世界には、まだ名前のない神話がある。
それは古代の森や、海底に沈んだ神殿に眠っているのではない。誰にも選ばれなかった未来の中に、静かに置き去りにされている。
朝倉澪(あさくら・みお)は、失われた本を扱う編集者だった。
出版社の地下倉庫には、売れなかった原稿、刊行されなかった企画書、著者が途中で書くのをやめた連載案が眠っている。澪の仕事は、その中からまだ息をしているものを見つけ、もう一度世に出せる形にすることだった。
派手な仕事ではない。けれど澪は、その仕事が嫌いではなかった。完成しなかった物語には、完成した本にはない温度がある。誰かが本気で信じかけて、途中で手放した未来。その断面に触れるたび、澪はいつも少しだけ胸が痛くなった。
その朝、澪の机に1通の封筒が置かれていた。
白い封筒だった。宛名はない。差出人もない。ただ、封の部分に細い銀色の線が1本だけ引かれていた。
いたずらかと思った。けれど、封筒を手に取った瞬間、澪は指先に奇妙な重さを感じた。紙1枚の重さではない。まるで、まだ起きていない出来事が何10枚も重なっているようだった。
中に入っていたのは、目次だった。
表紙も、本文も、著者名もない。ただ、目次だけがあった。
第1章 目次だけが先に届く
第2章 選ばれなかった駅
第3章 雨の日に消える名前
第4章 未来を読んだ者の沈黙
第5章 神話になる前の編集会議
澪は、目次の一行目を見て息を止めた。
第1章の題名が、今この瞬間そのものだったからだ。
最初は偶然だと思った。そう思いたかった。
けれど、目次の裏には小さな文字でこう書かれていた。
この本は、まだ存在しない。
ただし、あなたが読み始めた時点で、存在する方向へ動き出す。
澪は封筒を閉じ、机の引き出しにしまった。それで終わるはずだった。差出人不明の怪しい紙を相手にするほど、彼女は暇ではない。
ところが昼過ぎ、会社の近くにある小さな駅で人身事故が起きた。電車が止まり、編集部の何人かが帰れなくなった。誰かがスマートフォンで路線情報を見ながら言った。
「選ばれなかった駅、って感じだな」
澪は、背中に冷たいものが走るのを感じた。
第2章の題名。
選ばれなかった駅。
澪には、悪い癖があった。
どんな出来事を見ても、構成を考えてしまう。偶然を見れば伏線を疑い、沈黙を見ればまだ書かれていない台詞を探し、人の失敗を見れば、その人が本当に失ったものは何かを考えてしまう。
だから彼女は、目次を捨てることができなかった。
もし、この目次がこれから起きる出来事の順番を示しているのだとしたら。もし、まだ存在しない本が、現実のほうを本文にしながら書かれていくのだとしたら。
編集者にできることは、何だろう。
出来事を止めることか。順番を変えることか。それとも、まだ誰も傷つかない結末に編集し直すことか。
その夜、澪は地下倉庫に降りた。封筒を片手に、刊行されなかった本の山の前に立つ。
倉庫の奥で、誰かがページをめくる音がした。
澪は声を出せなかった。
本棚の隙間から、白い紙が1枚、床に落ちてきた。
そこには、第3章の一文目だけが印字されていた。
雨の日、最初に消えるのは名前だった。
まだ名前のない神話
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