駅には、選ばれる駅と、選ばれなかった駅がある。
朝倉澪(あさくら・みお)がそのことを考えたのは、遅延証明書を握ったまま、改札の前で立ち尽くしている老人を見たときだった。
駅名は、南梢町。都心から電車で30分。快速は止まらず、駅前の商店街は半分ほどシャッターが下りている。地図の上では確かに存在しているのに、誰かの目的地として選ばれることは少ない。そんな場所だった。
目次の第2章に書かれていた題名。
第2章 選ばれなかった駅
澪は、封筒を鞄の底に入れたまま、駅のホームに降りた。
昨日、路線情報には「人身事故」と表示されていた。けれど、南梢町駅の掲示板には、事故を知らせる紙も、献花も、警察の痕跡もなかった。
駅員に尋ねると、若い男は困ったように笑った。
「ああ、昨日の件ですか。結局、事故ではなかったんです」
「事故ではなかった?」
「線路内に人がいたという通報があって、電車を止めたんですが、誰も見つからなかったそうです。監視カメラにも映っていなくて」
誰もいない線路のために、電車が止まった。
澪は、ホームの端へ歩いた。黄色い点字ブロックの先、線路の向こう側には、使われていない古いホームが見えた。昔は二面四線だったのだろう。今は柵で閉ざされ、古い駅名標だけが残っていた。
そこに書かれていた駅名を見て、澪は息を止めた。
未選駅
そんな駅名があるはずはなかった。
「あちらのホーム、昔は使われていたんですか」
澪が尋ねると、駅員は首をかしげた。
「向こう側ですか? ホームなんてありませんよ」
澪は振り返った。古いホームは、まだそこにあった。錆びた柱。剥がれかけたベンチ。誰も立っていないのに、誰かが待っているような気配。
彼には見えていない。
封筒の中の目次を読んだ自分にだけ見えているのだと、澪はそのとき理解した。
古いホームのベンチに、1冊の本が置かれていた。表紙はない。背表紙もない。ただ、本文のない白い本だった。
澪はホームの端まで歩き、柵の隙間から目を凝らした。本の上に、1枚の切符が挟まっている。
行先:採用されなかった未来
その文字を読んだ瞬間、駅のアナウンスが途切れた。
世界から音が抜けた。
気づくと澪は、向こう側のホームに立っていた。
南梢町駅のホームは、ガラス越しに見える別の世界のように遠かった。通勤客たちは動いている。駅員もいる。けれど、誰も澪のほうを見ない。
ベンチには、3人の人影が座っていた。
1人は学生服の少女。膝の上に、未提出の進路希望調査票を置いている。もう1人は作業着の男。手には、採用通知ではなく、不採用通知が握られている。最後の1人は、さきほど改札前で見た老人だった。
老人は澪に気づくと、申し訳なさそうに頭を下げた。
「あなたも、選ばれなかったんですか」
「いいえ。私は、編集者です」
言ってから、澪は自分でも驚いた。けれど、その言葉だけが、この場所で自分を支えてくれる気がした。
少女が顔を上げた。
「編集者って、何をする人ですか」
澪は少し考えた。
「まだ形になっていないものに、順番を与える人」
その答えに、白い本がかすかに震えた。
澪が白い本を開くと、最初のページには目次だけが印字されていた。昨日見たものと同じ目次。しかし、第2章の下に、見覚えのない一行が増えている。
第2章 選ばれなかった駅
補記 編集者は、選ばれなかったものを選び直せるか
その瞬間、澪は理解した。
この本は、未来を予言しているのではない。未来の候補を並べているのだ。目次は運命ではなく、未確定の順番だった。誰かが読み、誰かが選び、誰かが編集することで、本文が変わっていく。
「ここから出たいですか」
澪が尋ねると、3人は同時にうなずいた。
「なら、あなたたちが選ばれなかった理由ではなく、まだ選んでいないものを教えてください」
少女は、進路希望調査票の空欄を見た。
作業着の男は、不採用通知を折りたたんだ。
老人は、遅延証明書をゆっくり破った。
遠くで、電車の音が戻ってきた。
澪が目を閉じると、次に開いたときには、南梢町駅のいつものホームに立っていた。鞄の中の封筒は、前より少しだけ重くなっていた。
封筒を開くと、第3章の題名の下に、新しい一文が増えていた。
第3章 雨の日に消える名前
最初に消えるのは、他人から呼ばれなくなった名前だった。
まだ名前のない神話
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