い荷運び人の寅松が、濡れた石へ片足を置いた瞬間に腰を落とした。転倒は免れたが、薬箱の角が欄干へ当たった。用途札には乾いた板と石段を避けるとある。濡れた石橋については書いていなかった。
「雨の日の道具なら、雨の日の石も通ると思うだろう」と寅松は言った。
その一言で、最初の札が足りなかったと分かった。嘘は書いていない。しかし、買い手がどう読むかまで考えていなかった。
伊助は石橋へ膝をつき、底の溝を確かめた。泥を逃がす斜め溝は、平らな石の上では水を一方向へ集めてしまう。濡れた板より滑り始めが急だった。
「俺の草履は、雨の日の草履でもない」と伊助。
「泥道の草履だ」と六助が言い直した。「雨が降っていても、橋と店先では脱がなきゃならん」
試用はそこで中止になった。6足すべてを回収し、薬箱の中身も確認した。割れ物はなかったが、直吉は寅松へ医者に診せるか尋ね、腰に痛みがないことを翌朝もう一度確かめると約束した。売上の話へ戻る前に、起きたことを処理した。
店へ戻ると、直吉は自分の言葉で帳面へ記した。失敗。雨なら安全だと思わせる名付け。未確認。泥道から石橋へ移る境目。対処。橋の手前で脱げるよう、持ち紐を付ける。
伊助は7足の不良品をほどき、鼻緒を使って持ち紐を作った。草履の踵へ輪を付け、橋や板敷きの前で腰へ下げられるようにする。さらに底の縁を赤く染めた。赤い縁は洒落ではなく、泥道限定を遠目でも見分ける印だった。
2日目の雨では、道の境目に印を置いて試した。六助たちは泥道では履き、石橋の手前で脱ぎ、渡った先でまた履いた。履き替えに時間はかかったが、普通の草履を途中で2度洗うより、荷は早く届いた。
3日目、5人のうち4人が買うと答えた。寅松だけは買わなかった。「俺の道は石橋が3つある。履き替えの方が面倒だ」
蔦は値引きを勧めなかった。向かない客へ安く売っても、向かない事実は変わらない。
六助が4足を正式に買い、予備として2足を共同で持つことになった。さらに別の荷運び人から12足の注文が入った。ただし、道順を聞き、泥道が半分以上ある者だけに売る。伊助は残る16足をほどき、底の溝を浅くして晴雨兼用へ作り直すと決めた。作り直した品は、別の商品としてもう一度試す。
40足すべては売れなかった。けれど6足は確かな買い手へ渡り、12足は条件付きで注文され、16足は作り直す道ができた。不良7足は持ち紐へ変わり、1足は見本としてまる損に残った。数が合わないように見えた直吉は、最初の6足が40足の内数だと気づき、帳面を直した。曖昧な成功を書かないことも、失敗問屋の仕事だった。
伊助は108文のうち、まず寅松へ見舞いとして12文を渡した。寅松は受け取りを断りかけたが、伊助は「怪我の値段ではなく、試す危険を先に10分伝えなかった俺の負担だ」と言った。寅松は半分だけ受け取り、残りは次の試作の安全確認に使えと返した。
直吉は10足を売るという約束を果たせなかった。それでも六助は怒らなかった。
「約束どおり10足持って来られるより、6足で止めてくれて助かった」
守るべきなのは口にした数ではなく、その約束で相手へ渡そうとしたものだ。直吉は帳面の表紙へ書いた言葉の横に、小さく付け足した。
確認して変える約束もある。
夕方、雨が上がった。蔦が店先の見本草履を軒へ吊るすと、赤い縁から水が一滴ずつ落ちた。札にはもう「雨の日だけ売れた草履」とは書かれていない。
泥道を歩く人の草履。橋では脱ぐこと。
失敗の名を細くすれば、客の数も細くなる。だが、その細い道の先には、必要としている人がいた。
閉店間際、六助が預かり物を持って戻ってきた。雨に濡れた仕立屋の半纏だった。持ち主は、店を飛び出した弟子を捜しているという。半纏の裏には、店の名ではなく若い職人の名が縫い込まれていた。
宗吉(そうきち)。
「親方は、こいつが仕立てを盗んで逃げたと言っている」と六助。「だが弟子の方は、自分の縫った着物を親方に取られたと言っている」
蔦は濡れた半纏を裏返した。縫い目の途中だけ糸の色が変わり、古い店印をわざと避けるように針が走っている。
売り物は誰のものか。技は誰のものか。そして、逃げた人間の言い分を、本人抜きで値踏みしてよいのか。
蔦は仕入れ帳の新しい頁を開いた。
次の品名。弟子が逃げた仕立屋。
江戸の失敗問屋
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