榊真央(さかき・まお)は、謝罪文の下書きを見るのが好きだった。
もちろん、謝罪が好きなわけではない。
そこには、会社が誰に罪を着せたいのかが出る。
『このたびは私の確認不足により』
『お客様にご迷惑をおかけしましたことを』
『今後は再発防止に努めます』
主語が1人に寄せられている文章ほど、たいてい後ろに大勢の足跡が隠れている。
その日、真央の前に座っていた若手社員も、そういう文章を持っていた。
名前は村瀬千尋。入社2年目。手元の紙を両手で握りしめているせいで、端が波打っていた。
「これを、今日中に取引先へ送れと言われました」
真央は紙を受け取った。
印刷された謝罪文には、赤字でいくつも修正が入っていた。文末を弱くしろ。言い訳に見える。もっと反省を出せ。私、という言葉を増やせ。
最後の一行に、太い赤丸がついている。
すべて私の判断で行いました。
真央は、その一文だけをしばらく見ていた。
「あなたの判断ですか」
千尋は首を振った。
「違います。でも、森脇部長が……」
言いかけて、彼女は唇を噛んだ。
部屋の外では、営業部長の森脇圭吾(もりわき・けいご)が大きな声で笑っていた。笑い声だけで、どの机に座っているかわかる男だった。
「数字は空気を読め」
彼はよくそう言う。
売上が足りない月には、請求月を前倒しにしろ。返品予定の商品は、月末までは売れたことにしておけ。取引先が怒ったら、担当者の確認不足にすればいい。
空気を読む数字ほど、あとで腐る。
真央は謝罪文を机に置いた。
「送ってもいいですよ」
千尋の顔が青くなった。
「え」
「ただし、下書きのまま保存してください。修正履歴も、メールの添付も、森脇さんからの指示も、全部」
「でも、送ったら私が」
「あなたが責任を取る文章に見える。でも、責任を押しつけた人は、文章を直した人です」
千尋は意味がわからないという顔をした。
真央はノートパソコンを開いた。画面には、会計データと営業管理システムのログが並んでいる。AI監査ツールが、月末だけ不自然に増える請求処理を赤く表示していた。
「村瀬さん。この請求書を作ったのはあなたですか」
「入力は私です」
「指示は」
「森脇部長です」
「証拠は」
千尋は黙った。
真央は、彼女の沈黙に少しだけ微笑んだ。
「あります。あなたが気づいていないだけ」
森脇は口で指示する男だった。メールに残さない。チャットにも残さない。会議室に呼び、机を叩き、空気を読めと言う。
けれど、彼は1つだけ油断していた。
修正が好きだった。
謝罪文の言い回し、見積書の件名、請求書の摘要。自分の手で直さないと気が済まない。しかも、修正した痕跡を消すほど細かくはない。
真央は、千尋の謝罪文ファイルを開いた。
変更履歴。
作成者、村瀬千尋。
更新者、森脇圭吾。
更新時刻、昨夜23時41分。
赤字で追加された一文。
すべて私の判断で行いました。
真央はその画面を、静かに保存した。
「これで1つ」
「1つ?」
「謝罪文は、謝罪のためだけにあるんじゃありません。誰が責任の形を作ったかを見るためにもあります」
その日の夕方、森脇は会議室で腕を組んでいた。
取引先の担当者。社長。営業部。経理。全員が揃っている。
森脇は最初から勝った顔をしていた。
「今回は村瀬の確認不足です。本人も認めています。厳しく指導しますので」
千尋の肩が小さく震えた。
真央は黙っていた。
森脇がこちらを見た。
「榊さんも、外部の立場から見てそうでしょう。担当者のミスですよね」
真央は、ゆっくりと顔を上げた。
「いいえ」
会議室の空気が止まった。
「担当者のミスではありません。これは、営業部長による責任転嫁の文書化です」
森脇の口角が下がった。
「何を言ってるんですか」
真央はプロジェクターに画面を映した。
謝罪文の変更履歴。
森脇の名前。
赤字の一文。
次に、月末だけ前倒しされた請求一覧。返品予定の商品。取引先から届いていた条件変更のメール。森脇が確認済みにしたログ。
声を荒げる必要はなかった。
数字は、怒鳴らない。
だから強い。
「森脇さん」
真央は言った。
「数字は空気を読みません。読ませた人の名前を残します」
森脇は何かを言おうとした。
けれど、社長の顔を見て、口を閉じた。
千尋は泣いていた。
真央は見なかった。
慰めるのは、勝ってからでいい。
会議が終わったあと、日下部怜(くさかべ・れい)からメッセージが届いた。
今回は名前を出すなと言ったはずだ。
真央は返信しなかった。
代わりに、森脇の発言メモを開く。
数字は空気を読め。
3年前。
真央を会社から追い出した役員も、同じ言葉を使っていた。
静かな帳簿
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