領収書は、目の前で破られた。
森脇圭吾(もりわき・けいご)は、会議室の長机に片肘をつき、2つに裂いた紙をさらに細かく折った。紙の繊維が白く毛羽立ち、印字された金額が読めない断片になっていく。
「こんなもの、経費にできるわけないだろ」
彼は笑っていた。
その笑い方は、怒鳴るよりも部屋を静かにした。
向かいに座る若い社員、片桐菜々は、膝の上で両手を握っていた。親指の爪だけが白い。何かを言おうとして、でも声にする前に飲み込んでいる。
榊真央(さかき・まお)は、破られた紙ではなく、森脇の指を見ていた。
右手の薬指。爪の横に、赤いインクがついている。
領収書の印字ではない。承認印の朱肉でもない。もっと水っぽい、修正液の上からなぞった赤ペンの色だった。
「片桐さん」
真央は声を低くした。
「この領収書、誰に渡しましたか」
菜々は森脇を見た。
森脇は、何も言うな、とは言わなかった。
言わないことで言わせなかった。
「私が、営業の共有トレーに入れました」
「いつ」
「昨日の、17時半ごろです」
「その前に、写真を撮りましたか」
菜々の肩が小さく跳ねた。
森脇が鼻で笑った。
「写真? 経理ごっこかよ」
「撮っていません」
菜々は答えた。
その声は、嘘をつく声ではなかった。
嘘をつく余裕を失った人の声だった。
森脇は破った紙片を灰皿の中へ落とした。今どき喫煙できない会議室に置かれた、使われない灰皿。誰かが昔の名残として残したものだ。
「はい、終わり。証拠もない。君の立替は自腹。会社に迷惑かけたくないなら、始末書を書いて」
真央は、そこで初めて森脇を見た。
「始末書ではなく、謝罪文ですか」
「どっちでもいいよ。文面はこっちで作る」
「下書きは保存しますか」
森脇の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。
真央はそれを見逃さなかった。
この男は、紙を破ることには慣れている。
けれど、下書きという言葉には反応する。
前回と同じだ。
森脇は、誰かに謝罪文を書かせる。だが文章そのものを残すことを嫌う。責任の主語が、そこに出るからだ。
「榊さん」
森脇は声を落とした。
「あなた、外部の人ですよね。社内の空気ってものがあるんですよ」
真央はうなずいた。
「数字は空気を読みません」
部屋の温度が、一度下がった。
森脇の眉が動いた。
「またそれか」
「前にも聞きました」
「便利な決め台詞だね」
「私の台詞ではありません」
その瞬間、日下部怜(くさかべ・れい)からメッセージが届いた。
今回は名前を出すな。
真央は画面を伏せた。
森脇は勝ったと思ったのだろう。椅子にもたれ、菜々へ顔を向けた。
「片桐。今日中に謝罪文。件名は『不適切な経費申請について』でいい。本文には、自分の確認不足と、上長への報告が遅れたことを書け」
菜々の唇が震えた。
「でも、報告はしました」
「した証拠は?」
その問いは、刃物のようだった。
菜々は黙った。
真央も黙った。
今、ここで反論しても勝てない。
読者なら、ここで叫びたくなるかもしれない。どうして言い返さないのか。どうして助けないのか。どうして破られる前に止めないのか。
けれど真央は知っている。
声の大きい人間は、声の大きさで負けたふりをする相手を見下す。
そして見下した瞬間に、余計なことを言う。
「承知しました」
真央は立ち上がった。
「片桐さん、謝罪文の下書きを作りましょう」
菜々が顔を上げた。
森脇は満足そうに笑った。
「やっと話が早くなった」
真央は会議室を出る前に、灰皿を見た。
紙片の1つに、数字の末尾だけが残っている。
八。
金額の末尾なのか、日付なのか、店舗番号なのか。
それだけでは何も証明できない。
けれど、真央はもう必要なものを1つ見つけていた。
破られた領収書ではない。
森脇の指についた赤いインクでもない。
会議室の壁にかかった、古い勤怠端末だった。
社員証をかざすと、入退室の履歴が残る。
そしてこの会社は、会議室予約と入退室ログを連携していない。
だから森脇は気づいていない。
昨日の17時半、片桐菜々が営業の共有トレーに領収書を入れた時間。
その10分後、会議室に入った人物がいる。
森脇ではない。
森脇の1つ上、管理本部長の栗原(くりはら)だった。
真央は菜々と小会議室に入った。
「謝罪文を書きます」
菜々が言った。
泣きそうな声ではない。
もう諦めた声だった。
「書きましょう」
真央はノートパソコンを開いた。
「ただし、主語を正確にします」
菜々は意味がわからない顔をした。
真央はゆっくり打ち始めた。
私は、提出済みの領収書が破棄された経緯について、確認を怠りました。
菜々が息を止めた。
「これだと」
「はい」
真央は続けた。
また、上長から『証拠がない』と指摘されたため、提出時刻、提出場所、入退室記録、会議室予約履歴を照合し、事実確認に協力します。
「これ、謝罪文ですか」
「森脇さんが求めた形式です」
真央は保存ボタンを押した。
ファイル名は、謝罪文案。
だが中身は、事実確認の開始通知だった。
「片桐さん」
真央は言った。
「あなたは負けていません。相手が、勝ったと思っただけです」
菜々の目に、ようやく怒りが戻った。
その怒りは、泣き声よりもずっと頼もしかった。
10分後、森脇のもとへ謝罪文案が送られた。
さらに3分後、森脇から返信が来た。
余計なことを書くな。領収書の件は栗原さんには上げるな。
真央はそのメールを見て、静かに息を吐いた。
破られた領収書は、戻らない。
だが、破った人が隠したかった名前は、戻ってきた。
栗原。
森脇より上の敵。
真央は画面を閉じた。
日下部へ一行だけ送る。
名前が出ました。
すぐに返信が来た。
3年前と同じ名前だ。
静かな帳簿
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