一日を、もう一度 第10話:雨の日だけ空欄になる日記

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雨の日だけ空欄になる日記

朝倉灯(あさくら・あかり)の仕事場へ、濡れていない日記帳が届いた。外は3日前から雨だったのに、布張りの表紙には水滴1つない。依頼人の佐伯智代は68歳。毎晩、その日の食事と会った人を一行ずつ書いている。

「雨の日だけ、翌朝になると消えるんです」

鉛筆の跡が薄れるのではない。前夜に書いた頁だけ、最初から何もなかったように白くなる。智代は記憶の病気を疑い、同じ内容を携帯電話にも入力した。そちらは残っている。紙の日記だけが空欄になる。

灯は不思議な現象の正体より、智代がなぜ空欄を埋めたいのかを尋ねた。智代は笑って、「1日を無駄にした証拠みたいでしょう」と答えた。

消えた日の共通点

2人は空欄になった日を、天気以外の条件で並べた。6月2日、7月17日、8月4日。智代は朝食を取り、買い物へ行き、近所の人と話している。何も起きなかった日ではない。

携帯電話の記録には、3日とも同じ名前があった。「浩」。亡くなった夫ではない。市民農園で知り合った70歳の男性、長谷川浩だった。智代は雨の日だけ、彼と駅前の喫茶店で将棋を指していた。

「人に言うほどの関係じゃありません」智代は日記を閉じた。「子どもたちに見せたら、変に心配されるでしょう」

灯は、書いた記録を誰かへ見せる予定があるのか聞いた。智代は、死後に娘へ渡すつもりだと言う。毎日の暮らしを残したい一方、娘が知らない交友関係を説明するのが面倒で、雨の夜だけ消せる鉛筆を使っていた。

正体は単純だった。日記帳の後ろに挟まれた消去用の薄紙を、智代自身が朝に重ねていた。忘れていたのではなく、消す動作を習慣にしすぎて意識しなくなっていた。

残したい1日と、見せたい人生

「では、依頼は解決ですね」と智代は言ったが、声は軽くなかった。灯は日記を返さず、2つの質問をした。残したいのは自分の1日か、娘に見せたい母親像か。

智代は長く黙った。夫を亡くして5年。娘は週に一度電話をくれる。寂しくないか、困っていないか、薬を飲んだか。智代はいつも「大丈夫」と答える。その答えに合う日記を、少しずつ編集していた。

浩との将棋は恋愛ではなかった。恋愛でないと断言する必要もなかった。雨の日、農園へ行けない2人が、喫茶店の隅で一局だけ指す。勝った方が次のコーヒー代を払うという、妙な約束だった。

「娘に知られたくないというより、説明して関係を決められたくないの」

灯は頷いた。記録しない権利と、消さずに自分だけで持つ権利は違う。娘へ渡す日記と、自分のための日記を1冊にしなくてよい。

2冊目ではなく、封筒1枚

灯は新しい日記帳を勧めなかった。2冊に分ければ、秘密の日記を隠す仕事が増える。代わりに、雨の日の頁へ小さな封筒を貼る方法を提案した。表には「今日は私だけの1日」と書き、中の紙は智代が生きている間は誰にも渡さない。

死後に娘へ見せるかどうかも、今決めなくてよい。封筒を処分する、浩へ返す、娘へ渡す。その選択を1年ごとに書き直せるようにする。

智代は最初の封筒へ、喫茶店のレシートを入れた。将棋の勝敗は書かなかった。「負けたの」と笑い、「でも私が払う日じゃない。勝った人が払うから」と説明した。

その規則だけで、灯には2人がどんな時間を過ごしたか少し分かった。説明しすぎないことで残るものもある。

智代は消去用の薄紙を捨てず、封筒へ入れた。消していた自分を責めないためだ。あのときは、空欄にすることで関係を守っていた。方法を変えられる今日が来ただけだった。

娘への電話

作業の途中、娘から電話が来た。智代は灯を見て、いつもの「大丈夫」を言おうとした。だが、窓を打つ雨を見て少し言葉を変えた。

「今日は喫茶店に行く予定だったけど、相手が風邪で中止になったの。だから少し退屈」

電話の向こうで娘は一瞬黙り、それから「相手って誰」と聞いた。智代の肩が固くなる。

灯は何も助言しなかった。智代は、自分で答えた。「将棋の相手。詳しいことは、今度話したくなったら話す」

娘は意外にも追及しなかった。「じゃあ今日は私と一局やる? アプリでできるよ」

智代はスマートフォンの将棋アプリを入れるのに20分かかると言い、娘は20分待つと言った。大きな告白も、関係の定義もなかった。ただ、退屈だと初めて言えた。

空欄のまま残す

灯は依頼の冊子を作らなかった。智代が望んだのは、消えた3日を美しい物語にすることではなかった。そこで、空欄になった三頁へ日付だけを戻し、余白はそのまま残した。頁の下に一行だけ、智代自身の字で書いた。「書かなかったことがある日」。

浩が風邪から戻ったら、智代は次の雨の日も将棋へ行く。勝敗を書くか、封筒へ入れるか、何も残さないかはその夜に決める。

帰り際、智代は灯へ尋ねた。「あなたは、自分の日記を誰に見せるの」

灯は答えられなかった。父との録音、自分の短い今日、依頼人へ見せない記録。記録士としては整理できても、娘としてはまだ混ざっている。

智代は空欄の頁を撫でた。「見せる人を決めてから書くと、その人の人生になっちゃうわよ」

その夜、灯は自分のノートへ、父にも依頼人にも見せない一行を書いた。「雨の音がして、仕事のあとに何もしたくなかった」。意味も教訓も付けなかった。

父へは別のメッセージを送った。「今日は少し退屈。明日の昼、蕎麦でもどう?」

父からは、「雨なら卵焼きも作る」と返ってきた。灯は1日を作品にせず、予定だけをカレンダーへ入れた。空欄が残っていても、明日はちゃんと続いていた。

翌朝の一行

翌朝、雨は上がっていた。灯が仕事場を開けると、智代から写真が届いた。昨日の頁は消えていない。封筒の表には「今日は私だけの1日」とあり、その下へ追記されていた。「娘と初めてオンライン将棋をした。三手で待ったを頼んだ」。

秘密を全部話したわけではない。だが、智代は娘に見せるための完璧な母親像ではなく、退屈して、待ってもらって、間違える今日を1つ残した。

灯は写真を保存する前に、智代へ確認した。依頼記録として残すか、確認後に消すか。智代は「消してください。私の日記に残ったから」と答えた。

灯は画像を削除し、削除した事実だけを業務記録へ残した。何でも保管することが丁寧さではない。残したい人の手元に残ることも、正しい記録の形だった。

昼、父が卵焼きを持ってきた。灯は味の感想を一行も書かなかった。ただ二切れ食べ、父が三切れ目を自分の皿へ移すところを見ていた。

「記録しなくていいのか」

「今日はいい」

父は少し笑った。「じゃあ、覚えてなくてもいい日だな」

灯は頷いた。覚えていなくても、過ごしたことはなくならない。雨の日だけ空欄になる日記は、空欄のままでも1日を失わない方法を、灯に教えていた。

消さないことを決めない

一週間後、智代はもう一度仕事場へ来た。雨の日の封筒を3枚作ったが、2枚目は空のままだという。その1日を秘密と呼ぶほどでも、娘へ見せるほどでもなかった。

灯は、空の封筒にも意味が必要かと尋ねた。智代は必要ないと答えた。封筒は何かを隠すためでなく、書くか書かないかを夜ごとに選び直すためにある。

娘へ渡す日記の最初の頁には、「ここに書かれていない日も、私は暮らしていました」と加えた。娘が空欄を事故や不幸だと解釈しないためで、内容を明かす約束ではない。

灯はその一文を依頼記録へ引用してよいか尋ねた。智代は断った。「これは娘にだけ見せるから」。灯は安堵した。依頼人が記録士へ渡さない言葉を持てる関係の方が健全だった。

父のノートの空欄

智代を見送ったあと、灯は父の青いノートを開いた。日付が続く中に何も書かれていない頁がいくつもある。以前なら、失われた出来事を探しただろう。

父へ電話すると、「書くことがなかったんじゃなく、眠かった」と答えた。雨だったか晴れだったか、夕食も覚えていない。

「覚えてなくて、不安じゃない?」

「おまえと話してない日の全部が失敗なら、父親は忙しすぎるな」

灯は父との空白を取り戻す対象にしないことを選んだ。今日の電話を5分延ばし、父が卵の値上がりを話すのを聞いた。

通話後、「父と卵の値段の話」と書きかけてやめた。記録しなくても会話は役目を果たしている。

窓の外でまた雨が降り始めた。灯は日記帳を閉じ、傘を持って帰った。空欄を埋めるためではなく、濡れないように歩くために。

何も残さない依頼

翌月、智代から短い依頼が届いた。浩との将棋で初めて三局続けて勝ったが、その日の記録を何も残さない手伝いをしてほしいという。

灯は戸惑った。記録士へ「記録しない依頼」を出す必要はない。それでも智代は、1人だと後で不安になって書き直してしまうから、今日は残さないと誰かの前で決めたかった。

2人は喫茶店の前で会い、日記も録音機も出さず、コーヒーを飲んだ。智代は勝ち方を説明し、途中で忘れ、笑った。

帰りに灯は業務記録へ「依頼人の希望により内容を保存せず」とだけ入力した。智代の勝利は誰にも証明されない。それでも本人の歩き方は、来たときより少し軽かった。

灯は、残すことと大切にすることが同じではないと改めて知った。今日を丁寧に過ごすとは、すべてを未来へ運ぶことではない。今日だけに置いて帰る時間を、自分で選べることでもあった。

今日へ戻る

灯は智代の依頼を閉じたあと、仕事場の時計を見た。予定より20分早い。以前なら次の原稿を開いたが、その日は窓を少し開け、雨上がりの匂いを入れた。

父へ電話するほどの用事はない。智代へ報告することもない。灯は湯を沸かし、何も記録せず茶を飲んだ。大切にした1日は、誰かへ説明できる1日だけではなかった。

帰り道、水たまりを避けず一度だけ踏んだ。靴下が少し濡れた。後悔するほどでも、覚えておくほどでもない。その小ささが、灯には心地よかった。

明日になれば忘れるかもしれないが、忘れるまでの今日を、灯は急がず自分の時間として過ごした。

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一日を、もう一度

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このシリーズの全話 16編
  1. 第1話:待っていた朝ごはん
  2. 第2話:閉店前の5分間
  3. 第3話:父の店番
  4. 第4話:今日の話を聞く券
  5. 第5話:明日の私からの依頼
  6. 第6話:昨日の娘への葉書
  7. 第7話:10年前の私の忘れ物
  8. 第8話:父が録った何もない日
  9. 第9話:同じ録音を聞いた人
  10. 第10話:雨の日だけ空欄になる日記
  11. 第11話:誰にも見せない一頁
  12. 第12話:父が予約した木曜日
  13. 第13話:私が記録しなかった日
  14. 第14話:記録しない約束
  15. 第15話:私が頼んでいない記録
  16. 第16話:父が忘れなかった名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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