買った覚えのない商品
父の帳簿の最後には、真砂(まさご)の本名と「未決済」の三文字があった。品名欄は空白、金額は一円。真砂は安堵できなかった。父は、値段を小さくすることで取引の意味を大きく見せる人だった。
店へ戻ると、開店前の椅子に女が座っていた。年齢は五十前後、紺の作業着、左手に古い領収書。真砂を見るなり言った。
「未決済の買い手さんですね」
真砂は笑ってごまかそうとしたが、女は笑わない。「私は御影夏生。あなたのお父さんから、嘘を1つ買いました。代金はあなたから受け取れと言われた」
父の帳簿では、買い手は真砂だ。目の前の女は売り手と買い手を逆にしている。真砂は椅子を勧め、値段を聞かなかった。まず、何を買ったのか尋ねた。
父が売った一円の嘘
夏生は18年前、工場の事故で同僚を救えなかった。会社は彼女個人の判断ミスにし、退職金と引き換えに沈黙を求めた。父は帳簿を見て、会社の説明が嘘だと気づいた。しかし証拠は足りず、すぐには覆せない。
その夜、父は夏生へ言った。「あなたは、いつか1人を救える」。根拠のない言葉だった。夏生は一円で買い、その後、労働相談員になった。救えた人もいた。救えなかった人もいた。
「あれは良い嘘だった、と言えば話はきれいです。でも違う。あの言葉のせいで、私は救えない相手まで抱えた」
真砂は父を擁護しなかった。嘘が人を立ち上がらせても、その後の重さまで売り手が引き受けなければ、救いは借金になる。
「代金は何です」
夏生は領収書を置いた。「私が最後に救えなかった人の話を、あなたが買うこと」。
一円ではなく、1人分の責任だった。
何も約束しない契約
夏生が持参した資料には、若い契約社員の相談記録があった。名前は伏せられ、会社名も黒く塗られている。相談者は不当な違約金を請求され、夏生の前から消えたという。
「探して、助けて」と夏生は言わなかった。「この記録が嘘かもしれないと疑って」
真砂は契約書を作った。成功報酬なし、救済の保証なし、本人の同意なく接触しない。夏生は眉をひそめる。「あなた、嘘を売る人でしょう」
「だから、売らない条件から決めます」
父のように希望を一円で売れば、夏生は安心するかもしれない。だが、その安心の代金を未来の誰かへ回すことになる。真砂は「救える」と言わず、「記録の出所を確かめる」とだけ約束した。
夏生は一円玉を机に置いた。「それなら、これで未決済を閉じて」
真砂は受け取らなかった。父との取引を、別人の支払いで終わらせることはできない。
本当の買い手
帳簿を読み直すと、品名欄の紙が二重になっていた。表面を剥がすと、父の字で「お前は人を救える」とある。夏生へ売ったのと同じ嘘を、父は幼い真砂にも売っていた。
真砂は記憶を掘り起こした。学校で友人をかばい、結局2人とも叱られた夜、父がそう言った。真砂は信じなかったつもりだった。だからこそ、人を操る嘘を覚えた。救えないなら、せめて選択を支配しようとした。
未決済だったのは、父を許すかどうかではない。買った言葉を、どんな行動で支払うかだった。
真砂は一円玉を自分の財布から出し、帳簿の上へ置いた。しかし領収印は押さない。「まだ払わない。夏生さんの記録を確かめて、救えると言わずに1人へ選択肢を返せたら、そのとき払う」
夏生は初めて少し笑った。「お父さんと同じで、面倒な値切り方をする」。
黒塗りの下
記録の黒塗りは油性ペンではなく、感熱紙を加熱して作られていた。温度を変えて撮影すると、会社名の一部と契約番号が浮かぶ。黒瀬(くろせ)の関連会社ではない。だが、契約書の書式は黒瀬が使っていた寄付台帳と同じだった。
羽鳥(はとり)が照合し、雛形の販売履歴を見つけた。黒瀬の仕組みは1人の悪人が閉じても、商品として別の会社へ流れている。嘘は在庫を持たないからこそ、簡単に複製される。
佐和は相談者の名前を知っていた。しかし教えなかった。「本人が私に預けたのは、連絡先じゃなくて、連絡しないでほしいという意思」
真砂は苛立ちを飲み込んだ。手がかりを得るために意思を踏み越えれば、父の嘘を別の形で売ることになる。3人は、本人へ直接届かない公開相談窓口を作り、契約番号だけを掲示した。選ぶのは相手だ。
未来から来た領収書
夕方、窓口に1通の封筒が届いた。差出人はない。中には、問題の契約番号と一致する領収書、そして短いメモ。
「救わなくていい。買い戻してほしい」
領収書の日付は来月だった。印刷ミスかもしれない。予約取引かもしれない。真砂は怪談にせず、紙、インク、発行端末の順に調べることにした。
裏面には受領確認の署名があった。佐和の本名だった。
「私は書いてない」と佐和は言った。声は揺れなかったが、指先が止まった。真砂は署名を責めず、筆圧の違いを見た。似ている。しかし最後の払いだけが、佐和の癖と逆方向だ。
未来の領収書は、誰かが佐和の署名を練習して作ったものだった。そして、その誰かは3人が窓口を作る前から、今日届くことを知っていた。
真砂は帳簿の「未決済」を閉じなかった。第2部の市場には、まだ会っていない買い手が先に領収書を持って待っている。
一円の置き場所
夏生が帰ったあとも、一円玉は帳簿の上に残った。真砂は金庫へ入れず、小さな透明袋に日付と経緯を書いた。支払いでも証拠でもない。「まだ決めていない」という状態を保存するためだ。
羽鳥は未来の日付の領収書を三種類の光で撮影した。用紙は半年前に製造され、印字端末は黒瀬の会社から処分業者へ売却されたものと一致する。未来を知る必要はない。発行日を任意に設定し、信じさせたい物語を先に印刷できる人間がいる。
佐和の署名は、公開された感謝状から学習した可能性があった。過去に黒瀬が彼女を被害者代表として掲げた資料だ。佐和は「また私の名前が看板になる」と言った。真砂は偽造だとすぐ公表する案を出しかけ、止めた。公表すれば、偽の署名をさらに広げることになる。
3人は署名ではなく取引番号を追った。番号の末尾は、父の帳簿で一円取引を示す符号と同じだった。父が夏生だけでなく、複数の人へ希望の嘘を売り、その後始末を別の帳簿に残していた可能性がある。
「父親を善人にしたい?」と羽鳥が聞いた。
真砂は首を振った。「したくなる自分を疑ってる」
父は人を立たせた。同時に、立ち続ける責任を相手へ負わせた。善意と加害が同じ取引に入ることはある。どちらか一方に値札を貼れば、理解した気になれるだけだ。
夏生へ途中経過を伝えると、彼女は「救えそう?」とは聞かなかった。「本人が選べる入口は残った?」と聞いた。真砂は公開窓口が閲覧された回数だけ答えた。接触はまだない。失敗とも成功とも呼ばない。
閉店前、1人の少年が一円玉を握って店へ来た。「ここ、嘘を買い戻してくれるんですか」。真砂は商品棚を見せず、椅子を勧めた。
「買い戻せるかは分からない。でも、誰が売ったか一緒に調べることはできる」
少年は一円玉を握ったまま座った。未決済の買い手は、真砂1人ではなかった。
少年は嘘の内容をすぐには話さなかった。真砂も急かさず、白い紙と水だけを置いた。店の看板には「嘘を売ります」とある。真砂はその下へ、小さな札を加えた。「売らない相談もできます」。商売としては曖昧で、父なら笑っただろう。それでも、その曖昧さの中で少年は一円玉を机に置かず、握る手を少しだけ緩めた。
その日の記録には、解決したことと同じ大きさで、まだ分からないことも残された。新しい依頼人が差し出した領収書には、まだ出会っていない佐和の署名があった。 それは今日の成果を打ち消す不安ではない。今日選んだ行動があったからこそ見えるようになった、次の問いだった。登場人物たちは答えを急がず、確かめるための時間と、もう一度会う約束を先に作った。
嘘を売る人
13 / 24
このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋

コメント