兄がいなくなってから、3年が過ぎていた。
警察の記録では失踪。親戚のあいだでは蒸発。母は、口に出さないだけで、もう死んだものとして生活を組み替えはじめている。
けれど遼だけは、兄がどこかで生きていると信じていた。信じていた、というより、兄が死ぬような人間ではないと知っていた。
兄の伊月(いつき)は、いつも消える側ではなく、消えたものを見つける側だった。
なくした鍵。迷子の犬。誰も覚えていない約束。家族が忘れたふりをしている喧嘩の原因。伊月はそういうものを、なぜか見つけてしまう。
だから遼は、兄が見つからないことだけが納得できなかった。
その朝、郵便受けに古い切符が入っていた。
封筒はない。差出人もない。薄い桃色の紙に、かすれた黒い文字で駅名だけが印字されている。
透明町
そんな駅は、どの路線図にもなかった。
遼(りょう)は会社に休みの連絡を入れず、切符を財布に入れて家を出た。自分でも衝動的だと思った。けれど、切符の裏に小さく書かれていた文字を見た瞬間、普通の1日を続ける選択肢は消えていた。
遼へ。改札を間違えるな。見えないほうを通れ。伊月
兄の字だった。
駅に着いたのは午前9時17分。通勤客の波は引き、構内には掃除機の音と、遠くの発車ベルだけが残っていた。
透明町行きの表示はない。
遼は改札の前で立ち止まった。右にはICカード専用改札。左には切符を入れる古い改札。どちらも見えている。
見えないほうを通れ。
馬鹿げている。そう思いながら、遼は改札機の列をじっと見た。人は、見えているものを数える。だから見えないものが混じっていても、数え間違えたと思うだけだ。
右から一、二、三、四。
遼は四番目と五番目のあいだに、妙な隙間があることに気づいた。人ひとり分より少し広い。床には改札機の影がないのに、そこだけ空気が硬い。
遼は切符を握りしめ、その隙間へ踏み出した。
何かが胸の奥を軽く叩いた。
次の瞬間、駅の音が全部消えた。
遼は、同じ駅に立っていた。けれど人がいない。駅員も、乗客も、売店の店員もいない。券売機の画面だけが光り、誰も触れていない自動ドアが開いては閉じる。
外へ出ると、街はさらに奇妙だった。
誰もいないのに、喫茶店のカップから湯気が上がっている。歩道の水たまりは、見えない靴に踏まれたように波紋を作る。交差点では、車の姿がないままクラクションだけが鳴った。
透明な街。
そう呼ぶしかなかった。
遼は背後を振り返った。通ってきたはずの改札は、もう見えない。駅舎の看板には、さっきまで存在しなかった駅名が掲げられていた。
透明町駅
その下に、小さな注意書きがある。
この街では、見えないものを3つ疑え。4つ目を疑った者は、帰れない。
遼はスマートフォンを取り出した。圏外ではない。けれど連絡先の一覧から、母の名前が消えていた。
代わりに、3年前に消えた兄の名前が一番上に表示されている。
伊月。
遼は震える指で通話ボタンを押した。
数秒の無音のあと、兄の声が聞こえた。
「遼。よかった。まだ1つ目しか疑っていないな」
「兄さん、どこにいる」
「そこにいるよ」
遼は周囲を見回した。無人の街路。湯気の立つカップ。誰もいない横断歩道。
兄の声は、すぐ耳元で笑った。
「ただし、見えていない」
透明な街の解き方
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