水野恵(みずの・めぐみ)は、白い封筒を両手で持っていた。
封筒の中には、写真も手紙も入っていない。古いレシートが1枚だけ入っている。日付は20年前の5月17日。近所のスーパーで買った卵、食パン、牛乳、きゅうり、安売りの鮭。合計金額は千二百八十六円だった。
「こんなものを持ってきて、変ですよね」
恵は笑おうとした。けれど笑い方が途中でほどけて、目元だけが少し赤くなった。
朝倉灯(あさくら・あかり)は、変ですとは言わなかった。彼女の仕事は、誰かにとって大事件ではなかった1日を聞くことだった。結婚式でも、葬式でも、受賞の日でもない。誰も写真を撮らず、誰も日記に残さず、でもあとになって胸の奥で何度も音を立てるような1日。
灯はそれを、1日記録と呼んでいた。
「今日は、どんな1日をもう一度見たいですか」
そう尋ねると、恵は封筒からレシートを出し、机の上に置いた。紙は薄く、角が丸くなっている。指で触れたところだけ、文字が少し消えていた。
「母が朝ごはんを作ってくれた日です」
それだけなら、どこの家にもある話に聞こえる。
恵自身も、そう思っていたのだという。母は毎朝、同じようなものを作った。焼きすぎた鮭、少し水っぽい味噌汁、斜めに切ったきゅうり、焦げ目のついた食パン。和食なのか洋食なのかわからない、急いだ台所の寄せ集めみたいな朝ごはん。
高校3年の恵は、その朝ごはんが好きではなかった。
「お母さん、パンと鮭って合わないよ」
そう言ったことを、今でも覚えている。
母は怒らなかった。ただ、フライパンの火を弱めて、「そうかなあ」と言った。たったそれだけだった。恵はその朝、食パンを半分残して学校へ行った。玄関で母に「いってらっしゃい」と言われたが、イヤホンをしていたから返事をしなかった。
その日が特別だったわけではない。
母はそのあとも何年も生きた。恵も進学し、就職し、結婚し、離婚し、働き続けた。母が亡くなったのは5年前で、別れの時間もあった。ありがとうも言えた。だから恵は、自分には大きな後悔はないと思っていた。
けれど退職の日の朝、ひとりでトーストを焼いているとき、急にあの日の鮭の匂いを思い出した。
焦げた皮の匂い。母が味噌汁の味見をするときの、少しだけ前に出る肩。食卓のテレビで流れていた天気予報。雨が降ると言われていたのに、恵が傘を持たずに出たこと。
会社へ行く最後の朝に、なぜそんな昔の朝ごはんを思い出したのか、恵にはわからなかった。
「仕事を辞める日って、もっと達成感があると思っていたんです」
恵はレシートを見たまま言った。
「でも実際は、明日から何をすればいいのか、急にわからなくなって。私、毎日ちゃんと生きてきたつもりだったのに、何を大事にしてきたのか、あまり思い出せなかったんです」
灯はノートを開いた。
「その朝、お母さんは何時に起きていましたか」
「5時半くらいです。私よりずっと早く」
「音は覚えていますか」
恵は少し考えた。
「包丁の音。一定じゃないんです。母は料理が上手じゃなかったから、きゅうりを切る音も、たん、たたん、たん、みたいにずれていて」
そう言ってから、恵は初めて小さく笑った。
灯はその笑いをノートの端に書いた。包丁の音。ずれている。笑った。
人の記憶は、正確な記録ではない。けれど、間違いの中にしか残らない温度がある。母の味噌汁の味が本当に水っぽかったのか、鮭が本当に焼きすぎだったのか、それはもう確かめられない。大切なのは、恵がその朝を思い出すとき、母が怒らず「そうかなあ」と言った声まで戻ってくることだった。
灯は聞き取りを続けた。
恵は、母が食パンを1枚余分に焼いていたことを思い出した。傘を持たなかった恵のために、玄関の傘立てから古い赤い傘を出していたことも思い出した。恵はそれを使わなかった。学校へ着くころには雨が降り、制服の肩が濡れた。
「母は、私が濡れるのをわかっていたんですね」
「たぶん」
「でも、無理に持たせなかった」
「はい」
恵はレシートを見つめた。
「あの人、私が自分で失敗する場所を残してくれていたんですね」
灯は、ペンを止めた。
その言葉は、灯自身の胸にも小さく当たった。彼女の携帯には、父からの留守番電話が1件残っている。再生時間は19秒。内容は知っている。たいしたことではない。近所の梨を送った、受け取れる日を教えてくれ、というだけの声だ。
灯は3日間、折り返していなかった。
忙しかったから。仕事が詰まっていたから。あとで返せると思っていたから。
けれど目の前で恵が20年前の朝ごはんを両手で抱えているのを見ていると、あとで返せる普通の返事が、いつか返せないものになることを、灯は知っている人間の顔をしなければならなかった。
聞き取りの終わりに、灯は恵へ1つ提案した。
「その朝ごはんを、明日の朝、作ってみませんか」
恵は驚いたように顔を上げた。
「同じ味にはなりませんよ」
「同じにしなくていいと思います」
「でも、母はいないですし」
「はい。だから、もう一度その日になるわけではありません」
灯はレシートを封筒へ戻した。
「でも、その日が今の恵さんの朝に来ることはあります」
恵はその場で少し笑った。安心した笑いではなく、これから1人で台所に立つことを想像して、少し怖くなった人の笑いだった。
「作って、泣いたらどうしましょう」
「泣いてもいいと思います」
「食べられなかったら」
「ラップをして、昼に食べてもいいです」
恵は声を出して笑った。今度は、途中でほどけない笑いだった。泣くかもしれない朝にも、昼に食べるという逃げ道がある。そのくらいの軽さが、今の恵には必要だった。
翌朝、恵から写真が届いた。
皿の上には、焼きすぎた鮭と、斜めに切ったきゅうりと、焦げ目のついた食パンが並んでいた。味噌汁は少し薄そうだった。写真の隅には、赤い傘が立てかけてある。
メッセージは短かった。
母の朝ごはん、下手でした。でも、今日の私にはちょうどよかったです。
そのあとに、もう1通届いた。
食べ終わったあと、傘を玄関に置きました。今日は晴れています。でも、置いておきます。
灯はその文を読み、しばらく画面を見つめた。
よかった、と思った。
大きな何かが解決したわけではない。母は戻らない。20年前の玄関で返せなかった「いってきます」も、直接は返せない。けれど恵は明日の朝を少しだけ変えた。過去をやり直したのではなく、過去に置いてきた温度を、今日の食卓へ移した。
灯は自分の携帯を開いた。
父の留守番電話を再生する。少しかすれた声が、梨の箱の話をする。最後に父は、用件とは関係ないことを言った。
「朝、ちゃんと食べてるか」
灯は再生を止めなかった。
19秒が終わってからも、すぐには電話をかけられなかった。何を言えばいいのか、わからなかったからだ。梨を受け取れる日を伝えるだけなら簡単だった。けれど、3日間返さなかったことを謝るのは、妙に照れくさい。朝ごはんを心配されたことがうれしかったと言うのは、もっと照れくさい。
灯は机の上のノートを見た。恵の1日を書いたページの下に、まだ何も書いていない余白があった。
そこへ、父に言うこと、と小さく書いた。
梨、受け取れる。朝ごはん、食べた。電話、遅くなってごめん。
3つ書くと、急に簡単なことに見えた。人は、言葉を頭の中だけに置いていると、必要以上に重くしてしまう。紙に下ろすと、持てる大きさに戻ることがある。
灯は電話をかけた。父は3回目の呼び出しで出た。
「どうした」
その声に、灯は少し笑った。
「梨、受け取れるよ。あと、朝ごはん食べた」
少し遅れて、もう1つ足した。
「電話、遅くなってごめん」
電話の向こうで、父が安心したように息を吐いた。
「食べたならいい」
それだけの会話だった。
でも灯は、その日をノートに書くことにした。誰かのためではなく、自分のために。
題名は、まだ決めていない。
ただ一行目だけは、もう決まっていた。
朝ごはんを聞かれることが、まだ愛されている証拠の日がある。
そしてその夜、灯の事務所の郵便受けに、差出人のない封筒が入っていた。
中には、古い喫茶店のマッチ箱が1つ。
ふたの裏に、鉛筆で短く書かれていた。
閉店前の5分間を、覚えている人を探しています。
一日を、もう一度
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