透明な街の解き方 第3話:父が帰っていた夜

玄関を開けた瞬間、遼(りょう)は味噌汁の匂いを感じた。

その匂いだけで、間違った家に帰ってきたのだと思った。

母は、味噌汁を作らない。

正確には、父が出て行った日から作らなくなった。理由を聞いたことはない。けれど遼は知っていた。鍋の中で湯気が立つと、父が帰ってくるような気がしてしまうからだ。

だから、10年ぶりの匂いだった。

「遼、遅かったな」

居間から聞こえた声に、遼の足が止まった。

父だった。

テレビの前に座り、新聞を畳み、何もなかったようにこちらを見ている。

「手、洗ってこい。今日は鯖だぞ」

母は台所で笑った。

「お父さん、遼が魚苦手なの忘れてる」

お父さん。

その呼び方が、家の壁に自然に吸い込まれていく。

遼は靴を脱げなかった。

父が帰ってきたのではない。

父が、ずっといたことになっている。

透明町で2つ目を疑ったあと、スマートフォンに父からの通知が届いた。写真館で見た家族写真には、父の手だけが写っていた。

帰るものがあれば、消えるものもある。

兄の伊月(いつき)がそう言った。

遼はスマートフォンを開いた。

連絡先を探す。

兄。

伊月。

どちらもない。

代わりに、父の連絡先が3つあった。

父 携帯。

父 会社。

父 釣り用。

釣り用とは何だ。

遼は笑いそうになった。

笑えば、壊れると思った。

食卓には、4人分の箸が並んでいた。

遼、母、父。

そして、空の席。

「そこ、誰の席」

遼が聞くと、母は不思議そうに首を傾げた。

「おばあちゃんが来るかもしれないから、一応」

違う。

そこは兄の席だった。

伊月は窓際に座って、魚の骨をやたらきれいに取った。母が感心すると、父が悔しそうに真似をした。遼はそれを見て、早く大人になりたいと思った。

その記憶が、頭の中で少しずつ薄くなる。

遼は椅子に座らず、台所へ行った。

冷蔵庫に貼られた写真を見た。

家族旅行。

運動会。

父の日。

写真の中に、兄はいない。

最初からいなかったように、余白すら残っていない。

ただ1枚だけ、妙な写真があった。

海辺で撮られた3人の写真。

父、母、遼。

3人とも笑っている。

けれど遼の右肩に、誰かの手だけが乗っていた。

透明な手。

「これ、誰が撮ったの」

遼は写真を指さした。

父は新聞を置いた。

「お前だろ」

「俺、写ってるけど」

父は少し黙った。

母も、包丁を止めた。

その沈黙は、初めてこの家が間違いに気づいた音だった。

次の瞬間、固定電話が鳴った。

母が取ろうとしたので、遼は先に受話器を掴んだ。

雑音の向こうで、兄の声がした。

「3つ目を疑うな」

「兄ちゃん、どこにいる」

「お前の家だ」

遼は周囲を見た。

父がこちらを見ている。母も見ている。空の席だけが、誰かを待っている。

「見えないだけだ」

伊月は言った。

「遼、よく聞け。透明町は、失くしたものを返す街じゃない。失くした理由を、別の形にする街だ」

電話の向こうで、何かが擦れる音がした。

「父さんを疑ったな」

「うん」

「じゃあ、父さんがいた家族史が置かれた。代わりに、俺がいない家族史が近づいてる」

遼は受話器を握りしめた。

「戻すには」

「疑うんじゃない。確かめろ」

「何を」

「俺がいた証拠じゃない」

伊月の声が、急に遠くなった。

「俺がいなくても、残るはずのものを探せ」

通話は切れた。

遼は空の席を見た。

そこには、箸が置かれている。

1本だけ、先端に小さな歯形があった。

兄は箸を噛む癖があった。

母に何度も怒られていた。

写真は消える。

連絡先も消える。

けれど癖がつけた傷だけは、まだ残っている。

遼は箸を手に取った。

父が言った。

「遼、それは誰のだ」

母も同じ顔でこちらを見る。

遼は答えた。

「まだ見えない人の」

台所の電気が、一瞬だけ消えた。

暗闇の中で、空の席に誰かが座っている気配がした。

次に灯りがついたとき、箸は二膳増えていた。

一膳は兄のもの。

もう一膳は、誰のものかわからなかった。

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透明な街の解き方

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このシリーズの全話 10編
  1. 第1話:見えない改札
  2. 第2話:2つ目の足音
  3. 第3話:父が帰っていた夜
  4. 第4話:まだ見えない食卓
  5. 第5話:焦げた箸の持ち主
  6. 第6話:顔のない子ども
  7. 第7話:招かれた住人
  8. 第8話:3つ目ではない名前
  9. 第9話:帰れない兄の条件
  10. 最終話:見えない改札を閉じる
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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