嘘を売る人 第2部第12話:開店前の正直屋

正直屋が開店する3か月前、真砂悠介(まさご・ゆうすけ)はその名前を捨てていた。

父に見せた開業届の控えには、たしかに「正直屋」と書いてある。父は紙を見て笑わなかった。「正直を屋号にする店ほど、嘘を売る」とだけ言った。真砂は腹を立て、その日のうちに別の屋号へ変えた。

だから、代理受付A-17の利益先に正直屋が記されているのを見たとき、真砂は自分が被害者だとは言えなかった。使われた名義は自分のものだった。父しか知らないと思っていた名だった。

「あなたの口座へ3件入っている」と羽鳥ミカ(はとり・みか)が言った。「知らなかった、で通す?」

「通せる形には作れる」

真砂は答えた。入金通知が古い住所へ送られていたこと、口座管理を父に任せていた時期があること、A-17の受付時刻には国外にいたこと。無関係に見せる材料はいくらでもあった。

「でも、今日は売らない」

真砂は正直屋の入口へ「臨時休業」の札を掛けた。その下へもう1枚、「当店自身の名義利用を監査中」と書いた。店を守るなら黙るべきだった。けれど他人の嘘を返す店が、自分の名義だけ例外にすれば、看板はただの広告になる。

羽鳥は17人へ同じ文面を送らなかった。A-17は共通受付番号でも、17人は同じ被害者ではない。金を受け取った人、名を使われた人、紙を運んだ人、代理を頼んだつもりの人。必要な説明も、望む訂正も違う。

最初に来たのは、青い買い物袋を持った佐和だった。黒瀬の計画で自分の名を代表被害者として使われた女だ。彼女は店先の札を読み、「また私に代表になれって言うなら帰る」と言った。

「今日は、俺が代表にならないために呼んだ」

真砂は3件の入金記録を机へ置いた。合計は86万円。全額が、父の古い借金返済へ自動で回っている。真砂の手元には1円も残っていなかった。

佐和は記録を見ず、「手元に残らなければ、利益じゃないの」と聞いた。

「利益です。俺の家の借金が減っている」

「じゃあ返す?」

「誰に返せば解決したことになるかを、まだ決めない」

返金は分かりやすい。真砂が金を出し、17人へ均等に配れば、償ったように見える。だが入金を知らなかった人、記録だけを直したい人、名前を公にしたくない人へ、同じ金額を押しつけるのは別の物語を売ることだった。

2人目は、八木澄江(やぎ・すみえ)だった。羽鳥が標的リストから消した老女。彼女は入店せず、扉の外から封筒だけ差し出した。「私は返金を受けない。受けなかったことも宣伝に使わないで」と言った。

封筒にはA-17の通知書が入っていた。本人への通知日は、取引から2年後。回答期限は通知日の1年前だった。答えられないように作られた同意だった。

真砂は通知書を公開しなかった。日付の矛盾だけを匿名で記録し、原本は澄江が持ち帰れるよう返した。証拠が欲しいから預かる、と言えば、彼女はまた事件の部品になる。

3人目は来なかった。代わりに代理人の娘から電話があった。母は認知機能が低下し、契約を覚えていないという。娘は返金を急いだが、母の同意を自分が決めることに怯えていた。

「損失が増える処理だけ、今止めます」と真砂は言った。「返金を受けるか、記録だけ直すか、何もしないかは、急いで決めなくていい」

娘は何度も礼を言った。真砂は礼を受け取らなかった。親切に見える言い方まで、相手を決断へ誘導できると知っていた。

午後、旧屋号届の原本が届いた。筆跡は父のものだった。提出日は開業予定の3か月前。受付印は、その半年後に押されている。紙が先にあり、届出は後から成立していた。

羽鳥が光へ透かすと、父の署名の下に小さな穴が4つ並んでいた。旧式の書類綴じ機の跡ではない。別の文書から署名欄だけを切り出した痕だった。

「父親も名義を使われた?」

「そう見せることはできる」と真砂は言った。「だから、まだ決めない」

受付印の時刻と債権移動を比べると、資金は依頼より3分早く動いていた。A-17は取引を始める鍵ではない。終わった取引へ、本人が頼んだように見せる看板だった。

その看板を作ったのは、現在の窓口システムだった。代理人欄へ名前が入ると、本人確認欄まで自動で「完了」になる。人が嘘をついたというより、画面が空白を同意へ変えていた。

佐和は画面を見て、「これなら、誰も嘘をついていない顔ができる」と言った。

「いちばん高く売れる嘘だ。責任者がいない」

真砂はシステム会社へ修正を要求した。だが先方は、正直屋が利益を受けていた事実を理由に監査資格がないと返した。正論だった。真砂が審判をすれば、自分に都合のいい直し方だと疑われる。

そこで、17人がそれぞれ選んだ第三者を監査役にした。全員の代表ではない。返金の監査、個人情報の監査、システムの監査を分ける。佐和は個人情報だけを担当し、誰かを許す役は引き受けなかった。

真砂自身の3件は、最初に凍結した。父の借金は減額前へ戻され、利息だけが増える可能性がある。それでも自分の案件を後回しにすれば、時間稼ぎに見える。先に不利益を確定させ、その記録も他の17人と同じ画面へ置いた。

夕方までに、17人中11人から返答があった。返金希望は3人。記録訂正だけが4人。説明を聞いてから決めるが2人。何も連絡してほしくないが2人。残る6人には、回答しないことによる不利益が出ないよう処理期限を止めた。

「4人が金を受け取らない」と羽鳥が言った。「助かったね」

「違う。俺が払わなくてよくなったわけじゃない」

受取拒否分は正直屋の利益に戻さず、独立した保全口座へ移した。使途を真砂が決めない。一定期間後も本人の意思が変わらなければ、被害相談の公的窓口へ匿名で移す案だけを提示し、最終決定は監査役へ渡した。

夜になって、黒瀬征一(くろせ・せいいち)が現れた。逮捕も告発も終わったはずの男は、店の外で傘を畳み、「開店前の店へ来た」と言った。

羽鳥が通報しようとしたが、真砂は止めなかった。黒瀬は保釈条件に違反しておらず、接触禁止の対象にも入っていない。嫌いだから入店させないことはできる。真砂は扉を半分だけ開けた。

「正直屋の名を、父に勧めたのはあなたですか」

黒瀬は笑った。「勧めたのは君だ。7歳の君が、父親の店は正直な店がいいと言った」

真砂には記憶がなかった。黒瀬が幼いころの言葉まで知っていることだけが、気味悪く残った。

黒瀬は1枚の領収書を置いた。宛名は正直屋。金額は1円。日付は、真砂が屋号を捨てた日。摘要には「息子の嘘を買わないため」とある。

「君の父は、正直者だったから失ったんじゃない」と黒瀬は言った。「正直者に見える物語を、最後まで買わなかったから失った」

真砂は領収書へ触れなかった。「あなたが父を救った話なら、買いません」

「私は売りに来ていない。返しに来た」

黒瀬は店を出た。残された紙の裏には、代理受付A-17を作った17人の署名があった。真砂の父、黒瀬、羽鳥がかつて使った本名。そして残り14人。そのうち4人は、今日、被害者として返答した人々だった。

被害者と設計者が同じ名簿にいる。真砂はそれを矛盾とは呼ばなかった。人は、ある場面で奪われ、別の場面で誰かから奪う。

翌朝、正直屋は開店しなかった。17人の受付は停止され、過去の依頼は本人が選び直すまで凍結された。入口の札は「監査中」から「訂正受付中」へ変わった。

ところが午前10時14分、停止したはずのA-17が再び動いた。申込者は空欄。金額は0円。利益先だけが正直屋になっている。誰かが新しい取引を始めたのではない。停止できたかどうかを試すための空振りだった。

羽鳥は端末の電源を抜こうとした。真砂は止めた。切れば被害は止まるが、どこまで仕組みが残っているか分からなくなる。17人の監査役へ画面を共有し、金銭移動を遮断したまま処理だけを最後まで走らせた。

画面は代理人欄へ「正直屋」、本人確認へ「完了」、依頼内容へ「該当なし」と自動入力した。依頼が存在しなくても、代理人がいるだけで同意が完成する。A-17の正体は悪意ある17人ではなく、17種類の空欄を埋める規則だった。

「人が17人だと思わせたのも、看板か」と佐和が言った。

真砂はうなずいた。人を探せば、裏切り者を見つけて話を終えられる。だが規則が相手なら、誰か1人を罰しても次の受付が同じ嘘を作る。名簿に署名した17人は、設計者ではなく、過去に空欄へ入れられた役割の持ち主だった。

羽鳥の本名が返却証に出た理由も分かった。彼女が自白したからではない。代理人の氏名が空白のとき、旧雇用名簿で最も近い人物を自動補完する仕様だった。システムは知らないことを「不明」のまま残せなかった。

真砂は空欄を嘘に変える仕組みに、自分と同じ癖を見た。客が黙ると、欲しい物語を推測する。迷っている人には、すでに決めたような言葉を返す。彼は機械より巧妙だったが、していることは同じだった。

「止めるだけじゃ足りない」と真砂は言った。「分からない、返事がない、まだ決めない。この3つを、別の商品にしないと」

改修後の試験画面では、代理人欄を埋めても本人確認は空白のまま残った。空白を押すと、未確認、回答待ち、回答拒否、連絡不可の4つが表示される。どれも同意にはならず、どれを選んでも損失停止だけは利用できる。

遠方の母を代理していた娘が、最初の試験者になった。娘の本人確認は完了した。それでも母の同意欄は埋まらない。娘は画面を見て泣いた。「私が決めなきゃいけないと思っていた」と言った。

真砂は慰めの言葉を売らなかった。娘が決めなくても損失が増えないこと、母の返答がなくても娘の責任にならないことだけを説明した。画面には「代理人が決めなかった」と記録され、それが正常な完了状態になった。

17人の監査役は、A-17を消さず「使用停止・再発防止検証中」として残した。消せば、かつて完了と表示された取引まで正しかったように見える。壊れた番号には、壊れていた期間と直した人の異議をつけた。

佐和が店内の白紙契約書をすべて裏返した。「これで、少なくとも勝手に署名欄は見えない」

「意味ある?」

「小さいけど。小さいことを笑う人が、大きい嘘を作るんでしょう」

真砂は初めて、その日だけ店の明かりを点けた。何も売らず、訂正だけを受け付ける。

閉店時刻の5分前、客が1人入った。年齢も職業も分からない。帽子を深くかぶり、棚の商品を見ず、白紙の領収書を差し出した。

「嘘を1つ返したい」と客は言った。

「ここは、嘘を買う店じゃない」

「知ってる。だから来た」

領収書の裏には、細い字でこう書かれていた。

『あなたの嘘は買わない。あなたの父が、私のためについた嘘を返しに来た』

真砂が顔を上げたとき、客は帽子を取った。17人の署名にはなかった名前を名乗った。

「真砂悠介さん。あなたのお父さんは、死んでいません」

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嘘を売る人

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このシリーズの全話 24編
  1. 第1話:白紙の契約者
  2. 第2話:存在しない地主
  3. 第3話:紙の花を折る女
  4. 第4話:父の住所で待つ男
  5. 第5話:買い手を間違えた嘘
  6. 第6話:値段のない庭
  7. 第7話:黒瀬の寄付
  8. 第8話:悪役の領収書
  9. 第9話:嘘を買わなかった人
  10. 第10話:白紙に書かれた本名
  11. 第11話:嘘を売らない女
  12. 第12話:父が買わなかった真実
  13. 第2部第1話:未決済の買い手
  14. 第2部第2話:未来の領収書
  15. 第2部第3話:正直屋の開店日
  16. 第2部第4話:相棒を売った封筒
  17. 第2部第5話:2日目の値札
  18. 第2部第6話:値段のない上司
  19. 第2部第7話:空白の代替要員
  20. 第2部第8話:回答者の消えた面接票
  21. 第2部第9話:買われなかった署名
  22. 第2部第10話:父が断った依頼
  23. 第2部第11話:依頼人ではない代理人
  24. 第2部第12話:開店前の正直屋
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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