読まれなかった名札は、駅の遺失物窓口にあった。
窓口の棚には、傘も財布もなかった。名前だけが並んでいる。呼ばれなかった名前。忘れられた名前。誰かが覚えるのをやめた名前。
澪は藤井(ふじい)の名札を探した。けれど見つかったのは、別の名札だった。
そこには「朝倉澪(あさくら・みお)」と書かれていた。
今、胸につけている名札と同じ名前。だが裏返すと、小さな文字で「返却期限切れ」とある。
名札のない駅員は言った。「あなたの名前は、一度ここへ預けられています」
澪は思い出したくなかった。小学生の自分が踏切で待っていた日。迎えに行くと約束した誰か。雨。2本の傘。
藤井は、その記憶を急がせなかった。ただ、棚の奥から1枚の名札を取った。
名前は消えている。だが、裏に鉛筆で「澪が呼ぶまで返さない」と書かれていた。
藤井ではない。藤井になる前の誰かが、澪の名前を守っていた。
澪は名札を握りしめた。読むだけでは戻れない。けれど、読まれなかったものを読むことならできる。
棚の奥で、次の名札が音を立てた。「第8話:2本目の傘」
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まだ名前のない神話
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