まだ名前のない神話 第3話:雨の日に消える名前

NEW MYTH Nameless Myth

雨は、朝から細い線のまま降り続いていた。

澪は傘を差さずに駅前のロータリーへ立っていた。濡れてもかまわないと思ったわけではない。傘を開くという小さな動作をすると、そのあいだに何かを見落とす気がした。

駅の電光掲示板には、いつもなら到着時刻と行き先が流れている。けれどその日は違った。

そこには、行き先の代わりに人の名前が並んでいた。

佐伯、三沢、遠野、藤井(ふじい)。

知らない名前ばかりだった。けれど澪は、その中に自分の名前がないことを確認して、なぜかほっとした。ほっとした直後、その感情がひどく間違っているように思えた。

次の瞬間、掲示板の文字が一斉に滲んだ。

雨粒が画面に当たったわけではない。表示そのものが、水に溶ける墨のように崩れていく。佐伯の「伯」が先にほどけ、三沢の「沢」が流れ、遠野の「野」は草冠だけを残して消えた。

名前が消えた場所には、短い文章が残った。

選ばれなかった者は、雨の日に先に忘れられる。

澪は息を止めた。

その一文を、彼女は知っていた。家の机に置かれていた、差出人のない目次。その三行目に、同じ言葉が印字されていた。

背後で誰かが言った。

「見えていますか」

振り返ると、駅員の制服を着た男が立っていた。けれど帽子には駅名が入っていない。名札も空白だった。

「あなたにも、読めるんですね」

澪は答えなかった。答えた瞬間、自分も何かの欄に登録される気がした。

男は掲示板を見上げたまま、静かに続けた。

「名前は、ただの呼び名ではありません。誰かがその人を覚えているための、いちばん短い契約です。雨の日は、その契約がほどけやすい」

「あなたは誰ですか」

澪がそう聞くと、男は少し困ったように笑った。

「それを聞かれると、困るんです。まだ、書かれていないので」

その答えは冗談のようで、冗談ではなかった。

澪は鞄から目次の紙を取り出した。雨に濡れているはずなのに、紙だけは乾いていた。三行目の下に、昨日まではなかった小さな文字が増えている。

ただし、忘れられる前に呼び戻された名前は、別の物語を持って帰る。

掲示板に残っていた名前のうち、ひとつだけがまだ完全には消えていなかった。

藤井。

澪は知らない名前を、声に出すべきか迷った。知らない誰かを呼ぶことは、責任を引き受けることに似ている。呼び戻したあと、その人がどんな物語を持って帰るのか、彼女にはわからない。

けれど、目の前で消えていく名前をただ見ていることもできなかった。

「藤井さん」

澪の声は、雨音に簡単に飲まれるほど小さかった。

それでも掲示板の文字は止まった。

駅前に停まっていた無人のバスのドアが、音もなく開いた。中から降りてきたのは、澪と同じ制服を着た少女だった。髪も、鞄も、靴の濡れ方まで澪とよく似ていた。

少女はまっすぐ澪を見て、言った。

「呼んだのは、あなた?」

澪はうなずけなかった。

少女の胸元の名札には、藤井ではなく、別の名前が書かれていた。

澪。

雨は少しだけ強くなった。目次の四行目が、紙の上でゆっくりと浮かび上がる。

第4話 未来を読んだ者の沈黙

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まだ名前のない神話

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このシリーズの全話 12編
  1. 第1話:目次だけが先に届く
  2. 第2話:選ばれなかった駅
  3. 第3話:雨の日に消える名前
  4. 第4話:未来を読んだ者の沈黙
  5. 第5話:神話になる前の編集会議
  6. 第6話:忘れた約束を開ける鍵
  7. 第7話:読まれなかった名札
  8. 第8話:2本目の傘
  9. 第9話:間違えられた名前
  10. 第10話:白い手袋の女
  11. 第11話:目次を閉じる日
  12. 最終話:まだ名前のない神話
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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