雨は、朝から細い線のまま降り続いていた。
澪は傘を差さずに駅前のロータリーへ立っていた。濡れてもかまわないと思ったわけではない。傘を開くという小さな動作をすると、そのあいだに何かを見落とす気がした。
駅の電光掲示板には、いつもなら到着時刻と行き先が流れている。けれどその日は違った。
そこには、行き先の代わりに人の名前が並んでいた。
佐伯、三沢、遠野、藤井(ふじい)。
知らない名前ばかりだった。けれど澪は、その中に自分の名前がないことを確認して、なぜかほっとした。ほっとした直後、その感情がひどく間違っているように思えた。
次の瞬間、掲示板の文字が一斉に滲んだ。
雨粒が画面に当たったわけではない。表示そのものが、水に溶ける墨のように崩れていく。佐伯の「伯」が先にほどけ、三沢の「沢」が流れ、遠野の「野」は草冠だけを残して消えた。
名前が消えた場所には、短い文章が残った。
選ばれなかった者は、雨の日に先に忘れられる。
澪は息を止めた。
その一文を、彼女は知っていた。家の机に置かれていた、差出人のない目次。その三行目に、同じ言葉が印字されていた。
背後で誰かが言った。
「見えていますか」
振り返ると、駅員の制服を着た男が立っていた。けれど帽子には駅名が入っていない。名札も空白だった。
「あなたにも、読めるんですね」
澪は答えなかった。答えた瞬間、自分も何かの欄に登録される気がした。
男は掲示板を見上げたまま、静かに続けた。
「名前は、ただの呼び名ではありません。誰かがその人を覚えているための、いちばん短い契約です。雨の日は、その契約がほどけやすい」
「あなたは誰ですか」
澪がそう聞くと、男は少し困ったように笑った。
「それを聞かれると、困るんです。まだ、書かれていないので」
その答えは冗談のようで、冗談ではなかった。
澪は鞄から目次の紙を取り出した。雨に濡れているはずなのに、紙だけは乾いていた。三行目の下に、昨日まではなかった小さな文字が増えている。
ただし、忘れられる前に呼び戻された名前は、別の物語を持って帰る。
掲示板に残っていた名前のうち、ひとつだけがまだ完全には消えていなかった。
藤井。
澪は知らない名前を、声に出すべきか迷った。知らない誰かを呼ぶことは、責任を引き受けることに似ている。呼び戻したあと、その人がどんな物語を持って帰るのか、彼女にはわからない。
けれど、目の前で消えていく名前をただ見ていることもできなかった。
「藤井さん」
澪の声は、雨音に簡単に飲まれるほど小さかった。
それでも掲示板の文字は止まった。
駅前に停まっていた無人のバスのドアが、音もなく開いた。中から降りてきたのは、澪と同じ制服を着た少女だった。髪も、鞄も、靴の濡れ方まで澪とよく似ていた。
少女はまっすぐ澪を見て、言った。
「呼んだのは、あなた?」
澪はうなずけなかった。
少女の胸元の名札には、藤井ではなく、別の名前が書かれていた。
澪。
雨は少しだけ強くなった。目次の四行目が、紙の上でゆっくりと浮かび上がる。
第4話 未来を読んだ者の沈黙
まだ名前のない神話
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