真砂悠介(まさご・ゆうすけ)は、存在しない人間の名前ほど美しいものはないと思っていた。
誰も傷つけない。
誰も反論しない。
誰も裏切らない。
ただし、それを契約書に書いた瞬間、美しさは腐る。
「地主がいない」
羽鳥ミカ(はとり・みか)は、古い喫茶店の窓際でそう言った。
真砂はコーヒーを飲まずに、湯気だけを眺めていた。
「いるだろ。書類上は」
「書類上しかいない」
ミカはタブレットを真砂の前に滑らせた。そこには、再開発予定地の所有者一覧が表示されている。
榊原誠一。
78歳。
住所、電話番号、固定資産の履歴。
きれいすぎる。
真砂は眉を上げた。
「完璧だな」
「だから変」
ミカはストローの袋を折った。
「人間の記録は、もっと汚い。住所変更の遅れ、読み間違い、親族の書き込み、古い電話番号。そういう傷がない」
真砂は笑った。
「お前、記録に性格を見るよな」
「あんたは人の欲に性格を見るでしょ」
それは事実だった。
真砂の商売は、相手が信じたい物語を先回りして置くことだった。
金持ちは、選ばれたと思いたがる。
権力者は、情報を先に掴んだと思いたがる。
善人は、自分が誰かを救っていると思いたがる。
そこに、白紙の契約書を置く。
相手は勝手に、自分の欲しい未来を書き込む。
けれど今回の再開発計画は違った。
誰かが、存在しない地主を用意している。
白紙ではない。
すでに物語が印刷されている。
「黒瀬(くろせ)か」
真砂が言うと、ミカは小さくうなずいた。
黒瀬征一。
寄付と再開発を表の顔にした男。町を救うと語りながら、町の記憶を値段に変える男。
真砂は彼を利用するつもりだった。
だが、黒瀬の書類には、真砂の本名があった。
真砂が10年以上使っていない名前。
それを知っている相手は、ただの獲物ではない。
「会いに行く」
「誰に」
「存在しない地主に」
ミカは呆れた顔をした。
「存在しないって言ってるでしょ」
「存在しない人間ほど、誰かが代わりに息をしてる」
榊原誠一の住所は、坂の上の古い住宅地にあった。
家は空き家だった。
表札はない。郵便受けにはチラシが詰まっている。庭の草は伸びているが、玄関前だけが不自然に掃かれていた。
誰かが、たまに来ている。
真砂は門の前で止まり、家には入らなかった。
そういう線は越えない。
越えたら、嘘ではなくなる。
ただの犯罪になる。
ミカが近所の聞き込みから戻ってきた。
「榊原さんは、10年前に亡くなってる」
「じゃあ書類上の榊原は幽霊か」
「幽霊にしては、毎月管理費を払ってる」
真砂は空き家を見上げた。
窓の内側に、紙の花が飾られている。
古い老人ホームでよく見る、折り紙の花。
「消した老女って、誰だ」
ミカの顔が固まった。
第1話で、彼女は標的リストから1人だけ名前を消していた。
老人と子どもは狙わない。
それがミカの線だった。
「榊原志津」
「関係は」
「榊原誠一の妻。認知症の施設にいる」
真砂は舌打ちした。
黒瀬の嘘の形が見えた。
存在しない地主の名義を使い、判断できない老女の同意を盾にする。町を救う再開発という物語で、誰も見ない場所から土地を動かす。
冷たい嘘だった。
欲望を利用するのではない。
弱さを利用している。
真砂はそれが嫌いだった。
嫌いだと思った自分に、少し驚いた。
「どうするの」
ミカが聞いた。
「嘘を売る」
「誰に」
「黒瀬に」
真砂はスマートフォンを取り出し、短いメッセージを送った。
榊原誠一氏の件、本人確認の準備が整いました。
もちろん、本人はいない。
だが黒瀬は、いることにしたがっている。
人は、自分の嘘を補強してくれる嘘を疑わない。
数分後、返信が来た。
君の本名で来てくれ。真砂悠介ではなく。
ミカが画面を覗き込み、息を止めた。
そこに書かれていた名前は、真砂が捨てたはずのものだった。
真砂は笑った。
久しぶりに、本当に面白いと思った。
「向こうも、俺を存在しない人間にしたいらしい」
空き家の窓で、紙の花が少し揺れた。
風は吹いていなかった。
嘘を売る人
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋
