退職届の行き先は、月だった 第2話:地球では会議、月では断水

NEW MYTH 月面シリーズ

国枝修司(くにえだ・しゅうじ)が月面居住区ミナモの適性試験へ接続したのは、地球時間の午前9時だった。画面の中では夜も朝も分からない白い廊下が続き、右上に赤い数字が出ている。

残量、二十六リットル。居住者、31人。復旧まで、八時間。

修司は数字を三度見た。会社なら会議資料の誤植を疑うところだが、支援AIのミナモ・デスクは淡々と告げた。

「断水シミュレーションを開始します。生活調整官候補は、八時間の配分案を作成してください」

「1人八百ミリリットル少々ですね」

「割り算は正確です。生活は均等ではありません」

画面が4分割され、医療室、水耕農園、共同厨房、居住区の衛生担当が映った。全員が同時に話し始める。医療室は処置用に六リットル、農園は苗を守るため十リットル、厨房は二食分に八リットル、衛生担当は最低十二リットルを要求した。合計は三十六リットル。十リットル足りない。

「要求量を一律に七割へ減らしますか」とミナモ・デスクが選択肢を出した。

修司は答えなかった。一律削減は公平に見える。会社でも予算が足りないとき、各部署から同じ比率を引けば説明がしやすかった。だが総務時代、清掃費の一割と非常電源点検費の一割が、同じ意味ではないことを何度も見てきた。

「量の前に、止まるものを教えてください」

医療室の担当者が眉を寄せた。「患者がいます」

「六リットルないと、何ができなくなりますか。今すぐ必要な分と、四時間待てる分を分けられますか」

担当者は不満そうだったが、処置器具の洗浄に二・五リットル、服薬と飲用に一リットル、残りは次の処置に備えた予備だと答えた。患者の状態は安定しており、再評価まで三時間なら予備の一部を待てる。

農園では、十リットルを切ると全ての苗が枯れるわけではなかった。新しく植えた葉物の区画が乾きやすく、成長した株は循環槽の残水で六時間持つ。必要なのは区画別の優先順位だった。

厨房の八リットルには、調理だけでなく鍋を洗う水が含まれている。温めるだけの備蓄食へ切り替えれば四リットルで済むが、居住者31人のうち5人は高塩分の備蓄食を続けられない。

衛生担当の十二リットルは、トイレ処理と手洗いに分かれていた。処理を遅らせれば臭いだけでなく配管の再起動に追加の水が要る。今節約すると、復旧後に余計な水を失う。

修司は表計算画面へ数字を入れず、まず4枚の付箋を並べた。命に直結する。時間を置くと損失が増える。別の方法へ切り替えられる。本人の不快だけでなく共同生活へ影響する。

そこへ、水循環技師の葉山拓海(はやま・たくみ)が接続した。34歳。作業服の肩に細い銀色の管が通っている。

「候補者さん、これは聞き取り研修じゃない。配管の圧力が落ちている。数字をください」

「数字を出すために聞いています」

「二十六を三十一で割る。それ以上の物語はいらない」

修司は腹を立てなかった。急いでいる人ほど説明を切り捨てる。自分も社内で「現場はそう言いますが」と、同じ顔をしたことがある。

「では葉山さん。1人八百ミリリットルを配ったあと、医療器具の洗浄とトイレ再起動に必要な水は、どこから出しますか」

葉山は1秒黙り、「個人配給から回収する」と答えた。

「誰から、いつ、どんな条件で?」

「それを決めるのが生活調整官だ」

「なら、先に決めます。個人へ渡してから取り上げる配分はしません」

葉山の口元が固くなった。技術的に正しい配分と、人が受け入れられる配分は別だ。修司はその間へ立つ役割を、ようやく自分の言葉で理解し始めた。

最初の案は、医療へ四リットル、衛生へ九リットル、厨房へ四リットル、農園へ五リットル、個人飲用へ四リットルだった。合計二十六。だが個人飲用四リットルを31人で分ければ、1人百三十ミリリットルにも届かない。

「却下です」と医療担当者が言った。「脱水者を作れば医療水が増える」

修司は案を消した。失敗を隠さない。会社の会議では、一度出した案を守るために数字を足す人が多かった。月では、面子を守る水は一滴もない。

居住者の手元には、非常用ボトルが平均三百ミリリットル残っていると分かった。ただし平均であり、ゼロの人も六百の人もいる。修司は全員へ申告を求めなかった。持っている人が責められれば、次の非常時に隠すようになる。

代わりに、匿名で残量帯だけを選べる画面を作ってもらった。ゼロ、二百未満、二百以上。名前は出さない。結果は、ゼロが7人、二百未満が11人、二百以上が13人だった。

「二百以上の13人から少しずつ回収すればいい」と葉山。

「協力を募ることはできます。でも、持っていることを理由に割り当てを減らしません」

修司は、提供者には次回補充時の優先権を与える案を出した。善意の称賛ではなく、差し出した資源が戻る手順を作る。9人が合計一・八リットルを提供した。4人は提供しなかった。それも記録せず、選択として残した。

二度目の案は、医療四・五、衛生八、厨房三・五、農園四、共同飲用四・二、残り一・八を三時間後の再評価まで封印するものだった。

厨房は備蓄食へ切り替えるが、5人分だけ低塩分食を調理する。農園は新苗の半分を休眠処置し、全区画を救おうとしない。衛生は処理を止めず、清掃の範囲を共用接触面へ絞る。医療は次の処置予定を三時間後に確認する。

誰も満足しなかった。農園担当者は、苗を選ぶことは将来の食料を選ぶことだと反発した。厨房担当者は、温かい食事を贅沢扱いしないでほしいと言った。衛生担当者は八リットルでは余裕がないと明言した。

修司は反論せず、それぞれの異議を配分表の横へ書いた。合意とは、不満が消えることではない。次に見直す時刻と、何が起きたら配分を変えるかを全員が確認できることだ。

「再評価は三時間後。医療患者の状態悪化、配管圧力の追加低下、農園循環槽の残量が基準を下回った場合は前倒しします」

葉山が尋ねた。「誰が判断する」

「1人で判断しません。各担当の計測値を出し、変更理由を全員へ表示します。最終操作は葉山さん。生活影響の確認は私。医療の緊急判断は医療担当です」

「責任を分散しているだけに見える」

「権限を1人へ集めないことと、責任を消すことは違います。誰が何を決めたか残します」

葉山はしばらく黙り、配分表を承認した。ただし承認欄へ「暫定」と大きく書いた。

一時間後、最初の問題が起きた。厨房の使用量が予定より四百ミリリットル多い。修司は担当者を責める前に、計測単位を確認した。低塩分食用の鍋を冷やす水が計上されていなかった。

「見積もり不足です」と厨房担当者は言った。

「分かった時点で出してくれたので、隠れた不足ではなくなりました」

封印した一・八リットルから四百を移す案が出たが、修司はすぐ使わなかった。鍋は自然冷却できる。次の食事時刻へ間に合うかを確認し、20分待つことにした。水ではなく時間を使う選択だった。

二時間目、農園の新苗二列が予測より早く萎れた。担当者は封印分を求めた。葉山はセンサーの誤差だと言った。修司は画面越しに苗を見ても判断できない。

「現地で葉に触れた人の観察を、センサー値と別欄に残してください」

担当者は葉の張り、培地の湿り、区画温度を報告した。センサーは正常だが、送風口に近い二列だけ乾燥が速い。全体へ水を足さず、二列の位置を変えることで持ちこたえた。

葉山が小さく言った。「設備を変えずに、人が苗を動かした」

「技術の負けではありません。選択肢が増えただけです」

三時間後の再評価で、残量は予測より一・一リットル多かった。温かい食事は一部だけ、農園は半分休眠、清掃は縮小。誰か1人の我慢で作った余りではない。小さな代替を積み重ねた結果だった。

ミナモ・デスクが試験終了を告げた。「候補者の配分案は、最適解ではありません」

「そうでしょうね」

「ただし、再評価可能性と異議記録の維持率は、過去候補者の上位三パーセントです」

修司は褒め言葉として受け取る前に、葉山へ尋ねた。「実際の現場なら、何が違いますか」

葉山は少し考え、「月では、地球の会議みたいに次回へ持ち越せない」と答えた。

「だから次回時刻を三時間後に置きました」

「そこは悪くなかった。ただ、住民は数字どおり申告しない」

「地球でも同じです」

初めて葉山が笑った。仲良くなったわけではない。だが非技術職だから不要だという見方は、少しだけ動いた。

接続を切る前、修司は咲へ試験結果を送った。「全員を満足させられなかった」と書くと、すぐ返信が来た。

『地球の会社では、満足してない人を会議録から消してたでしょう。今回は残した?』

修司は異議欄の画面を添付した。個人情報と医療情報は隠し、反対意見が4件残っていることだけ見せた。

『なら、前の仕事より少し進歩』

娘の言葉は厳しかったが、月へ行くことを止める文ではなかった。修司は「ありがとう」と打ち、消さずに送った。

そのとき、終了したはずの配分画面が一度だけ点滅した。使用実績の人数が三十一から三十二へ変わっている。

修司はミナモ・デスクへ確認した。「これは模擬住民ですか」

「訓練名簿は31人です」

「では32人目は?」

回答の代わりに、匿名化されていた使用者欄が一行だけ開いた。所在地はミナモ居住区。使用量は二百八十ミリリットル。識別番号は、修司が地球の会社で31年間使ってきた社員番号だった。

修司は自分の机の水筒を見た。朝から一度も開けていない。それでも月のログでは、地球にいる彼が水を使ったことになっている。

画面の下に、次の審査条件が表示された。

『家族同意欄へ署名がない候補者は、32人目として生活負荷へ算入する』

修司は葉山へ画面を共有した。候補者を急がせるため家族の同意を資源不足へ結びつけるなら、その試験方法自体を見直す必要がある。葉山も今回は「仕様です」と言わず、操作ログを保存した。

月へ行く前から、咲の署名が居住区の水を減らしている。そんな設計を、修司は公平とは呼べなかった。

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退職届の行き先は、月だった

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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