朝倉灯(あさくら・あかり)が父の留守番電話を最後まで聞いたのは、受信から11日後の水曜日だった。再生時間は2分43秒。最初の1分は天気と鯖の値段、次の1分は近所の工事の話。最後の43秒に、父・修はこう残していた。「来週の木曜日を予約したい。俺が覚えていない1日を、記録してくれないか」
明日は、その木曜日だった。灯は1日記録士として、依頼票を机へ広げた。依頼人は朝倉修(あさくら・おさむ)。記録対象日は空欄。希望する形式も空欄。備考には「娘だから分かる、で埋めないこと」。父は家族の親しさを、情報不足の代わりに使わないよう先に線を引いていた。
第11話で灯は、依頼人の秘密の休日を家族が所有しない一頁として残した。記録することは、全部を聞く許可ではない。読まない頁、途中で止める権利、本人だけが持つ1日を認めた。その翌日に届いた父の依頼は、まるで学んだ境界を試すようだった。
灯は父へ電話した。「明日、何時に行けばいい?」
「朝七時。魚屋の前」
「記録したい木曜日は、いつの木曜日?」
「それを覚えていない」
「覚えている人を探すの?」
「探してほしいとは言ってない。明日を一緒に歩いて、思い出さなくていいか決めたい」
依頼としては不10分だった。けれど父は、過去の答えを回収するのではなく、思い出せないものとの距離を決める日を予約していた。灯は依頼票の日付欄へ明日の日付を書き、対象日欄は空白にした。
木曜日の朝、魚屋はまだシャッターを半分しか開けていなかった。修は青い買物袋を持ち、店先の丸椅子へ座っていた。灯を見ると時計を指した。「7時2分。2分遅刻」
「記録に残す?」
「残せ。娘だから免除するな」
魚屋の店主・富田は、修へ小さな発泡箱を渡した。中には鯖ではなく、卵が六個入っている。以前、父娘は「鯖ではなく卵」を食べながら普通の日の録音を聞く約束をした。卵の殻には1つずつ曜日が鉛筆で書かれ、木曜日だけ二個あった。
「なぜ魚屋で卵?」と灯が尋ねると、富田は「修さんが毎週木曜に預けるから」と答えた。修は養鶏場の手伝いをしているわけではない。町内朝市で余った卵を、独り暮らしの人へ六個ずつ分ける仲介をしていた。魚屋の保冷箱を一時間だけ借り、受取人が来なければ自分で届ける。
灯は知らなかった。父の木曜日は、朝市の店番でも通院でもなく、卵の受渡日だった。「いつから?」
「7年くらい」
「どうして話さなかったの」
「話すほどのことじゃない。卵を渡すだけだ」
灯は録音機へ手を伸ばし、止めた。「録っていい?」。修は頷いたが、富田は首を振った。「俺の声は要らない。修さんの話だけにして」。同じ場にいるから全員を記録してよいわけではない。灯は録音機を父の胸元へ向けず、卓上へ置き、富田の発言部分は要約しないと決めた。
最初の受取人は八時に来た。白い帽子の女性で、名前を尋ねる前に修が卵を渡した。女性は代金箱へ二百円を入れ、領収書を取らない。灯が名簿を探すと、紙には名前ではなく「白い帽子・木曜一番」とだけある。
「記録として粗すぎる」と灯は言った。
「卵を渡すのに本名はいらない」
「食物アレルギーや連絡は?」
「連絡先は本人が富田さんへ封筒で預けてる。俺は見ない」
修は受渡しに必要な情報と、知らなくていい情報を分けていた。灯が仕事でようやく学び始めた境界を、父は名前のない用事の中で続けていた。
九時を過ぎても、木曜二番の受取人が来なかった。名簿には「青い自転車」とある。修は卵の箱を袋へ入れ、歩き出した。灯が後を追う。「届け先を知ってるの?」
「知っている。でも記録には住所を書くな」
「依頼人がそう言えば、全部伏せていいわけじゃない。何を確認するための住所?」
修は立ち止まった。娘に問い返されると思っていなかった顔だった。「来なかった人が困ってないか見るため」
「なら、本人へ今日の訪問を記録していいか聞く。だめなら、行った事実だけ残す」
青い自転車の持ち主は、喫茶店を営む小島静だった。店の前に自転車はあるが、扉に臨時休業の札が出ている。修は裏口を叩いた。返事がない。灯が救急へ連絡しようとすると、修は「木曜は仕込みで音が聞こえないことがある」と止めた。
止める根拠は過去の習慣で、今日の安全を保証しない。灯は店の電話へかけ、窓から着信音だけを確認した。さらに隣の書店へ、静が今朝姿を見せたか尋ねた。書店員は6時半に新聞を買ったと答えた。緊急性は低いが、無事は確定していない。2人は10分だけ待ち、返事がなければ管理会社へ連絡すると決めた。
7分後、静が裏口を開けた。両手に小麦粉が付いている。「ごめん、タイマーを止めてた」。卵を受け取ると、灯の録音機を見て表情を曇らせた。
「修さん、今日は何?」
「俺の木曜日の記録」
「私の店は入れないで」
灯はすぐ録音を止めた。父は「ここを抜くと、俺が卵を届ける理由が欠ける」と言った。静は「理由は修さんのものでも、店を休んだ事情は私のもの」と返す。第11話で聞いたのと同じ境界だった。
灯は提案した。「『受取人が来ず、安全確認の手順を決め、本人へ渡した』まで。店名、住所、休業理由は書かない」。静は文面を読んでから許可した。修は不満そうだったが、娘だから分かるで埋めないこと、と自分で依頼票へ書いている。記録の完全さより、関わった人が自分の頁を持つ権利を優先した。
帰り道、修は「お前は、俺より他人を守るんだな」と言った。
灯は腹が立った。「お父さんの記録を作るために、他の人の1日を材料にしないだけ」
「昔のお前なら、話をきれいにつなげる方を選んだ」
「昔のお父さんなら、私が何も聞かなくても分かると思ってた」
2人は歩道の端で黙った。車が1台通り、青い買物袋の中で卵が小さく触れ合った。壊れなかった。
昼前、修は灯を古い公民館へ連れていった。倉庫の棚に、曜日を書いた卵箱が積まれている。月曜、水曜、金曜。木曜だけ箱が二種類あり、一方に「予約」と書かれていた。修が明日を木曜日に指定した理由は、卵の受渡日だけではなかった。
7年前の木曜日、灯はここで父と話したらしい。修はその会話を覚えていない。灯も覚えていない。倉庫の利用記録には2人の名前があり、青いノートの最初の頁には同じ日の卵のしみが残る。灯が1日記録士になる前、父が青いノートを拾った日の翌週だった。
「俺は、お前から何か頼まれた」と修は言った。「それを断った気がする。でも何を断ったか思い出せない」
灯は胸の奥が冷たくなった。父との普通の会話を覚えていない理由を、ずっと忙しさのせいだと思ってきた。もし、忘れたのではなく、断られた痛みから自分で遠ざけたのなら、物語の意味が変わる。
倉庫には監視カメラも録音もない。当時の管理人は退職している。利用記録だけで会話の内容は分からない。灯は青いノートの頁を光へ透かした。卵のしみの横に、子どもの字ではない細い筆跡で「毎週ではなく、一度だけ」とある。灯自身の字だった。
「一度だけ、何を頼んだんだろう」
修は答えなかった。答えられないのではなく、推測を口にするのを止めた。「お前の仕事を見せてほしい、だったかもしれない。俺の店番を手伝って、だったかもしれない。どれも今の俺が作った話だ」
灯はその慎重さに救われ、同時に寂しくなった。父がそれらしい答えをくれれば、1日を完成させられる。しかし完成した話は、2人が覚えていないという事実を消す。
依頼票を取り出し、対象日欄へ7年前の日付を書こうとした。手が止まる。父の依頼は、過去を再現することではなかった。明日を一緒に歩き、思い出さなくていいか決めたい。今日の記録対象は、7年前ではなくこの木曜日だ。
「昔の会話は、空欄で残す」と灯は言った。「ただし、空欄の理由は書く。資料がないから。お互い覚えていないから。都合のいい推測で埋めなかったから」
修は青いノートを閉じた。「それで依頼は終わりか」
「まだ。今日、お父さんは何を予約したかったの?」
修は倉庫の折畳み椅子へ座った。「木曜日そのものだ。卵を渡す日なら、お前が仕事として来ても、俺が娘を呼びつけたことにならないと思った」
灯は言葉を失った。父は会いたいと頼む代わりに、記録の依頼へ変えた。娘の仕事を尊重したようで、断られる怖さを仕事の形式へ隠している。
「それはずるい」と灯は言った。「依頼なら私は来る。娘として来てほしいと言われたら、断るかもしれない。お父さんは私の仕事を使って、答えを先に決めた」
修は反論しなかった。「そうだな。7年前も同じことをしたのかもしれない。お前の頼みを、親らしい理由へ変えて断ったのかもしれない」
灯は録音を止めた。ここからは依頼人の証言ではなく、父娘の会話にしたかった。「記録しないで聞く。来週の木曜日、何がしたい?」
「卵を渡す。そのあと、昼を食べたい」
「鯖?」
「卵が余るから、卵焼き」
「私は仕事として来ない。11時半に娘として来る」
修は「予約できるか」と尋ねた。灯は手帳を開き、来週木曜の11時半へ丸を付けた。「できる。でも、変更する時は電話する。留守電の最後へ隠さない」
午後、灯は事務所へ戻り、父の木曜日を八頁の小冊子にした。魚屋で受け取った卵。名前を持たない受取表。来なかった人の安全を、思い込みだけで決めなかった10分。記録を拒んだ人の店名を消した頁。公民館の空欄。最後に、来週11時半の約束。
7年前の頁には、何も再現しなかった。中央へ「2人とも覚えていない」と一行だけ置き、その下に小さく「思い出すことを今日の条件にしなかった」と書いた。忘れた理由を解明しなければ前へ進めない、という形にしなかった。
父へ確認用のデータを送ると、10分後に電話が来た。「静さんのところ、これなら特定されないか」
「本人にもう一度見てもらう」
「俺の卵の活動は、名前を出していい」
「自慢したい?」
「連絡先が分からないと、俺が休んだ時に困る」
修は自分の名を英雄として残すのではなく、変更の相談先として残そうとしていた。灯は富田と次の担当者を共同連絡先にし、父1人へ用事が集まらない形へ直した。普通の日を大切にすることは、1人しか続けられない習慣へすることではない。
夜、灯は自分の1日記録を開いた。これまでなら、父の依頼を完成させたことを書く。今日は違った。「父の木曜日を記録した」ではなく、「来週の木曜日を娘として予約した」と書いた。記録士としての達成より、自分が作った約束を残した。
その直後、父から短い留守番電話が届いた。今度は再生時間11秒。「来週木曜、11時半。卵焼き。変更なら電話する」。最後まで聞かなくても内容は分かったが、灯は最後まで再生した。
無音が2秒あり、父の声がもう一度入った。「それと、7年前の頼みを思い出したら、勝手に答えを決めずにお前へ聞く」
灯は返信を録音した。「私も思い出したら、記録する前にお父さんへ聞く」。送信してから、来週の手帳へ卵の小さな丸を描いた。
翌朝、修から1枚の写真が届いた。曜日を書いた卵が六個、箱へ並んでいる。木曜日の二個のうち1つだけ、鉛筆で「灯」と書かれていた。もう1つには「修」ではなく、「次の人」とある。
父が休んでも続く受渡しと、父がいなければ成立しない昼食。灯はその2つを同じ親孝行へまとめなかった。仕事は引き継ぎ、約束は自分で行く。
そして次の木曜日、灯は録音機を事務所へ置いたまま、11時28分に公民館へ着いた。2分早い。父は卵焼きを切らずに待っていた。2人は7年前の会話を思い出そうとせず、今日の味が少し甘すぎることから話し始めた。
食べ終えた時、修が青いノートを差し出した。最後の頁に、灯の知らない予約が1つ書かれていた。「次の木曜日ではない。3か月後。依頼人、朝倉灯」。父が娘のために予約したのではない。灯自身の名で、すでに依頼料まで払われていた。
備考欄には、父の字で一行だけあった。「今度は、お前が記録しなかった1日を聞く」。灯は予約を取り消さなかった。ただ、依頼人本人の同意欄へまだ署名せず、父の前で頁を閉じた。次の約束は、頼まれたから受けるのではなく、自分で受けると決めてから始めたかった。
一日を、もう一度
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