一日を、もう一度 第9話:同じ録音を聞いた人

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次の日曜日、朝倉灯(あさくら・あかり)は父の家へ行く前に、卵を買わなかった。前回は6つ持っていき、2人で数え間違えた。今日は父が冷蔵庫に残っている数を確かめる番だ。手ぶらで玄関へ立つと、修は「忘れたのか」と聞いた。灯は「持ってこない日」と答えた。

食卓には、ゆで卵が3つあった。父の計算では4つ残っていたはずだが、昨日1つ食べたらしい。灯は数を追及せず、2つを皿へ移した。残りの1つをいつ食べるかまで決めないことにした。

朝食のあと、灯は録音機の再生ボタンが二度押されていたことを尋ねた。修はすぐ答えず、湯呑みを洗った。隠しているというより、誰かの話を自分の都合で始めてよいか考えている顔だった。

「聞いたのは、大崎真弓さん。朝市で花を売ってる」

灯は名を知っていた。小さな鉢植えを並べ、買わなくても天気の話をしてくれる女性だ。父より少し年下で、いつも赤い帽子をかぶっている。修によれば、真弓は2年前から電話の着信音が苦手になった。鳴るたびに、誰かの具合が悪い知らせだと思ってしまう。

大きな事件が1つあったわけではない。離れて暮らす母の通院、兄の仕事の相談、店の仕入れの変更、近所の入院。悪い知らせと、悪いかもしれない知らせが重なり、着信前の数秒まで怖くなった。電話を切ったあとも、次の音を待つ生活になった。

修は真弓から相談を受けたとき、励ます言葉を思いつかなかった。「大丈夫」と言えば、次に大丈夫でない知らせが来たとき、その言葉まで壊れる気がした。そこで自分が録った47分を聞かせた。湯が沸き、靴下が消え、豆腐を忘れるだけの音だった。

真弓は12分で止めた。「何も起きないから、今日はここまででいい」と言った。それから録音を返し、二度と聞かせてほしいとは頼まなかった。修も続きを勧めなかった。役に立ったと決める権利は、録音を渡した側にはない。

灯は父へ、真弓に会いたいと伝えた。ただし1日記録士としてではなく、録音を聞いた本人が、今も自分の話をしてよいと思っているか確かめるためだ。修はその場で電話をせず、朝市で会ったときに灯から連絡が来てもよいか尋ねると約束した。

午後、真弓本人から事務所へ電話が来た。着信音は一度だけ鳴り、灯がすぐ取った。「早いですね」と真弓は笑った。「鳴っている時間が短いと、ちょっと助かります」。灯は次から呼び出し回数を短くする約束をせず、メールや手紙も選べると伝えた。真弓は今日だけ電話を選んだ。

会う場所は事務所ではなく、朝市が終わった公園になった。仕事の相談室へ入ると、自分の不安が問題として完成してしまう気がする、と真弓が言ったからだ。灯は録音機もノートも持たず、紙コップの茶だけを2つ買った。

真弓は赤い帽子を膝へ置き、「修さんの娘なら、あの録音を作品にしたいんでしょう」と先に言った。灯は否定できなかった。何もない音に救われた人の話は、読者へ届きやすい。けれど届きやすさを理由に、本人がまだ言葉にしていない時間を借りてはいけない。

「したいと思いました。でも、今日は許可をもらう日ではありません。あなたが続きを話したいか、録音を消してほしいか、父にもう使ってほしくないかを聞きに来ました」

真弓は茶の蓋を開け、湯気を見た。「消さなくていいです。ただ、私を救った録音とは書かないでください」。

12分を聞いたあとも、電話は怖かった。着信を無視して自己嫌悪になる日もあった。録音が人生を変えたわけではない。ただ、12分間だけ、次に悪いことが起きる準備をしなくてよかった。それだけが本当だった。

灯は「それだけ」を小さく扱わなかった。12分で人生が変わらなくても、12分を返せる出来事には意味がある。ただし意味を大きくすれば、真弓が回復を証明し続ける役を負う。灯は、記録するとしても「一度、何も起きない音を途中まで聞いた」とだけ残す案を出した。

真弓はすぐ同意しなかった。代わりに、自分が最近録った音を聞かせた。花屋の閉店後、段ボールを畳む音。テープを剥がす音。売れ残った鉢へ水をやる音。途中で猫が植木鉢に触れ、真弓が「それは倒さないで」と言う。7分20秒で終わる。

「誰かに聞かせるためじゃなく録ったんです。修さんの真似をして」

録った日の夜、真弓の電話は2回鳴った。1件は配達時間の変更、もう1件は姪から夕飯の写真だった。悪い知らせは来なかった。だからといって電話への恐怖が消えたわけではない。翌朝も着信音で肩が固まった。けれど前夜には、段ボールを畳む7分が確かにあった。

灯は音声の保存を勧めなかった。真弓は自分の端末に置いておきたいと言った。消したくなったら消す。題名もつけない。大切な記録へ昇格させると、毎日録らなければならない気がするからだった。

「1日記録士さんには、怒られそうね」

「記録しない日を守るのも仕事です」

灯はそう答え、自分にも言い聞かせた。父との30秒の録音を始めたことで、昨日も今日も残さなければと思いかけていた。残さなかった日は雑に生きた日ではない。記録は生活の採点表ではなかった。

公園の時計が四時を知らせた。電子音に真弓の肩が少し上がった。灯は気づかないふりをせず、「今の音、少し休みますか」と尋ねた。真弓は首を振り、「驚いたけど、帰らなくていい」と答えた。平気なふりと、その場に残る選択は別だった。

2人は帰りに花屋へ寄った。真弓は売れ残った小さなローズマリーを一鉢、灯へ渡そうとした。灯は依頼料の代わりか確認した。真弓は「依頼してないから、お土産」と言う。灯は受け取り、次に会う約束の代金にしないことを確認した。

店の奥には、古い固定電話があった。着信音量は最小。横に「出られないときは、後でかけます」と紙が貼ってある。以前はすべての電話へ3回以内に出ようとしていた。今は花へ水をやっている途中なら、終わってからかける。小さなルールだが、電話が鳴った瞬間に1日を明け渡さなくてよくなった。

真弓は灯へ、その紙の写真だけなら記録に使ってよいと言った。音声も顔も名前も出さない。灯は「電話が怖かった人の工夫」と説明する案を出したが、真弓は「電話にすぐ出ない花屋の工夫」に直した。不安を肩書きにしないためだった。

事務所へ戻った灯は、1枚の小さなカードを作った。表には「すぐ出なくてもよい」。裏には、折り返す、文字で受け取る、今日は連絡を止める、第三者に同席してもらうという選択肢を書いた。配布物にはせず、次の相談者が必要としたときに見せる試案として保管した。

父へ報告すると、修は「録音、役に立ったのか」と聞いた。灯は「12分だけ」と答えた。修は少し考え、「47分も録ったのに」と言った。冗談だった。灯は「長かったから、途中で止められた」と返した。

2人は録音機の設定を変えた。再生するとき、最後まで聞くことを前提にしない。10分快速の印をつけるのでもなく、聞いた人が止めた場所を失敗として表示しない。修は機械に詳しくないので、単に横へ紙を貼った。「途中で止めてよい」。

灯は父に、真弓が録った花屋の7分について話さなかった。本人から許可されたのは、灯が聞くことまでだ。親しい父娘の会話でも、他人の1日を近況として渡さない。その線を守れたことが、灯には前より自然になっていた。

夕飯前、灯の電話が鳴った。父からだった。さっき別れたばかりなのに、用件はローズマリーの鉢をどこへ置くかという質問だった。「日が当たる窓辺」と答えかけて、灯は自分が持ち帰ったことを思い出した。父も勘違いしていた。

「お父さんの家にはないよ」

「そうか。じゃあ何で電話したんだろうな」

「声を聞きたかったことにしておく?」

「それは大げさだ。間違い電話でいい」

灯は笑い、「間違い電話、受け取りました」と言った。修は「じゃあ切る」と答えた。特別な話はなかった。電話を切ったあとも、灯は内容を記録しなかった。間違い電話が、ただの間違い電話で終われる日を大事にしたかった。

夜、真弓から短いメッセージが届いた。「今日は電話が3回。2回は出た。1回は出なかった。花は全部水をやりました」。灯は励ましの長文を書かず、「読みました」と返した。出た回数を成果にしないためだった。

灯は事務所の相談記録にも、真弓が電話へ2回出たとは書かなかった。本人が送った生活の報告を、支援の成果へ変えないためだ。記したのは、連絡手段として電話とメッセージの両方を本人が選べること、次の連絡を求めていないことだけだった。

翌日の朝市で、真弓はいつもどおり赤い帽子をかぶっていた。電話の話はせず、父へローズマリーの育て方を説明した。修は日当たりを何度も確認し、最後に「娘が持って帰った」と思い出した。3人は笑い、真弓は売れ残りではない新しい鉢を1つだけ父へ選んだ。

父は代金を払い、窓辺へ置く場所を自分で決めた。真弓が元気になった記念でも、録音への礼でもない。ただ、朝市で鉢を買った日だった。灯はその普通さがうれしかった。誰かの回復が、いつまでも特別な物語として扱われない1日も必要だった。

数分後、真弓から猫がローズマリーの鉢を嗅いでいる写真が届いた。店にもう一鉢あったらしい。灯は自分の窓辺の鉢も撮り、送り返した。2枚の写真には人が写っていない。今日を大事にする証拠ではなく、同じ夕方に水をやった報告だった。

灯は、自分の記録欄へ一行だけ書いた。「今日は、途中で止めた12分の続きを聞かなかった」。書かなかった内容も、選んだ1日の一部になる。何も起きない時間は、誰かに説明されなくても存在してよい。

翌朝、事務所の郵便受けに音声ファイルの入った小さなカードが届いた。差出人は真弓ではない。題名は「雨の日だけ空欄になる日記」。再生許可欄には、灯の名前ではなく父・修の名が書かれていた。

カードには一文が添えられている。「何も起きない日を聞いた人へ。何も書けない日の扱い方を教えてください」。灯は再生せず、父へ連絡する前に、差出人が誰へ何を許可したのかを確認する封筒を用意した。急いで意味を見つけないことが、この物語の次の1日になった。

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一日を、もう一度

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このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
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NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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