電話の向こうで、兄は笑っていた。
「そこにいるよ。ただし、見えていない」
遼(りょう)はスマートフォンを耳に当てたまま、無人の商店街を見回した。シャッターは半分だけ開いている。喫茶店のカップからは湯気が上がり続けている。誰も座っていない椅子が、ほんの少しだけ床をきしませた。
「兄さん、冗談を言ってる場合じゃない」
「冗談なら、3年前に帰ってる」
伊月(いつき)の声は近かった。電話越しなのに、背中のすぐ後ろから聞こえる気がした。
遼は振り返った。
誰もいない。
それでも、足音だけがあった。
こつ、こつ。
遼が一歩下がると、足音も一歩分だけ近づいた。アスファルトの上に影はない。水たまりにも波紋は立たない。けれど音だけが、確かにそこにいる。
「1つ目は改札だった」
伊月が言った。
「2つ目を疑うなら、慎重に選べ。ここでは、見えないものを疑うたびに、向こう側で何かが見えなくなる」
「向こう側?」
「お前が現実だと思っているほう」
遼はスマートフォンの画面を見た。母の名前は消えたままだった。代わりに、伊月の名前が連絡先の一番上にある。3年前まで使っていたはずの番号。警察が何度かけてもつながらなかった番号。
「母さんの名前が消えた」
「覚えているなら、まだ完全には消えていない」
「どういう意味だ」
「この街では、記録が先に消える。次に他人の記憶が消える。最後に、自分の記憶が消える」
こつ。
足音が近づいた。
遼は息を止める。
「じゃあ、母さんは」
「お前が思い出せるうちは、まだいる」
それは慰めのようで、宣告のようでもあった。
商店街の端に、小さな写真館があった。看板には何も書かれていない。ガラス扉の内側に、家族写真が何枚も飾られている。
父と母と子ども。
老夫婦。
学生服の兄妹。
すべての写真で、誰か1人だけが透明になっていた。
背景は見える。肩に置かれた手の形も、隣の人が寄りかかる角度も残っている。そこにいたはずの輪郭だけが、きれいに抜け落ちている。
遼は写真館の扉を押した。
中に入ると、ベルが鳴った。
誰もいないカウンターの奥から、古いカメラのシャッター音がした。
壁には、たった1枚だけ遼の知っている写真があった。小学校の入学式。母が笑い、伊月が遼のランドセルを片手で持っている。父はその年にはもう家を出ていたから、写真にはいない。
いるはずがない。
けれど写真の端に、父らしき男の手だけが写っていた。
遼は喉が詰まった。
「兄さん。この写真、どうなってる」
電話の向こうで、伊月が黙った。
沈黙が答えだった。
背後で、足音が止まった。
こつ。
もう、遼の真後ろにいる。
「振り返るな」
伊月が低く言った。
「それを見ようとするな。お前はまだ、2つ目を決めてない」
「2つ目って、この足音のことじゃないのか」
「違う。足音は、疑わせるための音だ」
遼の手が震えた。
透明町の注意書きが頭に浮かぶ。
この街では、見えないものを3つ疑え。4つ目を疑った者は、帰れない。
1つ目は、見えない改札。
2つ目は、まだ決まっていない。
ならば、この足音は罠なのか。
遼は壁の写真を見た。母の隣にある、いるはずのない父の手。そこだけが、他の透明な人たちとは違っていた。消えているのではない。写り込んでいる。
遼はゆっくりと口を開いた。
「2つ目は、父さんだ」
その瞬間、背後の足音が消えた。
スマートフォンが震える。
新しい通知が1件。
母:今夜、お父さんも一緒にご飯を食べるって。
遼は画面を見つめた。
父は、10年以上前に家を出た。母は一度も、父を家に戻さなかった。戻すはずがなかった。
なのに通知の文面は、まるで父がずっと家族だったかのように自然だった。
電話の向こうで、伊月が言った。
「2つ目を疑ったな」
「何が起きた」
「お前の家族の形が、少し戻った」
「戻った?」
「あるいは、別の形に置き換わった」
写真館の奥で、またシャッター音がした。
壁の写真の中で、伊月の顔だけが薄くなっていた。
遼は叫んだ。
「兄さん、待ってくれ。今、写真が」
電話は切れていた。
代わりに、誰もいないカウンターの上へ1枚の写真が滑り出てきた。
そこには、現在の遼の家族が写っていた。
母。父。遼。
そして、透明になりかけた兄。
透明な街の解き方
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