朝倉澪(あさくら・みお)が目を覚ますと、机の上に会議資料が置かれていた。
表紙には、黒いインクでこう印字されている。
第3回 未成立神話編集会議
参加者欄には、澪の名前があった。
隣には、藤井(ふじい)の名前もある。
ただし藤井の名字の横には、括弧書きで別の言葉が添えられていた。
仮名。固定待ち。
澪は昨日の雨を思い出した。駅の表示から名前が消え、呼ばれなかった人だけが薄くなっていく雨。藤井は澪に呼ばれて戻った。戻ったはずだった。
けれど、名前はまだ仮のままだ。
スマートフォンが震えた。
差出人不明。
9時23分、五番線跡地。遅れると会議は始まっていたことになります。
おかしな文面だった。
遅れると、始まるのではない。
始まっていたことになる。
澪はコートを羽織り、資料を鞄に入れた。玄関を出る直前、廊下の鏡に映った自分を見て足を止める。
胸元に、名札がついていた。
朝倉澪。
その下に、小さな文字でこう書かれていた。
読者代表。
五番線跡地は、地図にはなかった。
駅には一番線から四番線までしかない。けれど澪が改札を通ると、いつもは壁になっている場所に、細い階段が現れていた。
階段の先には、会議室があった。
蛍光灯のない白い部屋。窓はない。中央に長机があり、椅子が十二脚並んでいる。壁には時計が3つかかっていた。
1つは現在時刻。
1つは昨日の時刻。
1つは、まだ針がついていなかった。
藤井は、先に座っていた。
澪を見ると、笑おうとして失敗したような顔をした。
「私、ここを知ってる気がする」
「思い出したの」
「違う。思い出したんじゃなくて、先に書かれてた感じ」
その言葉の意味を聞く前に、長机の向こう側に人影が増えた。
音もなく、椅子が埋まっていく。
白い手袋の女。
古いランドセルを背負った少年。
顔の輪郭だけがぼやけた老人。
そして、名札のない駅員。
澪は駅員を見て、少し安心しかけた。
けれど駅員は、首を横に振った。
「私は参加者ではありません」
「じゃあ、何なんですか」
「議事録です」
澪は言葉を失った。
駅員は椅子に座らず、壁際に立ったまま手帳を開いた。そこには、これから話されるはずの言葉が、すでに数行だけ書かれている。
白い手袋の女が口を開いた。
「朝倉澪さん。あなたは、目次を読んだ」
「送ったのはあなたですか」
「目次は送られるものではありません。届く形を選ぶだけです」
また、答えになっていない答えだった。
澪は鞄から資料を出した。
「これは何ですか」
女は表紙を見た。
「神話になる前の、候補です」
「神話って、昔話や伝説のことですよね」
「いいえ」
女は淡々と言った。
「誰かが何度も思い出すことで、現実より強くなる話のことです」
藤井が小さく息を吸った。
澪は、その定義が怖かった。
もしそうなら、藤井はまだ現実ではない。
何度も思い出されて、ようやく戻ってくる途中にいる。
「会議の議題は1つです」
白い手袋の女は、机の上に薄い紙を置いた。
そこには、3つの章題が並んでいる。
藤井を親友として固定する。
藤井を駅に返す。
藤井を、澪の過去にしない。
澪の喉が鳴った。
「選べってことですか」
「いいえ。読者代表は選びません」
「じゃあ、何をするんですか」
「選ばれなかった未来に、名前をつけます」
その瞬間、針のない時計が音を立てた。
藤井の名札の下に、新しい文字が浮かぶ。
朝倉澪が忘れた人。
澪は藤井を見た。
藤井は笑っていなかった。
泣いてもいなかった。
ただ、澪が何を思い出せないのかを、澪より先に知っている顔をしていた。
「澪」
藤井は言った。
「私を戻したら、あなたが忘れたことも戻るよ」
会議室の壁に、昨日までなかった扉が現れた。
扉の上には、次の議題が掲げられている。
第6話:忘れた約束を開ける鍵
名札のない駅員が、ようやく澪を見た。
「ここから先は、読むだけでは戻れません」
澪は資料を握りしめた。
読むことは、選ばなかった未来を殺すことでもある。
ならば、編集することは。
殺した未来に、墓標を立てることなのかもしれなかった。
まだ名前のない神話
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