静かな帳簿 第2話:領収書を破った人

領収書は、目の前で破られた。

森脇圭吾(もりわき・けいご)は、会議室の長机に片肘をつき、2つに裂いた紙をさらに細かく折った。紙の繊維が白く毛羽立ち、印字された金額が読めない断片になっていく。

「こんなもの、経費にできるわけないだろ」

彼は笑っていた。

その笑い方は、怒鳴るよりも部屋を静かにした。

向かいに座る若い社員、片桐菜々は、膝の上で両手を握っていた。親指の爪だけが白い。何かを言おうとして、でも声にする前に飲み込んでいる。

榊真央(さかき・まお)は、破られた紙ではなく、森脇の指を見ていた。

右手の薬指。爪の横に、赤いインクがついている。

領収書の印字ではない。承認印の朱肉でもない。もっと水っぽい、修正液の上からなぞった赤ペンの色だった。

「片桐さん」

真央は声を低くした。

「この領収書、誰に渡しましたか」

菜々は森脇を見た。

森脇は、何も言うな、とは言わなかった。

言わないことで言わせなかった。

「私が、営業の共有トレーに入れました」

「いつ」

「昨日の、17時半ごろです」

「その前に、写真を撮りましたか」

菜々の肩が小さく跳ねた。

森脇が鼻で笑った。

「写真? 経理ごっこかよ」

「撮っていません」

菜々は答えた。

その声は、嘘をつく声ではなかった。

嘘をつく余裕を失った人の声だった。

森脇は破った紙片を灰皿の中へ落とした。今どき喫煙できない会議室に置かれた、使われない灰皿。誰かが昔の名残として残したものだ。

「はい、終わり。証拠もない。君の立替は自腹。会社に迷惑かけたくないなら、始末書を書いて」

真央は、そこで初めて森脇を見た。

「始末書ではなく、謝罪文ですか」

「どっちでもいいよ。文面はこっちで作る」

「下書きは保存しますか」

森脇の笑顔が、ほんの少しだけ止まった。

真央はそれを見逃さなかった。

この男は、紙を破ることには慣れている。

けれど、下書きという言葉には反応する。

前回と同じだ。

森脇は、誰かに謝罪文を書かせる。だが文章そのものを残すことを嫌う。責任の主語が、そこに出るからだ。

「榊さん」

森脇は声を落とした。

「あなた、外部の人ですよね。社内の空気ってものがあるんですよ」

真央はうなずいた。

「数字は空気を読みません」

部屋の温度が、一度下がった。

森脇の眉が動いた。

「またそれか」

「前にも聞きました」

「便利な決め台詞だね」

「私の台詞ではありません」

その瞬間、日下部怜(くさかべ・れい)からメッセージが届いた。

今回は名前を出すな。

真央は画面を伏せた。

森脇は勝ったと思ったのだろう。椅子にもたれ、菜々へ顔を向けた。

「片桐。今日中に謝罪文。件名は『不適切な経費申請について』でいい。本文には、自分の確認不足と、上長への報告が遅れたことを書け」

菜々の唇が震えた。

「でも、報告はしました」

「した証拠は?」

その問いは、刃物のようだった。

菜々は黙った。

真央も黙った。

今、ここで反論しても勝てない。

読者なら、ここで叫びたくなるかもしれない。どうして言い返さないのか。どうして助けないのか。どうして破られる前に止めないのか。

けれど真央は知っている。

声の大きい人間は、声の大きさで負けたふりをする相手を見下す。

そして見下した瞬間に、余計なことを言う。

「承知しました」

真央は立ち上がった。

「片桐さん、謝罪文の下書きを作りましょう」

菜々が顔を上げた。

森脇は満足そうに笑った。

「やっと話が早くなった」

真央は会議室を出る前に、灰皿を見た。

紙片の1つに、数字の末尾だけが残っている。

八。

金額の末尾なのか、日付なのか、店舗番号なのか。

それだけでは何も証明できない。

けれど、真央はもう必要なものを1つ見つけていた。

破られた領収書ではない。

森脇の指についた赤いインクでもない。

会議室の壁にかかった、古い勤怠端末だった。

社員証をかざすと、入退室の履歴が残る。

そしてこの会社は、会議室予約と入退室ログを連携していない。

だから森脇は気づいていない。

昨日の17時半、片桐菜々が営業の共有トレーに領収書を入れた時間。

その10分後、会議室に入った人物がいる。

森脇ではない。

森脇の1つ上、管理本部長の栗原(くりはら)だった。

真央は菜々と小会議室に入った。

「謝罪文を書きます」

菜々が言った。

泣きそうな声ではない。

もう諦めた声だった。

「書きましょう」

真央はノートパソコンを開いた。

「ただし、主語を正確にします」

菜々は意味がわからない顔をした。

真央はゆっくり打ち始めた。

私は、提出済みの領収書が破棄された経緯について、確認を怠りました。

菜々が息を止めた。

「これだと」

「はい」

真央は続けた。

また、上長から『証拠がない』と指摘されたため、提出時刻、提出場所、入退室記録、会議室予約履歴を照合し、事実確認に協力します。

「これ、謝罪文ですか」

「森脇さんが求めた形式です」

真央は保存ボタンを押した。

ファイル名は、謝罪文案。

だが中身は、事実確認の開始通知だった。

「片桐さん」

真央は言った。

「あなたは負けていません。相手が、勝ったと思っただけです」

菜々の目に、ようやく怒りが戻った。

その怒りは、泣き声よりもずっと頼もしかった。

10分後、森脇のもとへ謝罪文案が送られた。

さらに3分後、森脇から返信が来た。

余計なことを書くな。領収書の件は栗原さんには上げるな。

真央はそのメールを見て、静かに息を吐いた。

破られた領収書は、戻らない。

だが、破った人が隠したかった名前は、戻ってきた。

栗原。

森脇より上の敵。

真央は画面を閉じた。

日下部へ一行だけ送る。

名前が出ました。

すぐに返信が来た。

3年前と同じ名前だ。

READ ON

静かな帳簿

2 / 14

このシリーズの全話 14編
  1. 第1話:謝罪文の下書き
  2. 第2話:領収書を破った人
  3. 第3話:赤字の会議室
  4. 第4話:確認済みという嘘
  5. 第5話:監査記録として残します
  6. 第6話:録音される沈黙
  7. 第7話:消された更新履歴
  8. 第8話:栗原の署名
  9. 第9話:数字は空気を読まない
  10. 第10話:守られた証言者
  11. 第11話:退職者の社員番号
  12. 第12話:入社前の承認
  13. 第13話:2人目の告発者
  14. 最終話:静かな決算説明会
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

目次