黒瀬(くろせ)は、真砂(まさご)の本名が書かれた紙を見て笑わなかった。「やっと買ってくれた」と言った。会議室には黒瀬と真砂、羽鳥(はとり)、佐和の4人しかいない。机の中央にある寄付台帳は、どのページも善意の顔をしていた。
真砂は白紙の契約書へ本名を書いた。詐術で使う偽名ではない。父からもらい、捨てたつもりでいた名前だ。「何を買ったことになる?」と聞くと、黒瀬は台帳の古い頁を開いた。
父の借金を黒瀬が肩代わりした記録。そう見えていた数字の横に、小さな記号があった。寄付でも貸付でもない。「承継待ち」。黒瀬は父の借金を救ったのではなく、息子が本名で契約へ戻る日まで保管していた。
「君の父親は正直だった。正直すぎて、こちらの数字に署名しなかった」黒瀬は言った。「だから事業を潰し、債務だけを残した。息子が嘘を覚えて戻ってくれば、署名させられると思っていた」
真砂の中で、長年使ってきた物語が音を立てた。父は正直者のまま負けた。だから自分は騙す側になるしかなかった。その因果が、黒瀬によって丁寧に育てられた嘘だった。
羽鳥が机の下で真砂の靴を軽く蹴った。怒るな、という合図ではない。怒り方を選べ、という合図だった。佐和は台帳を見ず、真砂を見ていた。救われたことと許すことは別だと言った人の目だった。
買わなかった人
「佐和さんを代表被害者にするつもりでしょう」と真砂は言った。黒瀬の計画は、被害者の1人にすべてを語らせ、その証言の小さな誤りを突いて全体を虚偽にすることだった。正しい人を1人だけ看板にし、看板を倒して群衆を消す。
黒瀬は肩をすくめた。「彼女は顔がいい。世間は複雑な台帳より、1人の涙を信じる」佐和が口を開く前に、真砂は答えた。「だから彼女は出しません。告発者は俺です」
真砂は自分の携帯を机へ置いた。そこには黒瀬へ売った偽の再開発計画、改訂前後の感謝状、架空寄付の対応表が保存されていた。真砂自身の詐術も含めて、時系列で第三者へ送信済みだった。
「君も捕まるぞ」「でしょうね」真砂は言った。完全な勝利を売ることはできなかった。自分だけ無傷で黒瀬を落とす物語は、もう誰にも買わせたくなかった。
会議の前夜、真砂は父の古い工具箱を開けた。中には領収書と、返送されなかった契約書の控えがあった。父は署名欄を空白にし、余白へ「説明を受けていないため保留」と書いていた。弱くて署名できなかったのではない。署名しないという抵抗を選んでいた。
黒瀬がその控えを真砂へ送ったのは10年前だった。父の失敗を見せつけ、息子に「正直では生き残れない」と思わせるために。真砂が詐術を覚えるたび、黒瀬の計画へ近づくよう道が作られていた。
羽鳥は計画を聞き、「自分も告発対象に入れろ」と言った。真砂は拒んだ。「君の罪まで俺が選ぶのは、黒瀬と同じだ」と返され、言葉を失った。2人はそれぞれ自分の関与を記した文書を作り、片方が逃げても残る場所へ預けた。
佐和にも、公開する資料を1枚ずつ確認してもらった。彼女の住所や家族構成が推測できる箇所は削り、削除した理由を記録した。真砂は以前なら、物語の説得力のために彼女の傷を細部まで使っただろう。今回は説得力を減らしてでも、本人を残した。
黒瀬の台帳には、善意を装う言葉が多かった。「地域貢献」「生活再建」「未来支援」。真砂は言葉を否定せず、その横に実際の入金先と契約条件を並べた。嘘は美しい言葉ではなく、言葉と結果の距離に宿る。
調査担当者が入室したとき、黒瀬は「これは競合による中傷だ」と叫んだ。真砂は反論しなかった。名誉や人格を争えば、事実が物語へ戻される。送信済みの資料には、確認できる日付、金額、承認者だけが並んでいた。
父の債務は法的にはすでに時効の検討対象だった。黒瀬が欲しかったのは金ではない。真砂が本名で承認し、過去の事業が正当だったという物語を完成させることだ。息子の署名は、父の抵抗を後から消すための道具だった。
真砂は破られた紙片を拾わなかった。父が空白にした署名欄と、自分が書いた署名欄は、勝ち負けではなく別の選択だった。正直になることで父へ戻るのではない。自分の嘘を誰のために使い、どこで止めるかを初めて自分で決めた。
真砂は調査担当者に、過去に自分が使った偽名の一覧を渡した。そこには、守るための嘘も奪うための嘘も同じ書式で並んだ。動機を美しく語るのは後にした。まず、誰がどんな不利益を受けたかを確認できる形にする。
佐和は一覧から自分の名前を見つけ、赤い線を引いた。「消してほしいんじゃない。私の項目を、あなたの更生物語の始まりにしないで」。真砂はうなずいた。被害を受けた人は、悪役が変わるための登場人物ではない。
父の工具箱にあった最後の紙は、黒瀬へ出さなかった手紙だった。「息子には関係がない」と一行だけ書かれていた。父は未来の真砂を守ろうとしていた。真砂はその手紙を証拠ではなく私物として預け、自分の責任を父の正しさで軽くしないことにした。
羽鳥は「嘘を売らない練習なら、最初に私へ質問しろ」と言った。真砂が何を、と聞くと、「私が残ると思ってるか」。真砂はすぐ答えず、「残ってほしい。でも決めるのは君だ」と言った。正しい答えではなく、奪わない答えだった。
調査室の時計が正午を告げた。真砂は昼食を勧められ、初めて「何でもいい」と言わず、温かいうどんを頼んだ。選ぶことを他人の欲望を読む技術にしてきた男が、自分の小さな希望を口にした。羽鳥は笑わず、同じものを頼んだ。湯気の向こうで、2人は明日の予定を初めて偽名なしで話した。
黒瀬は初めて苛立ちを見せた。「父親と同じだ。最後に正直になって、全部失う」真砂は首を振った。「父は正直だったから負けたんじゃない。あなたが負けたことにした。俺は嘘つきのまま、記録だけは正直に残す」
白紙の使い道
佐和は席を立ち、寄付台帳の複写を封筒へ入れた。「私は被害者代表にはなりません。でも、私の分の事実確認はします。顔を隠すか出すかも、自分で決めます」黒瀬の作った配役から、1人が降りた。
羽鳥は廊下の扉を開けた。待機していた弁護士と調査担当者が入ってくる。真砂は、黒瀬が逃げ道を探す目を見た。窓、扉、携帯、台帳。人の欲望を読むことに慣れた男が、自分の欲望だけは隠せていなかった。
黒瀬は本名の紙を破ろうとした。真砂は止めなかった。その紙は契約ではない。ペン先の筆圧、書いた時刻、立会人。必要な記録は別にある。白紙は、黒瀬に勝ったと思わせるための最後の商品だった。
「買ってくれた、の意味は逆だ」と真砂は言った。「俺が本名を書けば、父の債務を承継させられると思った。だからあなたは、この部屋に証拠を全部そろえた。買ったのは俺じゃない。あなたです」
黒瀬が連れて行かれた後も、真砂は座ったままだった。佐和が「これで救われたと思わないでください」と言う。真砂は「思いません」と答えた。「でも、明日が少し軽くなるなら、それは覚えておきます」
羽鳥と2人になり、真砂は白紙の契約書を見た。もう高く売れる紙には見えなかった。名前を書く場所があるだけの紙だった。「次はどうする」と羽鳥が聞く。「代償を払う。終わったら、嘘を売らない練習をする」
翌朝、調査室へ差し入れと一緒に1通の封筒が届いた。中には新しい白紙の契約書。署名欄には、真砂の知らない名前がすでに印字されていた。羽鳥がそれを見て、初めて顔色を変えた。「それ、私の本名」
嘘を売る人
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋

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