退職届の行き先は、月だった 第4話:重力1/6の面接

NEW MYTH 月面シリーズ

重力1/6の面接

国枝修司(くにえだ・しゅうじ)の月面適性面接は、地球の訓練施設で行われた。面接室には机も椅子もなく、床から腰の高さまでの手すりと、白い箱が3つ置かれている。

瀬尾凛(せお・りん)が画面越しに言った。「質問に答える面接ではありません。1/6重力を想定した動作環境で、90分働いてください」

修司は宇宙服を着るわけではない。身体を軽くする吊り具に支えられ、歩くたびに足が床から離れすぎる。最初の一歩で手すりへ肩をぶつけた。31年、会社で転ばないよう通路を整えてきた男が、自分の歩幅を決められない。

水循環技師の葉山拓海(はやま・たくみ)は観察役として同席した。「生活調整官なら、まず自分の生活を調整してください」

修司は言い返さず、二歩目を小さくした。速く慣れることより、失敗した幅を覚えることを選んだ。

箱の中の面接官

白い箱には、月面居住区で起きた3つの相談が入っていた。1つ目は、共有廊下へ私物の靴を置く住民。2つ目は、夜勤者の睡眠を妨げる朝礼。3つ目は、地球へ帰る予定の人が植物を育て始めた問題。

どれも規則だけなら答えはある。靴は撤去、朝礼は録画、植物は引継ぎ。しかし瀬尾は、回答する前に箱を別の場所へ運ぶよう指示した。1/6重力では、軽い箱ほど止めにくい。修司が1つ持ち上げると、中の資料が勢いよく飛び出した。

葉山がため息をついた。「月では、軽いことが簡単とは限りません」

修司は資料を拾い集めず、まず部屋の換気口を閉じてもらった。紙が吸い込まれる前に流れを止める。次に、箱の蓋を手すりへ固定した。会社で誰かが書類を落としたとき、先にコピー機の送風を止めた記憶が役に立った。

「経験が地味ですね」と葉山が言う。

「地味な問題は、毎日来ますから」

靴を片づけない答え

最初の相談で、修司は靴を撤去しなかった。なぜ廊下へ置くのか確認した。月面居住区では室内靴と作業靴を気圧区画ごとに替える。問題の住民は腰を痛め、狭い玄関で履き替えられなかった。

規則を守らせるなら、共用部から私物をなくせばよい。生活を守るなら、通行幅と避難導線を確保した上で、壁に固定した着座式の履き替え場所を作る。修司は二週間の仮設と、他の住民が同じ場所を使える条件を提案した。

葉山は「1人の事情で設備を増やすのか」と問う。

「1人で見つかった不便が、1人だけの不便とは限りません。仮設で利用者を数えます」

瀬尾は正解とも不正解とも言わず、次へ進めた。修司は、採点されるより、仮設の手すりが1/6重力で人を押し返さない高さか気になっていた。

朝のない朝礼

2つ目の相談は朝礼だった。月では地球のような朝がなく、照明と勤務表が生活の時間を作る。録画へ変えれば夜勤者は眠れるが、孤立している住民の様子を誰も見なくなる。

修司は全員参加の朝礼を廃止し、勤務交代時の7分だけ、3人以下で状態を引き継ぐ案を出した。情報は録画で共有し、人の表情を見る時間は小さな班で残す。参加できない日は、食事受取や医療点検など別の接点から変化を確かめる。

「監視になりませんか」と瀬尾が聞く。

「なる可能性があります。だから、見守られたくない日を申告できる欄と、生命維持上の確認が必要な基準を分けます」

修司は咲が家族同意へ出した三条件を思い出した。私的通信、緊急帰還基準、契約更新ごとの再協議。家族にも居住者にも、心配する側の安心だけで相手を縛らない仕組みが必要だった。

持っていけない机

3つ目の相談は植物だった。帰還まで二週間の住民が、発芽に1か月かかる豆を植えた。葉山は無責任だと言った。水も培地も限られている。

修司は、植物を捨てる前に、なぜ今植えたかを問うた。資料の音声記録で住民は答えていた。「帰る日を待つだけの部屋にしたくなかった」。

引継ぎ先を探すのは簡単に見える。だが、世話を頼まれた人には水の配分と失敗の責任が増える。修司は豆を公共物にせず、二週間だけ育て、発芽しなければ地球へ持ち帰れる乾燥種子へ戻す実験を提案した。発芽した場合は、希望者が新しい栽培契約を結ぶ。善意の引継ぎにしない。

その説明中、吊り具の留め金が外れ、修司の身体がゆっくり横へ流れた。彼は机を探して手を伸ばしたが、面接室には机がない。会社では31年間、自分の机が体を支える場所だった。月へ持っていけないのは家具ではなく、無意識のよりどころだった。

修司は箱ではなく床の手すりを掴み、足を着け直した。

面接される側をやめる

残り15分、瀬尾は新しい指示を出さなかった。修司は待ったが、画面の2人は黙っている。面接で沈黙が続けば、候補者は何か話して評価を得ようとする。

修司は、3つの相談の共通点をホワイトボードへ書いた。「規則違反に見える生活上の理由」「善意で引き継ぐと別の負担になる」「一度決めても戻せる仮設」。

次に、自分の失敗を書いた。資料を飛ばした。吊り具を過信した。机を探した。葉山へ対抗するため地味な経験を誇ろうとした。

「最後のは評価に関係ありますか」と葉山が聞いた。

「あります。正しさを競い始めると、住民の相談より自分の職能を守りたくなるので」

葉山は初めて笑った。「あなた、技術者を嫌っているのかと思いました」

「技術者に嫌われるのが怖かっただけです」

修司は候補者としてよく見せることより、働き始めた後に起こる衝突を先に言葉にした。瀬尾は面接を3分延長し、葉山へ質問を許可した。

合格ではなく、条件付きの席

面接結果は、その場では出なかった。代わりに瀬尾は、月面居住区の実際の椅子の図面を見せた。床へ固定され、使わないときは壁へ畳まれる。履き替え場所の仮設案に近い。

「同じ提案を、3年前にもした人がいます。費用を理由に却下されました」

その人は、修司が31年間で一度だけ引継ぎを失敗した相手だった。日東生活設備を辞め、月面計画へ移った元同僚・森下。修司は彼の退職時、忙しさを理由に引継ぎ面談を延期し、そのまま会えなくなった。

瀬尾は、森下が月面居住区で最初の生活調整案を作り、拡張計画への反対報告を残したと明かした。今は地球へ帰還しているが、報告の一部は採用されていない。

「あなたを選考したAIは、森下さんとの関係を知っていました。ただし、それを採用理由にはしていません」

修司は安心しなかった。過去の縁が席を用意したなら、また自分の経験に名前が付かない。瀬尾は続けた。「今日の評価は、失敗を隠さず仮設へ変えたことです。合格ではありません。月で7日間、実地面接を受ける条件付きの席を出します」

修司はその場で承諾せず、咲へ相談する時間を求めた。以前なら、家族を心配させないため1人で決めていただろう。

帰宅すると、持っていけない机の引き出しを開けた。森下から届いていた古い名刺があった。裏には「引継ぎは、残す物より、困ったとき誰に聞くか」と書かれている。

修司は咲へ名刺の写真を送り、「7日間の月面面接の話が来た。今夜、三条件を一緒に確認したい」と書いた。

咲からの返事は短かった。「面接より先に、机を片づけよう。持っていけない物を一緒に決める」。

修司は合格通知を待つような気持ちではなく、土曜の片づけ予定をカレンダーへ入れた。月へ行く準備は、地球の机を1人で捨てないことから始まった。

娘と確認する三条件

夜、修司と咲は食卓へ3枚の紙を並べた。私的通信、緊急帰還基準、契約更新ごとの再協議。7日間の実地面接でも、月へ行く以上どこまで適用されるか確認が必要だった。

運営案では候補者の通信が評価記録に含まれる可能性がある。咲は私的通信の条件に反すると指摘した。修司は「面接だから仕方ない」と言いかけて止めた。

瀬尾へ問い合わせると、安全報告と家族との私信は分離できる。緊急時には通信端末の利用時刻だけを確認し、内容は見ない。その境界を文書へ加えてもらった。

緊急帰還基準には医学的危険だけでなく、本人が継続を望まない場合も含めた。途中帰還を不合格や迷惑として扱わない。再協議は4日目にも行う。

咲は署名欄へサインせず、「同意書ではなく確認記録にして」と求めた。家族が候補者を許可する書式から、本人と運営の約束を家族も確認する書式へ変わった。

机を片づける土曜日

土曜日、2人は修司の机から物を出した。名刺、付箋、古い社内報、壊れた電卓、引継ぎ先を11件書いた退職届の控え。咲は、捨てる物と持っていく物ではなく、誰へ返す物、写真だけ残す物、今も使う物に分けた。

森下の名刺は「連絡する物」へ置いた。修司は謝罪を、森下が受け取るべき宿題にしたくなかった。それを理由に確認すべきことまで避けていた。

咲は「謝らないで質問だけする方法もある」と言った。修司は月面の折り畳み椅子の案を今も引用してよいか尋ねるメールを書いた。

返信は一時間後に届いた。「引用は可。ただし、椅子より先に誰が畳むかを書いてください」。さらに「月へ来るなら、私の失敗も瀬尾から聞け」と続いていた。

森下も月で生活設備を技術担当へ渡しきれず問題を起こしたらしい。2人の失敗は、次の運用で検証すべき資料になった。

机は捨てなかった。咲が映像編集用に使うという。修司は引き出しを空にし、鍵を渡した。持っていけない机が、家に残る誰かの仕事机へ変わった。

月面面接の荷物は小さな箱1つ。修司は新しいノートを入れた。表紙には「困ったとき誰に聞くか」と書き、咲、瀬尾、葉山、森下の名を並べた。

出発前の引継ぎ

出発前日、修司は自宅の設備の使い方を咲へ説明しようとした。給湯器のリセット、分電盤、雨戸の癖。咲は途中で止めた。「私が全部引き継ぐ前提になってる」

修司はまた、1人の後任へ知識を渡そうとしていた。2人は、修理会社、管理会社、近所の電気店の連絡先を分け、咲が覚えなくてよい手順を増やした。

引継ぎとは、詳しい人をもう1人作ることではない。困ったときに助けを呼べる道を残すことだ。森下の名刺の裏にあった言葉が、ようやく生活の形になった。

咲は最後に、月から帰りたくなったら理由を説明する前に連絡してよい、と書いた。修司も、心配させたくないから黙ることをしないと署名した。

出発用の箱はまだ半分空いていた。修司は空白を埋めなかった。月で必要になった物を、地球の誰かへ相談して送ってもらう余地として残した。

月へ持っていく余白

出発当日、修司は荷物の重さをもう一度量った。制限より三キロ軽い。係員は追加で持ち込めると教えたが、修司は空いたまま預けた。

以前なら、役に立ちそうな物を限界まで詰めただろう。今回は、足りない物が分かったとき地球の誰かへ相談する余白にした。

咲は「忘れ物をしたら連絡して」と言った。修司は「忘れ物をしないようにする」と答えかけ、「そうする」と言い直した。

月へ向かう最初の選択は、完全な準備ではなかった。困ったときに連絡する約束を、荷物の空白として持っていくことだった。

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退職届の行き先は、月だった

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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