一日を、もう一度 第2話:閉店前の5分間

NEW MYTH 一日を、もう一度 cover

閉店時刻まで、あと5分だった。商店街の文具店「みどりや」で、店主の小林正人は鉛筆を1本ずつ同じ向きにそろえていた。今日で店を閉めるのだから、明日の客はいない。それでも削っていない鉛筆の先を、入口へ向けて並べた。

1日記録士の朝倉灯(あさくら・あかり)は、レジ横の丸椅子に座っていた。依頼人は小林ではなく、常連客の宮田だった。30年間、毎週金曜日に領収書を買いに来たという72歳の男は、閉店の日を記録してほしいと頼んだ。

「大げさにしないでください」と宮田は三度言った。「泣ける話とか、町の歴史とか、そういうのじゃない。たまたま仕事帰りに寄ってただけです」灯はその言い訳の中に、照れが隠れているのを感じた。

「では、たまたま寄った日のことを教えてください」灯が聞くと、宮田は困った顔をした。「毎週だから覚えてない」「覚えていないことは、なかったこととは違います。いつも何を言いました?」

宮田はしばらく考え、「領収書、いつもの」と答えた。小林が棚の向こうで笑った。「この人、領収書を買わない日もそれ言うんですよ。孫の折り紙でも、ボールペン1本でも」宮田は「習慣だ」と言い張った。

目次

5分間の買い物

閉店3分前、ランドセルを背負った女の子が駆け込んできた。「消しゴムありますか」小林は反射的に棚を指し、途中で空になっていることに気づいた。売り尽くしたのだ。女の子の顔が曇った。

宮田がポケットを探り、新品の小さな消しゴムを出した。さっき自分で買ったものだった。「これ、使うか」女の子は受け取ろうとして、値札を見た。「でも、お金」「店が最後の日だから、おまけ」と小林が言った。

「勝手に店のおまけにするな」と宮田は言いながら、嬉しそうだった。女の子は何度も頭を下げ、走って出ていった。小林はレジを打ち直し、宮田の袋へ同じ金額の鉛筆を1本入れた。「帳尻」と言った。

灯はそのやり取りを記録したが、文章にはまだしなかった。閉店を象徴する美しい場面にしてしまえば、2人が守ってきた普通の調子を壊す気がした。大事なのは、最後の日にも2人がいつも通り軽口を言えたことだった。

閉店1分前、宮田が「来週から、領収書どこで買えばいい」と聞いた。小林はレジの下から1枚の紙を出した。そこには、来月から始める週1回の移動文具販売の予定が書かれていた。

聞き取りを始める前、灯は宮田へ「閉店の日に一番残したい音は何ですか」と尋ねた。宮田はしばらく店内を見回し、「レジの引き出し」と答えた。古い引き出しは開けるたび、鈴のような金属音を立てた。買い物の音ではなく、小林がそこにいる音だった。

小林は店を閉める理由を、売上だけではないと話した。朝から夜まで店にいる生活を続け、妻との散歩を何年も先延ばしにしてきた。店を守ることが家族を守ることだと思っていたが、妻から「店の外のあなたとも話したい」と言われた。

移動販売なら、午前は妻と歩き、午後だけ町を回れる。店より品数は減るが、客の注文を先に聞ける。「できないことが増えるんじゃなくて、やらないことを決めた」と小林は言った。閉店は敗北の言い換えではなく、時間の使い方を選び直すことだった。

宮田も、毎週店へ来た本当の理由を話した。妻を亡くした後、金曜日だけ誰とも話さない日ができた。必要のない領収書を買い、小林に「いつもの」と言えば、名前も事情も説明せず客になれた。「助けてもらったなんて言うと大げさだから、買い物だったことにしてくれ」と頼んだ。

灯は記録へ「孤独」という言葉を入れなかった。代わりに、宮田の家には未使用の領収書が23冊あること、小林はそれを知りながら毎週新しい銘柄を仕入れたことを書いた。2人の間でだけ通じる親切は、説明しすぎない方が正確だった。

女の子の母親は、移動販売の日に学校前へ来られないかと尋ねた。小林はすぐ約束せず、通学路の安全と学校の許可を確認してから返事をすると答えた。続けたい気持ちだけで無理をしない。その慎重さも、長く店を続けた人の新しい始め方だった。

灯は完成した短い記録を二部印刷した。一部は宮田へ、一部は小林へ。表紙には店の写真ではなく、鉛筆1本と「来週、領収書を1冊」とだけ印刷した。宮田は何度も読み、「これなら人に見せないで持っていられる」と言った。

帰宅後、灯は自分の今日を三行だけ書いた。閉店した店。来週の予約。父へ電話したこと。他人の1日を整えると、自分の1日は空白になることが多かった。今日は三行あった。それだけで、眠る前の部屋が少し明るく見えた。

翌週の金曜日に開く予約袋を、小林は宮田の名前で作った。中には領収書1冊と、女の子が好きだと言った青い消しゴムを入れる予定だ。「売れる前提で仕入れるの、久しぶりだ」と小林は言った。店の棚は空でも、次の買い物はもう始まっていた。

宮田はシャッターへ手を当て、長い別れの言葉を探したが、結局「じゃあ来週」と言った。小林も「はいよ」と返した。30年分の感謝を一度に言わなくても、来週の約束があれば足りた。

灯は駅まで歩きながら、閉まったシャッターを振り返らなかった。振り返らないことは忘れることではない。次に軽トラックを見つけるため、前を向くことだった。商店街の夕方はいつも通りで、総菜屋から揚げ物の匂いがした。

灯はコロッケを1つ買った。包みの温かさを確かめ、冷める前に食べようと歩幅を少し速めた。今日を丁寧にするのは、大きな決意ではなく、温かいものを温かいうちに受け取ることかもしれなかった。

「店は閉める。でも、金曜の午後は軽トラックで商店街を回る」小林は少し恥ずかしそうに言った。「店賃は無理でも、鉛筆くらいなら運べる。孫が注文表を作ってくれた」

宮田は紙を読み、「じゃあ閉店じゃないじゃないか」と言った。「閉店は閉店だよ。続け方を変えるだけだ」小林はシャッターの紐に手をかけた。「失敗してやめるって説明するのが嫌で、誰にも言ってなかった」

来週の約束

宮田は、領収書を1冊レジへ戻した。「これは来週、軽トラックから買う」「今日の売上が減る」「予約だよ」2人はしばらく睨み合い、それから同時に笑った。

シャッターが半分下りたところで、さっきの女の子が戻ってきた。母親と一緒だった。母親は代金を払おうとしたが、小林は受け取らず、「来月、移動販売を見つけたら買ってください」と予定表を渡した。

閉店時刻を4分過ぎていた。小林は時計を見て、「最後の日から残業か」と言った。宮田が「いつも5分は喋ってた」と返す。店がなくなる悲しさは消えなかったが、その悲しさは次の金曜日まで運べる大きさになっていた。

灯は記録の表題を「みどりや最後の日」から「金曜日の予約」へ変えた。宮田は覗き込み、「大げさじゃないな」と確認した。「はい。いつもの5分間です」と灯は答えた。

帰りの電車で、灯は父の留守番電話を聞き直した。『灯、商店街の豆腐屋、まだやってたか。今度通ったら見てくれ』それだけだった。重大な知らせではない。だから後回しにしていた。

灯は留守電を閉じず、そのまま父へ電話をかけた。「豆腐屋、今度見ておく。あと、今日、文具店でね」父は少し驚いた後、「うん」と言った。灯は仕事の要約ではなく、消しゴムと鉛筆の帳尻の話をした。

父は最後まで聞き、「よかったな」と言った。その一言が誰に向けられたのか、灯は聞かなかった。電話を切る前、父が思い出したように言った。「明日の朝だけ、店番を頼めないか」灯は父が店を持っていないはずだと思い、聞き返した。「何の店番?」

READ ON

一日を、もう一度

2 / 16

このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

コメント

コメントする

CAPTCHA


目次