値段のない上司
正直屋の扉に、初めて会社名の入った封筒が挟まっていた。差出人は月島が勤めていた企業の人事部。宛名は真砂悠介(まさご・ゆうすけ)でも羽鳥ミカ(はとり・みか)でもなく、「値段をつけなかった責任者へ」とある。
中には退職勧奨の面談記録と、1枚の付箋が入っていた。「彼は部下を売らなかった。だから会社は彼を買えなかった」。月島が帳票を作った責任を認めた直後に届いた資料だった。
真砂は封筒を宣伝に使わなかった。正直屋は、告発を買い取る店ではない。羽鳥と2人で差出人へ連絡し、原本を預かる目的、返却期限、第三者へ見せる範囲を確認した。
差出人は月島の元上司、榊原だった。彼は面談へ来る条件として、自分を善人に描かないことを求めた。
部下を守ったという嘘
榊原は閉店中の札がかかった店で、椅子へ座るなり言った。「私は月島を守った。そういうことになっています」
会社は問題の帳票を月島1人の判断とし、榊原は部下の将来を考えて処分を軽くした上司として記録されていた。実際には、榊原が承認欄へ押印せず、口頭で急がせた。処分が軽かったのは温情ではなく、正式な調査を避けるためだった。
「私は彼を売らなかったんじゃない。売った証拠が残らない値段にした」
真砂は、その告白を美しい反省文へ整えられた。会社が使いたい言葉も分かった。「管理監督上の不備」「意思疎通の不足」「再発防止への決意」。どれも嘘ではない。だが、主語を薄める。
羽鳥は白紙の用紙を榊原の前へ置いた。「何を買ってほしいんです」
榊原は答えた。「退職後の評判です。私が全部悪かったと出せば、家族まで責められる。月島だけが悪いままなら、私は眠れない」
3つの価格
真砂は、依頼へ3つの価格を示した。金額ではない。第一は、会社の用意した謝罪文を出し、榊原の評判を守る代わりに月島の単独責任を固定する価格。第二は、榊原1人がすべてを背負い、会社の指示系統を隠す価格。第三は、分かっている事実だけを分けて記録し、誰も英雄にも身代わりにもならない価格。
「三番目が正しいんでしょう」榊原が言う。
「正しいから高いとは限らない。三番目は、あなたが説明を続ける時間を払う。会社にも月島にも、聞かれたことへ同じ答えを返す。家族へも、何をしたかを自分の言葉で話す」
榊原は長く黙った。金なら払える。退職金の一部を失う覚悟もある。だが、同じ説明を続けることは、謝罪会見1回より重い。
正直屋が売らないのは、感情だけではなかった。一度の告白で責任を精算できるという物語も、商品にしない。
月島の同意
月島を呼ぶ前に、真砂は榊原の面談記録を要約し、本人が見なくても選べる説明を送った。対面するか、書面だけ受け取るか、何も受け取らないか。月島は4つ目を返した。「会社の記録だけ訂正し、私への謝罪は保留する」。
榊原はその選択に驚いた。「謝らせてももらえないのか」
羽鳥が言った。「謝る側が楽になるための面談なら、月島が買う必要はない」
会社への訂正文では、誰がいつ何を承認し、何を記録しなかったかを分けた。月島が帳票を作った責任は消さない。榊原が口頭指示し、承認欄を空けた責任も混ぜない。さらに、その運用を評価した人事制度を第三の項目にした。
真砂は実用的な逃げ道を教えなかった。代わりに、曖昧な言葉が誰の責任を消すかを一文ずつ確かめた。榊原が「部下を守るため」と書いた箇所は、「正式調査を避けるため」に直された。
売れなかった推薦状
訂正記録を提出した夜、榊原は真砂へ別の封筒を出した。月島の転職用推薦状だった。能力と誠実さを褒め、問題は会社の体制にあったと書いてある。
「これだけは渡してくれませんか」
真砂は読んで、返した。「あなたが彼の評判を作る権利を、まだ持っていると思っています」
推薦状は月島を助けるかもしれない。しかし、元上司が価値を保証する構図を残す。月島はすでに、自分で説明する文書と訂正記録を持っている。必要なら本人が推薦を求める。求められていない推薦は、善意の形をした値札だった。
榊原は封筒を破らなかった。持ち帰り、月島から依頼が来た場合だけ、事実確認へ応じると記録した。
正直屋の2日目は、誰かを許して終わらなかった。推薦状1通を売らずに終わった。それでも月島の記録から、単独責任という嘘は外れた。
上司のいない席
閉店後、羽鳥はカウンターに座り、榊原が使わなかった椅子を見た。「あなたなら、前は推薦状を高く売った」
「買い手が信じたい上司像を付けてな」
「今日はなぜ売らなかったの」
真砂は白紙の契約書を裏返した。「値段をつけない人間まで、値札にしたくなかった」
羽鳥は笑わなかった。代わりに、店の帳簿へ新しい項目を書いた。「渡さなかった商品」。最初の欄には、謝罪による許し。2つ目には、元上司の推薦状。
そのとき、店の電話が鳴った。月島だった。榊原へ推薦状ではなく、質問を1つ頼みたいという。「あの日、指示を断ったら、誰が代わりに帳票を作る予定だったのか」
榊原の回答次第で、まだ名前の出ていない部下が1人いることになる。
真砂は電話を切り、帳簿の次のページを開いた。そこには、榊原が人事部へ提出した人員表のコピーが挟まっていた。月島の代替要員の欄だけ、最初から空白だった。
売られる予定だったのは1人ではない。空白へ入る誰かを、会社は初めから値段のない人間として扱っていた。
人事部が買いたい結末
翌朝、人事部から訂正文の修正案が届いた。「個人間の認識差」という表現が三度使われていた。榊原の口頭指示も、月島が帳票を作った事実も、同じ薄い霧へ入れようとしている。
真砂は文章を赤く塗らなかった。各文の横に、誰がその表現で得をするかを書いた。「個人間」にすれば制度を設計した部署が消える。「認識差」にすれば、記録しなかった側と記録できなかった側が同じになる。
羽鳥は、人事部へ返す文面に期限を入れた。回答がなければ告発すると脅す期限ではない。月島が転職先へ説明を求められた場合、会社がいつまでに事実確認書を出すかという期限だ。主導権を正直屋ではなく、記録で不利益を受ける本人へ戻した。
榊原は会社から電話を受け、「丸く収めるなら推薦状を出せ」と言われた。推薦状は訂正の代わりに差し出された値引きだった。榊原は初めて、その提案を録音ではなく議事メモに残し、相手へ確認を求めた。秘密の証拠集めではなく、発言を正式な記録へ移すためだった。
会社は返事を渋った。しかし、月島の評価欄を空白のまま外部へ出さないこと、訂正文が確定するまで過去の処分記録を参照停止にすることには同意した。完全な勝利ではない。それでも、間違った値札が次の買い手へ渡る流れは止まった。
空欄にいた人
代替要員の欄を調べるには、月島以外の社員を巻き込む危険があった。真砂は一覧を盗み見るような方法を取らず、榊原へ当時の配置決定の手順だけを尋ねた。
榊原は記憶をたどり、月島が断った場合は新人の佐伯へ回すつもりだったと認めた。名前を書かなかったのは、正式に指示した責任を残さず、断れなさそうな者へその場で渡すためだった。
「佐伯さんへ知らせますか」羽鳥が聞いた。
榊原はすぐ頷いたが、真砂は止めた。知らせることが正しいとしても、佐伯が過去の危険を突然受け取る準備があるとは限らない。まず、現在その記録が佐伯の評価に使われていないかを人事部へ照会する。本人へ連絡するのは、影響と選択肢を説明できる状態にしてからだ。
回答によれば、佐伯の人事記録には問題の帳票はなかった。ただし、当時の教育記録に「指示への即応性が低い」という評価が残っていた。佐伯は一度、口頭作業を文書にしてほしいと求めていた。それが低評価の理由だった。
月島の代わりに売られる予定だった人は、すでに別の値札を付けられていた。
真砂は佐伯へ、正直屋の名を出さず、会社の記録訂正に関する確認窓口ができたことだけを伝える案を作った。連絡を受けるかどうかを本人が選べる短い通知にする。羽鳥は、その通知に「返事をしなくても評価へ影響しない」と明記した。
榊原は自分で届けたいと言った。真砂は認めなかった。「あなたが会えば、佐伯さんはあなたを許すか拒むかを選ばされる。今必要なのは、記録を見るか見ないかを選べることです」
榊原は、また値段を払った。謝罪する機会を失うという値段だった。
正直屋の3日目を開けない
その夜、店の前には3人が並んでいた。会社で不利な評価を受けた人、家族へ嘘を返したい人、過去の契約を取り消したい人。看板を出せば、正直屋は繁盛するだろう。
真砂は開店しなかった。相談内容ごとに、安全な窓口と専門家を案内し、店で預かる必要があるものだけ翌週の予約にした。嘘を売らない店が、今度は「正直にすれば何でも解決する」という嘘を売り始めるのを防ぐためだ。
羽鳥は列がなくなった歩道で言った。「客を帰すのが上手くなった」
「買わない客を見分ける方が儲かったからな」
軽口のあと、真砂は帳簿へ佐伯の名前を書かず、「空白の代替要員」と記した。本人が記録を見ると選ぶまで、正直屋が物語を完成させないためだった。
閉店中の扉の下から、新しい封筒が滑り込んだ。差出人は人事部。表には「佐伯本人より回答あり」とある。2人は顔を見合わせた。まだ通知を送っていない。
誰かが先に佐伯へ接触している。そして、その誰かは正直屋が空欄へ気づいたことを知っていた。
値札を剥がしたあと
真砂は月島へ、榊原の訂正文が受理されたことだけを伝えた。榊原がどれほど悩んだか、推薦状を渡そうとしたかは書かなかった。それらは月島が評価するために買わされる物語だからだ。
月島からの返事は一行だった。「確認しました。次は佐伯さんが選べる状態を作ってください」。許しも感謝もない。だが、要求は具体的だった。
羽鳥は正直屋の壁から価格表を外した。もともと金額は書かれていない。「嘘を返す」「責任を分ける」「届けない」といった仕事の名前だけが並んでいた。それさえ、客に正解を選ばせるメニューになり始めていた。
代わりに白い紙を貼った。「ここで決めなくてよいこと」。許すか、会うか、公表するか、辞めるか。決めなくてよい項目は、商品より多かった。
真砂は、自分が空白を高く売ってきたことを思い出した。相手が信じたい未来を書き込ませ、その欲望を利用した。今は同じ空白を、急いで答えを書かなくてよい場所として残している。
ただし、扉の下の封筒だけは待ってくれない。「佐伯本人より回答あり」。まだ通知していない本人の名を使える者が、社内にいる。真砂は封を開けず、佐伯本人へ直接確認できる第三者窓口を探した。正体を暴くより先に、また誰かの名前が売られるのを止めるためだった。
嘘を売る人
18 / 24
このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋

コメント