一日を、もう一度 第11話:誰にも見せない一頁

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封を開けてほしい娘

朝倉灯(あさくら・あかり)の仕事場へ、小林理沙(こばやし・りさ)は1冊のファイルを持ってきた。透明なポケットに、母が30年間残したレシートや献立表、学校のプリントが日付順に収められている。

「母の70歳の誕生日に、うちの1日をまとめた冊子を渡したいんです」

依頼は祝いの本のように聞こえた。しかし、理沙はファイルの中ほどにある茶色い封筒を指し、声を落とした。

「この日だけ、絶対に見るなって言われました。父も知らないそうです。借金とか、誰かと会っていたとか、後で困ることなら、先に知っておきたくて」

封筒の表には、「2021年11月6日 私以外は開けない」と書かれていた。灯は封筒に触れず、母本人はこの依頼を知っているか尋ねた。

理沙は目をそらした。「冊子のことは。封筒を見せたことは、知りません」

灯はファイルを閉じた。「では、今日は開けません。冊子も、お母さんが渡す相手と残す範囲を決めてから作ります」

理沙の顔に、不満と安堵が同時に浮かんだ。

家族なら知ってよいのか

翌日、理沙は母の小林佳代(こばやし・かよ)を連れて戻った。佳代は小柄で、茶色い封筒を見るなり理沙の手から取り上げた。

「これまで冊子にしるの」

「いい思い出だけだよ。でも、そこだけ空いていたら、かえって気になるでしょ」

「気になってもいいのよ」

理沙は、家族に後ろめたいことがなければそんな書き方はしないと言った。佳代は反論せず、灯の机の上に封筒を置いた。

「この子は、私が一度でもトイレのドアを閉め忘れたら、病気かもしれないと心配してくれるんです」

「心配して何が悪いの」

「悪くない。でも、心配されない日も持ちたい」

灯は2人に、冊子を誰のために作るのか尋ねた。理沙は母への贈り物と答え、佳代は「だったら、私が読める本にして」と言った。

家族のために書かれた記録でも、家族がすべての読者になるわけではない。理沙は初めて、封筒が家族を排除するためではなく、母自身を読者に残すための境界かもしれないと考え始めた。

1人で休んだ日

佳代は、封筒の中身を灯にだけ見せてもいいと言った。冊子へ含めるかを判断するためではない。開けずに冊子を編集できるか、一緒に考えるためだ。

灯は、見せることと引用を許すことは別だと確認した。佳代が領いてから、封を開けた。

中には映画の半券、クリームソーダのレシート、2枚の便箋が入っていた。1枚目には「今日、義母の世話をしなかった」と書かれていた。

2021年の秋、佳代は自宅で暮らす義母の介助をしていた。夫も理沙も手伝ったが、朝から夜まで生活の順番を覚えていたのは佳代だった。その日、佳代は「買い物へ行く」と言い、昼過ぎから六時間帰らなかった。

その間、夫が義母と過ごした。何か事故が起きたわけではない。佳代は1人で映画を見て、空いた喫茶店でクリームソーダを飲んだ。

2枚目の便箋には、こうあった。「帰りたくないと思った。それでも帰った。帰った私だけをえらいことにして、帰りたくなかった私を悪いことにしたくない」

灯は、内容を読み上げなかった。理沙は母の顔を見ていたが、佳代は「借金じゃなかったでしょ」とだけ言った。

理沙は泣かなかった。その代わり、「私に頼めばよかったのに」と言った。

佳代は首を横に振った。「頼めなかった日の記録じゃないの。頼まずに1人で行ったかった日の記録」

説明の外に残す

理沙は、この日を冊子に入れたいと言った。母がどれほど大変だったか、家族が理解するために必要だと思ったからだ。

佳代は、それでは意味が変わると言った。あの日は介護の大変さを訴える証拠ではない。家族へ示したい教訓でもない。自分だけが、自分のことを六時間後回しにしなかった日だった。

灯は1つの形を提案した。冊子の11月6日には、一頁の厚い紙を入れる。日付と「この日の読者は佳代さん1人」という一文だけ印刷する。封筒は佳代が持ち帰り、本の中に内容を入れない。

「空白があると、ずっと気になると思う」理沙は言った。

「気になったら、聞いて」佳代は答えた。「私は答えないけど、聞かれたことは分かるから」

家族の疑問をすべて解消しなくても、関係は続けられる。質問と回答の間に、相手が答えないと選べる余白があればよい。

理沙はしばらく考え、「じゃあ、今日はお母さんが帰ったくなかった日だったの」と聞いた。

佳代は「そう」と答えた。

「誰にも会わなかった?」

「それは答えない」

理沙は続けて聞かなかった。1つ答えてもらったことで、すべてを受け取ったことにした。

一頁の重さ

冊子は、ほとんどの頁に写真や献立、会話の断片が入った。ただし、11月6日だけは、厚い青い紙を1枚挟んだ。

製本所から見本が届くと、理沙はその頁を何度も開いた。厚いため、本はそこで自然に開く。隠したはずの日が、一番目立っていた。

「やっぱり普通の紙にしませんか」

佳代は、厚いままでいいと言った。「知らない日があるって、家族にとっても重さのあることでしょ。軽いふりをしなくていいわ」

理沙は、母の1日を知れなかった自分の気持ちも、否定されていないことに気づいた。心配することも、聞くことも、間違いではない。答えを手に入れる権利へ変えなければよいだけだ。

誕生日、佳代は家族の前で冊子を開いた。幼い孫が青い頁を見て「ここは何?」と聞いた。

佳代は「おばあちゃんが、おばあちゃんだけでいた日」と答えた。

孫はすぐ次の頁へ進んだ。理沙も、その日は聞き直さなかった。

家族全員の空白

誕生日の翌週、理沙は冊子を一度返しに来た。青い頁を削るためではなかった。冊子の最後へ、家族全員の空白の頁を加えたいという。

「私はお母さんの1日を知らないのが不安だったけど、お母さんは私の1日を全部知っていると思い込んでいたんです」

理沙にも、家族には言っていない日があった。仕事を休んで電車の終点まで往復した日。離婚を考えて不動産屋の前まで行き、中へは入らず帰った日。どちらも、後ろめたい犯罪や秘密ではない。説明すれば、心配も助言もされただろう。それが嫌で、言わなかった。

「じゃあ、その日を書きますか」灯が尋ねた。

理沙は首を横に振った。内容を書くのではなく、自分にも家族へ開けない日があるということだけ残す。夫や子どもにも、望むなら同じ頁を用意する。

灯は、家族ごとに色の違う紙を入れる案を出した。すべての紙に内容はない。表に名前も書かない。誰が使ったかさえ、他の家族には分からないようにした。

冊子は、母の1日を家族が所有する本から、同じ家で暮らしても読まない頁を持てることを確かめる本へ変わった。

佳代は増えた空白を見て、「私の誕生日なのに、みんなの本になったわね」と笑った。

理沙は「嫌?」と聞いた。

佳代は「いいえ。お祝いの日に、みんなが私の一部にならなくていいと分かったから」と答えた。

答えなくてよい質問

受け取りの日、理沙の息子は1枚だけ増えた紙を見つけた。「これは誰の?」と聞き、理沙は一度だけ灯を見た。

灯は答えを渡さなかった。依頼人の本なのだから、決めるのは理沙だった。

「分からなくていい頁なの」

理沙がそう言うと、息子はしばらく紙を光へ透かした。何も書かれていないことを確かめ、元の位置へ戻した。

「じゃあ、僕も1枚ほしい。誰にも言わずに公園で鳩を数えた日があるから」

理沙は理由を尋ねかけて、やめた。「その日のこと、忘れたくない?」とだけ聞いた。

息子はうなずいた。空白は、隠した内容を暴く入口ではなく、話さないまま大切にしてよいと家族が認める印になった。

帰り際、理沙は灯へ礼を言った。「母の秘密を守ってくれたことより、質問しない方法を教えてくれたことに」

灯はその言葉を、自分の机へ持ち帰った。

灯だけの読者

冊子を納品した夜、灯は自分のノートを開いた。智代に言われたように、見せる人を決める前に書くことを、まだうまくできない。書いた文章を読み返すと、依頼人への報告書のようになる。

灯は新しい頁の上に、「読者は私1人」と書いた。その下へ、その日誰にも言わなかったことを1つだけ残した。

「依頼人の家族が、少し羨ましかった」

自分には、知らないまま守られる私的な日があっただろうか。父との会話を思い出せないのは、会話が少なかったからではない。覚えておく必要のない普通の時間まで、後回しにしていたからだ。

机の端に、父からの留守番電話メモがあった。再生日時だけを書き写し、内容を最後まで聞いていない音声だ。

灯は録音機を再生した。

「灯。用事というほどじゃない。今度の木曜日、1日だけ、父さんのことを記録してくれないか」

父は依頼の理由をすぐに言わなかった。後ろで包丁がまな板に当たる音がした。5回、間を置いて2回。灯が子どものころから知っている、父が卵焼きを切る音だった。

「おまえが覚えていない木曜日の話を、先にしておきたい」

音声はそこで終わった。

灯は内容を業務ノートに書き写さなかった。父の声はまだ仕事の記録ではない。それでも、木曜日のカレンダーを開き、1日を空けた。

予定の名前は「父の依頼」ではなく、「父といる」にした。

開けないまま渡す

二週間後、佳代から小さな封筒が届いた。中にはクリームソーダの写真が1枚だけ入っていた。裏に、「今日も1人で飲んだ。今回は帰りたくないとは思わなかった」とあった。

灯はその写真を業務記録に保存せず、佳代に返送することにした。佳代は灯に内容を知ってほしかったのではない。ただ、1人で過ごす日を繰り返し選べたことを、一度だけ誰かと確かめたかったのだ。

返送用の封筒には、何も返信を入れなかった。写真を見たという事実だけで、役目は終わっている。

灯は封を閉じる前に、自分のノートを開いた。「読者は私1人」の頁に、二行目を書いた。

「木曜日が怖い。でも、空けた」

一頁を閉じても、気持ちは消えなかった。それでよかった。消すために書くのではなく、怖がっている自分もその日の中にいたと、自分だけが知っているための一頁だった。

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一日を、もう一度

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このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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