日付だけが未来
少年が持ってきた領収書の日付は二週間後だった。金額は一円。品名は「就職祝い」。受領者欄には佐和の署名がある。真砂(まさご)は未来を信じる前に、紙の折り目を見た。端に小さく「予約控え」と印刷されている。
少年は高瀬颯太、17歳。嘘を買い戻したいと言いながら、何を買ったかは話さない。真砂は身分証も住所も求めず、危険がない範囲で紙の入手経路だけを聞いた。
「駅のロッカーに入ってた。番号はメールで来た」
羽鳥(はとり)がメールを確認し、実在サービスの操作方法へ踏み込まず、送信元の表示と文章の癖だけを記録した。具体的な犯罪手順を再現する必要はない。嘘の設計者が相手へ何を信じさせたいかを見ればいい。
メールには「二週間後、あなたは祝われる」とある。商品ではなく、未来の場面を売っていた。父が一円で希望を売った取引を、誰かが商品化している。
佐和の名前を使う人
佐和へ領収書を見せると、彼女は署名を否定した。だが字体は一致する。黒瀬(くろせ)の感謝状に掲載された署名画像を切り抜けば作れる形だった。
「偽造だって公表する?」と羽鳥。
佐和はすぐ答えなかった。自分の名前を守るために公表すれば、颯太の存在や領収書の内容まで注目される。以前、被害者代表に仕立てられたときと同じ構図だ。
真砂は佐和の代理で決めなかった。「署名の使用停止を求める方法と、今は公表しない方法を分けよう」
3人は発行元へ、署名の真偽ではなく利用権限の確認だけを送った。返事は自動文だった。「購入者の未来を守るため、販売者情報は開示しません」。守るという言葉で、責任の主語を隠している。
佐和は苦笑した。「あなたの商売より、ずっときれいな言葉を使うのね」
「だから高く売れる」と真砂は答えたが、昔のような誇らしさはなかった。
少年が買いたかった朝
颯太が買おうとしたのは、就職そのものではなかった。母へ「採用された」と伝え、二週間後に小さな祝いをしてもらう場面だ。実際には応募さえしていない。高校を休みがちで、面接へ行く朝になると駅から引き返していた。
「母ちゃん、最近ずっと謝るから。自分のせいで俺が駄目になったって」
偽の就職祝いがあれば、母は二週間だけ安心する。颯太はそう信じた。販売者は、祝いの花、店からの電話、領収書まで一式を用意すると約束していた。
真砂は「嘘をつくな」と言えなかった。自分も父から、救える人間だという嘘を買った。それで立てた日もあった。ただし、その嘘は誰かが後始末をしなければならない。
「二週間後、ばれたらどうする」
颯太は黙った。
「責めてるんじゃない。祝いの翌日を売ってくれる契約か確認してる」
領収書には翌日の項目がない。商品は幸福な一場面だけで、その後の生活を購入者へ返していた。
売らない交渉
真砂は颯太へ、本当の就職を約束しなかった。面接へ行けるとも、母が理解するとも言わない。代わりに、二週間後の祝いを何へ変えたいか尋ねた。
颯太は「応募した祝いなら、嘘じゃない?」と聞いた。
「採用の代わりに応募を祝うなら、言葉は本当だ。ただし、お母さんがそれを祝いだと思うかは選べない」
羽鳥が、地域の若者相談窓口と学校外の進路支援を3つだけ示した。どこへ行くかは颯太が選ぶ。真砂は同行を商品にせず、一度だけ交通費を立て替える契約を書いた。返済期限なし、利息なし、成功報酬なし。
佐和は領収書の裏へ、自分の署名ではなく一文を書いた。「祝う理由は、本人が決めていい」。颯太はそれを母へ見せるかどうか保留にした。
嘘を暴いて終われば、販売者だけが悪役になり、颯太が嘘を必要とした朝は残る。3人は契約を止めることと、颯太の次の朝を作ることを別々に進めた。
予約控えのからくり
領収書の未来日付は、予約商品の発送予定日だった。販売システムが決済前に仮の領収書を作り、颯太が印刷した。時間を越えた紙ではない。
だが、品名と佐和の署名は販売者が意図的に入れている。父の一円取引を知る人物が、救いの嘘を再販していた。発行元の登録名は毎回変わるが、規約文には同じ誤字があった。羽鳥は黒瀬の旧資料から、その誤字を見つける。
黒瀬本人の仕業とは限らない。彼の仕組みを学んだ人、被害を受けた人、父の帳簿を読んだ人。真砂はすぐ敵の名前を決めなかった。
決済会社は、権利侵害の申告を受けて販売ページを一時停止した。真砂は停止を勝利と呼ばない。別の名前で再開できるし、購入者が行き場を失う可能性もある。佐和の署名画像は削除されたが、彼女の過去まで消えるわけではない。
必要なのは、1枚の偽造を叩くことではなく、未来の一場面を買いたくなる人が翌日へ戻れる入口だった。
正直屋
二週間後、颯太は採用されなかった。それでも母と小さなケーキを食べた。祝ったのは、相談窓口へ行き、応募書類を1通出したことだ。颯太は就職祝いと書かれた偽の領収書を破らず、透明な袋へ入れて真砂へ返した。
「これがなかったら、店に来なかった」
「だから必要な嘘だった、とは言わない」と真砂。
「分かってる。でも、来たことまで嘘にしたくない」
真砂は袋へ日付と経緯を記した。佐和も保管に同意し、署名が偽物であることだけ追記した。嘘によって生まれた本当の行動を、嘘の免罪符にしない形で残す。
颯太が帰ったあと、羽鳥が販売者一覧の控えを持ってきた。停止された発行元の系列に、翌月開店予定の店がある。店名は「正直屋」。代表者欄は空白だが、連絡先には真砂の店と同じ番号が登録されていた。
真砂はまだ、その店を作っていない。誰かが彼の未来を予約し、正直という最も売りにくい商品を先に棚へ並べていた。
母が祝ったもの
颯太は母へ、採用されたとは言わなかった。応募したことも、最初は言えなかった。ケーキの箱だけを持ち帰り、「今日は帰らずに駅を出られた」と話した。
母は意味を理解できず、何度も聞き返した。颯太は駅から引き返していた日々を初めて説明した。母は自分を責めかけたが、颯太が止めた。「今日は誰が悪いかを決める日じゃない」。相談員から借りた言葉だった。
2人はケーキを半分ずつ食べた。祝いの名前は決めなかった。母は「次も応募しなさい」と急かさず、「次に駅へ行く日は朝ごはんを用意する」と言った。颯太は1人で行きたい日もあると答えた。約束は、応援する側の満足ではなく、本人が選べる形へ少し変わった。
真砂は後日その話を聞き、父の一円の嘘を思い出した。父も結果を保証せず、真砂が立つための1日を買ったのかもしれない。だが、父の行為を正当化はしない。救われた結果があることと、相手に嘘を背負わせた責任は同時に残る。
颯太は偽の領収書の代わりに、ケーキ店の本物のレシートを持ってきた。品名は空欄だった。彼はそこへ何も書かなかった。空欄を未来の成功で埋めず、母と食べた今日の紙として保管した。
帰り道には、今日起きたことを説明し切れない静けさがあった。けれど、何も進まなかった静けさではない。言えなかったことを1つ言い、決めつけていた答えを1つ外し、次に会う理由を1つ作った。大きな結論へ急がなくても、その3つがあれば昨日と同じ場所には戻らない。次の問いは今日を否定するものではなく、今日を通った人だけが持てる問いとして、それぞれの手元に残った。
その日の終わりに、解決したことと同じ大きさで、まだ分からないことが残った。領収書の発行元一覧には、真砂がまだ作っていない店名「正直屋」が登録されていた。 それは今日の進展を打ち消す不安ではない。登場人物たちが自分で選んだからこそ、初めて見えるようになった次の問いだった。
嘘を売る人
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このシリーズの全話 24編
- 第1話:白紙の契約者
- 第2話:存在しない地主
- 第3話:紙の花を折る女
- 第4話:父の住所で待つ男
- 第5話:買い手を間違えた嘘
- 第6話:値段のない庭
- 第7話:黒瀬の寄付
- 第8話:悪役の領収書
- 第9話:嘘を買わなかった人
- 第10話:白紙に書かれた本名
- 第11話:嘘を売らない女
- 第12話:父が買わなかった真実
- 第2部第1話:未決済の買い手
- 第2部第2話:未来の領収書
- 第2部第3話:正直屋の開店日
- 第2部第4話:相棒を売った封筒
- 第2部第5話:2日目の値札
- 第2部第6話:値段のない上司
- 第2部第7話:空白の代替要員
- 第2部第8話:回答者の消えた面接票
- 第2部第9話:買われなかった署名
- 第2部第10話:父が断った依頼
- 第2部第11話:依頼人ではない代理人
- 第2部第12話:開店前の正直屋

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