壁の振動が止まった午前2時、地球から届いた信号は、国枝修司(くにえだ・しゅうじ)の退職届を取り消していた。
申請者の欄に修司の名はなかった。代わりに記されていたのは、22年前に亡くなった母、国枝澄江(くにえだ・すみえ)の職員番号だった。
修司は番号を見た瞬間、地球の実家にあった薄緑色の社員証を思い出した。母は市立病院の給食室で働き、退職後も番号を暗唱できた。買い物の暗証番号にまで使っていたから、家族なら誰でも知っていた。
「偽造です」と葉山拓海(はやま・たくみ)は言った。「死人は申請できない」
瀬尾凛(せお・りん)は首を振った。「偽造だと決めるのも早い。廃止番号を動かせる規則が残っているかもしれない」
2人が修司を見た。母のことを説明するよう求められている気がした。どんな人だったか。なぜ番号が残ったのか。家族にしか分からない事情はないか。
修司は答えず、信号の原本を複製禁止にした。「母の人柄は、番号が正しく使われた証拠にはなりません。先に経路を見ましょう」
ミナモ・デスクが人事台帳を照合した。澄江の番号は確かに廃止されていた。ただし規則の末尾に、災害時の家族代理番号として再利用できるという古い例外があった。生命に危険があり、本人が意思を示せない場合に限る。
修司の退職は生命危機ではない。しかも本人は月面居住区にいて、通信もできる。例外を使う条件は1つも満たしていなかった。
それでも信号は正規の認証を通っていた。母の署名画像まで添えられている。修司には本物に見えた。丸く閉じない「国」の字、最後だけ右上がりになる「澄」。子どものころ、連絡帳で何度も見た字だった。
本物の筆跡が、本物の意思を証明するとは限らない。修司は署名画像の出典を求めた。地球側の人事管制は家族資料だから開示できないと拒んだが、用途と作成年だけなら確認できると瀬尾が交渉した。
返ってきた答えは、修司が高校生のときに提出された緊急手術同意書だった。母が自分の手術に備え、家族へ代理権を渡した書類。その署名だけが切り取られ、40年後の退職取消へ貼られていた。
「誰がこんなことを」と葉山が声を荒らげた。
修司は母の字が画面から消えるまで見つめた。「誰が、の前に、何のために、です」
信号が送られたのは、昨夜、壁内ポンプを18分停止した時間だった。低周波に隠されていた通信は設備異常ではなく、古い保守回線を通っていた。その18分に同じ退職取消を受けた人が、修司のほかに6人いた。
6人はいずれも月面勤務の終了を申し出ていた。理由は違う。子どもの卒業式へ帰る人、放射線量の累積で休む人、地球で始めたい店がある人、単に月の暮らしが合わなかった人。地球側の一覧では全員が「継続意思あり」へ変わっていた。
取消によって守られたものもあった。帰還便の座席は、申請を確定すると48時間で他の待機者へ回される。取り消された6人の席は失われず、保留になっていた。
「善意の緊急措置かもしれない」と瀬尾は言った。「席を守るための」
「善意なら、本人の意思を使っていいんですか」と、通信画面の向こうで国枝咲(くにえだ・さき)が言った。週1回の私的通信の日ではなかったが、家族番号の使用確認に本人の知る範囲を聞くため、修司が接続を頼んでいた。
咲は祖母の署名画像を見なかった。修司が見せようとしなかったからだ。「おばあちゃんが生きていたら、お父さんを月に残したいと思ったかもしれない。でも、そう思ったかもしれない、で手続きを動かしたら、死んだ人は何にでも賛成させられる」
修司はうなずいた。母ならどうしたかを考えることはできる。母の名で決めることはできない。
7人の取消を一括して無効にすれば、今度は座席が失われる人が出る。そこで修司は、取消の効力ではなく、帰還枠の移動だけを72時間止める提案をした。本人の退職意思は元の状態へ戻し、席だけは回答まで保持する。
最初に返答した整備士は、退職を確定した。「母の介護へ戻る。月が嫌いになったわけではない」と書いた。2人目は30日保留を選んだ。3人目は取消を希望したが、その理由を公開しなかった。残る3人は回答しない権利を選び、72時間の保留になった。
同じ信号を受けても、正しい処理は1つではなかった。修司自身の画面にも、退職を確定する、30日保留に戻す、取消を本人の意思として再申請する、という3つの選択肢が並んだ。
「お父さんは、どうするの」と咲が聞いた。
修司はすぐ答えなかった。誰かが自分を必要として取消を送ったのなら、うれしいと思う自分がいた。月面で役に立っている証拠にしたかった。けれどそれを理由に残れば、母の署名を使った人物の思惑まで自分の希望に変えてしまう。
「30日保留に戻す」と言った。「残るか帰るかを、誰かの偽の署名で決めたくない」
咲は少し笑った。「前なら、家族のために帰るって勝手に決めてたね」
「今も言いそうになった」
「言わなかったなら、少し進歩」
人事管制は退職取消を無効化し、帰還枠の保持を別処理へ分けた。母の番号は再び廃止され、緊急代理番号を人事処理へ流用できないよう用途制限が加えられた。修司は母の署名画像を証拠一覧から削除せず、閲覧を第三者監査だけに閉じた。消してしまえば、使われた事実までなかったことになる。
次に、保守回線へ信号を入れた端末を追った。発信場所は月面居住区ミナモの旧通信室。管理者は葉山だった。
葉山は長い間、黙っていた。やがて、自分が送ったと認めた。ただし署名画像を選んだのは彼ではない。帰還枠が自動で消える欠陥を見つけ、全員分を一時保留にする非常命令を出したところ、地球側の古い制度が「家族代理署名」を自動で補ったという。
「止めなければ、6人は帰れなくなった」と葉山は言った。「相談している時間はなかった」
「だから止めたことは、必要だったかもしれない」と修司は答えた。「でも、止めるために本人の退職を取り消す必要はなかった。席と意思が同じスイッチになっているのが問題です」
葉山は反論せず、自分の端末権限を一時停止した。処分を先に決めるのではなく、同じ事態で誰がどう止められるかを作り直す。帰還枠の保持は運用責任者と居住者代表の共同承認になり、本人意思の変更は本人以外にできなくなった。
作業が終わるころ、食堂の照明が朝の色へ変わった。月に朝はない。それでも住人が眠り、起きるために、時間ごとに光が変わる。修司は味の薄いコーヒーを2つ持ち、通信室の葉山へ1つ渡した。
「母の番号を使ったのは、俺じゃない」と葉山は言った。
「分かっています」
「でも、きっかけは俺の命令だ」
「それも記録しました。助けようとしたことと、越えた線を、どちらも」
葉山は紙コップを見て、「それがいちばん重い記録だな」と呟いた。
午前7時、7人の処理結果が確定した。退職確定2人、30日保留2人、取消再申請1人、回答保留2人。誰も「月に残った人数」という成功欄へまとめられなかった。それぞれが自分の次の暮らしを選んだ結果だった。
処理結果を住民へ説明する場で、退職を確定した整備士の安達が手を挙げた。「俺が帰ると、夜間保守が1人減る。それでも認めるのか」。問いは修司へ向けられていたが、実際には残る全員へ向けられていた。必要とされることが、帰れない理由へ変わる瞬間だった。
修司は人員表を開かなかった。「認めるかどうかを、私たちが決める話ではありません。帰ると決めた人を、どう送るかを決める話です」
葉山は夜間保守の不足を3つに分けた。今週中に渡せる点検、地球から遠隔支援できる診断、後任が来るまで停止すべき実験。安達の経験を完全に複製することはできない。それでも「あなたしかできない」を1つずつ小さくすれば、出発日は人質にならない。
安達は、手順書に書いていなかった音を3つ録音した。正常な循環弁、摩耗が始まった循環弁、交換直前の循環弁。葉山は波形へ変換しようとしたが、安達は「まず耳で聞け」と笑った。技術を数字にすることと、身体で覚えた感覚を残すことは、どちらか一方ではない。
修司はその引継ぎを見て、地球の会社で11件の行き先を書いた退職届を思い出した。自分は、引継ぎを全部終えなければ辞めてはいけないと思っていた。だが安達は、終わらない部分を明示したうえで帰ろうとしている。置いていくことは、投げ出すことではなかった。
一方、取消を再申請した農業担当の朝比奈は、理由欄へ「まだ月で失敗したい」と書いた。立派な使命ではない。次の収穫が成功する保証もない。ただ、自分の判断で残り、自分の判断でまた変える。その短い文を、修司はうらやましいと思った。
瀬尾は全員の結果を読み上げず、本人が公開を選んだものだけを共有した。人員不足を埋める会議と、個人の退職理由を聞く会議も分けた。事情を詳しく話した人ほど優遇される仕組みを作れば、いつか誰かが帰るために悲しみを証明しなければならなくなる。
咲は通信越しに、その説明を最後まで聞いていた。「お父さんの会社では、辞める理由をどこまで聞いたの」
「聞いていた。引き止める材料を探すつもりはなくても、詳しい方が誠実だと思ってた」
「話さない人は、不誠実だった?」
修司は答えに詰まった。母の署名まで調べられた今なら、話したくない理由があることを想像できる。「そう扱っていたかもしれない」と認めた。
その日の運用記録には、新しい欄が増えた。理由ではなく、必要な配慮。本人が何を経験したかではなく、何をいつまでに変えれば選択を実行できるか。安達は帰還準備、朝比奈は勤務継続、回答しなかった2人は連絡停止を選んだ。
修司の退職届も元の保留へ戻った。母の名前は犯罪者にも恩人にもされず、「本人意思なく使用された番号の持ち主」として残った。
咲から短い動画が届いた。実家の押し入れを整理していたらしい。母の古い弁当箱を開くと、蓋の裏に油性ペンで「自分で決めて、あとで変えていい」と書かれていた。
修司は笑った。母の遺言ではない。弁当を食べきれない高校生の修司へ、残してもいいと伝えただけの言葉だ。それでも今の自分には、ちょうどよかった。
その夜、帰還便の座席表が更新された。修司の名前はまだなかった。30日後まで席を確保しない選択をしたからだ。
だが最終行に、乗客名のない1席があった。予約者なし。行き先は地球。状態は「搭乗済み」。出発は3日後なのに、重量センサーはすでに71キログラムを記録している。
葉山が座席番号を読み上げ、顔を上げた。「この席、帰還便には存在しない。貨物区画の番号です」
修司の端末に、新しい業務通知が届いた。
『帰還を希望しない搭乗者がいます。生活調整官は、本人を地球へ戻しますか』
退職届の行き先は、月だった
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