退職届の行き先は、月だった 第6話:帰還予定のない椅子

月面居住区ミナモの朝礼には、朝がない。

地球時間午前8時。居住区の窓外は黒く、低い地平線の上で太陽が動かない。国枝修司(くにえだ・しゅうじ)は6枚の共有天板を円へ並べ、7日間の実地面接の初日を始めた。

椅子は32脚あった。居住者は31人。最後の1脚には、座面へ白い帯が巻かれ、「帰還予定なし」と印字されている。

第5話で修司は、自分の机を月へ持ち込む代わりに、誰でも組み替えられる共有天板を選んだ。今朝、その天板は食卓でも会議机でもない。白い帯の椅子を囲み、誰も所有していない1人分を話す場所になった。

水循環技師の葉山拓海(はやま・たくみ)が画面へ使用量を出した。31人の居住者に対し、昨夜の水使用者は32人。余分な1人は、地球にいる修司の社員番号だった。

「森下さんが残した安全余白です」と修司は言った。「誰か1人が予定外に戻っても、生命維持を崩さないための水」

「今は戻る人がいない」葉山は白い椅子を指した。「地球側は来月の定員を32人へ増やしたい。余白を使えば、居住費を1人分下げられる」

瀬尾凛(せお・りん)は賛成も反対もしなかった。地球側から届いた表には、空席を使わない1日ごとに損失額が積み上がる。透明な余白は、数字へ載せた瞬間に売れ残りの定員へ変わっていた。

修司は白い椅子へ座らなかった。「帰還予定なしは、帰還できないという意味ですか。それとも、今の予定表に名前がないだけですか」

葉山が眉を上げた。「同じだろ」

「会社で、退職予定者の机を最終出社前に次の人へ渡したことがあります。予定どおり来なければ効率がいい。でも1度だけ、退職を撤回した人が戻ってきた。席がないことが、本人へ『もう要らない』という通知になりました」

修司が31年間で引継ぎを失敗した森下の件だった。空席を早く埋めたことで、相談の余地まで消した。

葉山は腕を組んだ。「月面の水と地球の机を同じにするな。ここでは余白にも維持費がかかる」

「だから気持ちではなく、期限を置きます。30日だけ安全席として保全する。その間、32人目が戻った場合と、新規居住者を入れた場合の水・酸素・作業負荷を同じ条件で測る」

修司は共有天板を3つに分けた。1つは水。1つは居住費。1つは帰還の権利。議題を1枚へ重ねれば、安いか高いかだけで決まる。分ければ、誰が何を諦める案なのか見える。

ミナモ・デスクが予測を出した。32人目をすぐ受け入れれば、1人当たり費用は3.1パーセント下がる。一方、循環設備の洗浄余白は9日分から4日分へ減る。

「4日あれば故障対応はできる」と葉山。

「故障が1つなら」と修司は答えた。

天板の端で通知灯が光った。白い椅子の持ち主について、地球側の記録が1件更新されていた。

帰還予定なし。

その下に、小さく追記がある。

帰還申請、審査開始。

白い帯の持ち主は森下ではなかった。月面居住区の初期整備員、柿崎文乃。2年前、地球での治療を理由に帰還し、月へ戻る予定はないと記録されている。

申請書には診断名も事情もなかった。希望日は42日後。戻りたい理由の欄には「自分で残した配管音を確かめたい」とだけ書かれている。

葉山が首を振った。「感傷で1席を空けておけない。42日後なら新規居住者の訓練をずらすことになる」

「戻れると決まったわけでもありません」と瀬尾。「だから審査開始です」

修司は申請を採用理由に使わなかった。柿崎が戻るから椅子を守る、と決めれば、審査で不適合になった瞬間に余白の意味が消える。30日保全案は、特定の1人ではなく予定外の帰還へ備える仕組みとして検証しなければならない。

共有天板の水の面へ、4つの条件を書いた。循環設備の故障。医療用の追加使用。船便の遅延。帰還者の一時滞在。どれか2つが同時に起きた時、32人目の水が何日持つか。

ミナモ・デスクは単一事故なら4日と答えていた。2条件を重ねると、最短は31時間だった。地球側の資料にはない数字だ。平均値ではなく、生活の重なりを入れたから見えた。

葉山は計算を確認し、修司の式から帰還者の飲料分を外した。「帰還船には48時間分の水がある」

「船が予定どおり接続できれば」

「予定外を全部重ねたら、何人でも足りない」

「全部ではなく、過去2年に同時発生した組合せだけに絞りましょう」

修司は不安を大きく見せるため最悪条件を並べなかった。葉山も費用を小さく見せるため単一故障だけを残せない。2人は記録から実際に重なった5例を選んだ。

そのうち3例で、32人目の水がなければ洗浄延期か入浴制限が必要だった。命に直結はしない。しかし制限を受けるのは毎回同じ区画だった。配管末端の6室。柿崎が残したという配管音も、その区画から記録されている。

「安全余白は全員へ均等に効いていない」と修司は言った。

葉山は黙って末端区画の流量を開いた。設備上は許容範囲。しかし夜間だけ弁が細かく振動し、居住者が水を使う時刻をずらしている。数字上の供給量は足りていても、暮らしの側が設備へ合わせていた。

共有天板は、ここで作業台になった。葉山が弁の模型を置き、修司が6室の生活時間を付箋で並べ、居住者が自分の睡眠と洗濯の時間を書き込む。会議用に固定された机なら、技術図と生活表は別々の画面に閉じていた。

6室のうち1人が言った。「柿崎さんは、音が出る前に水を使う順番を決めてくれていた。帰ったあと、その順番だけ残った」

仕組みではなく、人の調整で設備の不足を隠していた。森下が修司の社員番号へ32人目の水を残したのも、同じ種類の引継ぎだった。名前のない仕事が消えたあと、余白だけが理由を失っている。

修司は30日案へ条件を加えた。椅子を空けるだけでは保全と呼ばない。末端弁の振動を測り、6室の時刻ずらしをなくせるか試す。改善できれば32人目の水は帰還者用だけでなく、設備洗浄の余白として根拠を持つ。

地球側は6時間以内の回答を求めていた。瀬尾は期限延長を求めようとしたが、修司は首を振った。「6時間で決めない、という回答を6時間以内に出します。30日間の検証項目、毎週の数値、途中で中止する条件を添える」

先送りではない。何が分かれば決められるかを公開する保留だった。

葉山は最後まで反対した。ただし反対理由を「非技術職の感傷」から、「30日間の費用と新規居住者の訓練延期」へ書き直した。修司も帰還者の権利だけでなく、その延期を誰が負担するかを案へ加えた。

新規居住候補へ事情を知らせ、待つか別区画を選ぶか、応募を取り下げるかを選べるようにする。空席を守るため、まだ見えない別の人を黙って待たせない。

4枚目の共有天板が運ばれた。題は「待つ人」。白い椅子の持ち主だけでなく、空席へ来るはずだった人の条件も、同じ円へ置かれた。

地球側との会議は、通信遅延を含めて17分しかなかった。担当者は柿崎の申請を知らず、定員表だけを見ていた。

「空席を安全設備として計上する根拠がありません」

修司は柿崎の名を出さなかった。「過去2年の重複障害5例、末端6室の利用時刻変更、洗浄余白の減少を根拠にします。30日後、改善が確認できなければ定員転用を再審査します」

「30日分の損失は誰が負担しますか」

瀬尾が答える前に、修司は自分の案の弱点を出した。居住区だけで負担すれば、生活の質を守る部署ほど赤字になる。地球側だけへ求めれば、月面の都合を見えない費用へ押し戻す。

そこで30日間を設備検証費として折半し、週ごとの数値を公開する。新規居住候補が待機を選ばなければ、別区画の空きへ移す費用も含める。誰かの善意で空席を守らない。

担当者は即答を避けた。「検討します」

修司は会社で何度も聞いた言葉だった。期限のない検討は、断らずに消す方法になる。「再回答時刻を決めてください」

12時間後。地球側はその時刻を記録し、会議を終えた。

葉山は通信が切れてから笑った。「生活調整官は、会議の時計まで調整するのか」

「時刻がない返事は、返事ではありません」

実地検証の最初の作業は、末端弁の交換ではなかった。6室の居住者へ、何時なら水を止められるか尋ねることだった。技術側が最短の停止時間を示し、生活側が避けたい時間を示す。全員に同じ1時間を我慢させる案より、2区画ずつ20分に分ける案が選ばれた。

共有天板は工具置きになり、修司も弁の番号札を運んだ。1/6重力では軽い箱ほど足元から離れ、蓋を開けるだけで中身が散る。第4話の面接で学んだように、速さより仮置き場所が大切だった。

作業後、夜間の振動は37パーセント減った。ゼロではない。葉山は成功と書かず、「第1週基準値」と記録した。修司も、居住者2人が洗濯時刻をまだ戻せないことを残した。

12時間後、地球側の返答が届いた。30日保全を条件付きで承認。費用折半。毎週再評価。新規居住候補の選択権を明記。ただし、柿崎の帰還審査とは切り離す。

修司は最後の条件に安堵した。柿崎が戻れなくても、安全余白の価値は消えない。戻れるとしても、白い椅子を所有物のように永久確保するわけではない。

白い帯は外さなかった。代わりに印字を変えた。

「帰還予定なし」から、「30日後に再評価」へ。

葉山が32人目の水を修司の社員番号から共同設備番号へ移した。森下が人の名で隠した余白を、誰か1人の責任ではない仕組みへ戻した。

修司は娘の咲へ、今日の議事録を送った。家族同意の条件を一緒に決めた時と同じく、結論だけではなく、反対理由と再評価日も添えた。

すぐに返信が来た。「月へ残る前提で話してない?」

修司は画面を読み直した。30日後の会議へ自分が出るよう、無意識に担当欄へ名前を書いている。実地面接は7日間。採用も滞在延長も決まっていない。

担当欄を「生活調整官候補」へ変更し、引継ぎ項目を追加した。自分がいなくても再評価できなければ、名前のない仕事をまた1人へ結びつけることになる。

「直した」と咲へ送ると、「それなら見守る」と返った。賛成ではない。けれど修司にとって、見守るという保留は以前より確かな合意だった。

朝礼の終わり、32脚目の椅子へ誰も座らなかった。空席は無駄でも聖域でもなく、期限と条件を持つ選択肢になった。

その時、柿崎の帰還申請へ追加資料が届いた。月面医療の適合証明ではない。居住区の古い音響記録だった。

白い椅子の下で、一定間隔に鳴る配管音。その間へ、人の声が入っている。

「32人目の水は、私のためじゃない」

柿崎の声だった。

「33人目を迎える前に、帰れなかった人の数を確かめて」

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退職届の行き先は、月だった

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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