2本目の傘は、藤井(ふじい)のためではなかった。
澪は踏切の記憶の中で、それを知った。小学生の自分は傘を2本持っていた。1本は自分用。もう1本は、名前のない少年のためだった。
藤井は、その少年を覚えていた。
「彼が、あなたの名前を預けた人」
雨はまっすぐ降っていた。踏切の向こうで少年が笑う。だが電車が通るたび、顔だけが白く抜けていく。
澪は約束を破ったのではない。約束の日を、物語ごと閉じたのだ。
編集会議の白い手袋の女が現れた。「1人を戻すには、1人が読まれないまま残る」
澪は傘を差し出した。「だったら、読まれないままにしない」
少年は傘を受け取らなかった。代わりに、澪の名札を指さした。
そこには、朝倉澪(あさくら・みお)の下に新しい肩書きが増えていた。「未承認編集者」
藤井が笑った。初めて、仮名ではない誰かの笑い方で。
踏切の向こうから、少年の声がした。「第9話で、僕の名前を間違えて」
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まだ名前のない神話
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