競り台の下から出てきた黒い傘は、雨のない日にも重かった。直吉が差すと骨がきしみ、手首へ力がかかる。それでも紙は破れず、風を受けても裏返らない。榊屋の番頭の署名が持ち手に下げた札へ残っていた。「これを売れば、百日の期限を少し延ばせる」と直吉は言う。蔦(つた)は値段より、持ち手に巻いた三色の糸を見た。朱、藍、灰。三人がそれぞれ一度ずつ結んだように、結び目の向きが違う。
榊屋は町で一番大きな傘問屋だった。破れない傘を自分の品として売るなら、番頭の署名だけで足りるはずだ。だが札には「買主」ではなく「試用責任者」と書いてある。直吉は違いを見落としていた。蔦は、傘を使った者が困ったときの責任だけ番頭が引き受け、作った者の権利は別に残していたのではないかと考えた。失敗問屋の仕事は、売れそうな品をすぐ売ることではなく、何が失敗したかを持ち主から聞くことだ。
三色の糸を見せると、紙漉き職人のお志乃、骨師の源六、柄巻きの安吉が別々に顔を曇らせた。お志乃は自分が漉いた薄紙を三枚重ねたと認めた。源六は柔らかくしなる竹を選び、安吉は濡れてもほどけない柄を巻いた。それぞれの仕事を足すと強い傘になる。しかし三人とも、でき上がった傘を褒められた話をしなかった。「これが出てから、直しに来る人が減った」と源六が言った。良い品を作って、自分たちの毎日の仕事を減らしたのだ。
直吉は、良い品なら修理が減るのは仕方ない、と言いかけた。お志乃はその先を先に言った。「破れないものが悪いと責められたいわけじゃない」。失ったのは修理代だけではない。雨の前に骨を見て、持ち主の使い方を聞き、次の年の紙を選ぶ仕事が消えた。丈夫な品を買った家が、柄だけ緩んでも「破れない傘なのに壊れた」と思い、捨てるまで来なくなった。傘の強さが、別の弱いところを見えなくした。
榊屋の番頭は、三人に毎年の修理代を前払いしたと主張した。帳面にも金の支払いがある。直吉は驚いた。職人を締め出した悪い番頭だと考えれば話は簡単だったが、金を渡していたならそうは言い切れない。蔦は支払日と受領印を並べた。お志乃には紙の代金、源六には骨の代金、安吉には柄の代金が払われ、修理代の欄だけは三年分まとめて「前渡し」とある。修理に来る客がいないのに金だけが届く。番頭の善意か、仕事を返さないための手切れ金か、帳面だけでは決められなかった。
源六は受け取った理由を明かした。娘の祝言が重なり、先の金が必要だった。ただし証文には「傘が破れぬ限り、他の問屋の傘は直さない」とあった。修理代は自分の腕の前払いではなく、自分の腕を棚へ置く代金だったのだ。安吉の証文にはその条文がない。お志乃の証文には、紙を重ねる手順を人へ教えてはならないとある。三人が同じ傘へ糸を結んでも、差し出したものは同じではなかった。
番頭が呼ばれて来た。彼は証文を隠さなかった。「丈夫な傘を作れと言ったのは町の客だ。職人には先に金を払った。売れたら皆の得になる」。直吉は反論できず、傘を閉じたり開いたりした。すると骨の一本が途中で引っかかる。紙は傷まず、他の骨も折れない。ただ一本だけ、節が少し膨らんでいる。番頭は「それでも差せる」と言い、源六は「今は」と答えた。壊れない傘が、直せない傘になっていた。
源六は骨を一本抜こうとしたが、紙を破らずには外せなかった。お志乃が重ねた紙は、全部の骨を包むように貼られている。安吉の柄も、骨の束ごと閉じ込めていた。三人が最高の仕事をした結果、一人の仕事だけをやり直す余地がない。蔦は傘の表に「不良」と書こうとはしなかった。雨を防ぐ力は本物だ。ただし直せるように作っていないという欠点も本物だった。
直吉は蔦の横で、以前の競りのことを思い出した。売る、売らない、試す。買い手が番号を隠したまま待てるようにした相談市だ。この傘も一度に百本売るか、全部捨てるかの二つだけではない。「一本だけ、町の雨で試せないか」。番頭は売り遅れると言ったが、源六が「壊れないと言うなら、試しても値は下がらない」と返した。番頭はその理屈を嫌った。それでも札にある試用責任者として、自分も試しへ立ち会うことを選んだ。
雨の日、傘を差したのは町の飛脚だった。いつも細い路地を走り、両手で荷を押さえる。黒い傘の下なら荷は濡れないが、柄が重く、角を曲がるたび手首が遅れる。試した飛脚は「丈夫だが、走るには向かない」と言った。次に店の軒先で客を待つ茶屋の娘が差すと、重さより広い影が役に立った。誰にでも同じ良い傘として売れば、飛脚の失敗は隠れてしまう。用途の違いが、初めて商いの話になった。
直吉は試しの前に、飛脚へ傘を返してよいと伝え忘れていた。飛脚が重いと言ったとき、売り手の前で品を悪く言えば代金を求められると思い、言葉を選んでいたのだ。蔦はその場で「試した人から代金は取らない」と札に書き足し、茶屋の娘にも読み上げた。断れると知らない試用は、試用の形をした押し売りになる。番頭は意外そうにしたが、飛脚はようやく「雨なら使う。仕事の道具にはしない」と正直に言えた。
茶屋の娘は、長持ちするなら借りたいと言った。自分の店では月に数日しか使わず、買えばしまう場所が足りない。番頭は貸し傘では儲からないと眉をしかめた。直吉は傘を抱え、貸す日と点検する日を帳面の別の列に置いた。傘を買う人が少なくても、点検と返却の仕事なら町に残る。源六が一本ずつ骨を見る。お志乃が紙の浮きを確かめる。安吉が柄の緩みを直す。三人の仕事は、壊れるのを待つ仕事だけではなかった。
だが蔦は、番頭へすぐに新しい証文を出さなかった。先の金を受け取った源六が自由に修理を始めれば、借りが残る。お志乃の手順を点検に使うなら、誰まで見てよいか決める必要がある。安吉は自分の柄を他の傘にも巻きたい。三人を一まとめに「職人の同意」と書けば、また一人の返事で三人の仕事を売ることになる。蔦はそれぞれの希望を別の紙へ書き、同じ机で読み上げた。
源六は前渡しをすぐ返せないと言った。番頭は「ならば契約どおり」と返す。蔦は貸し傘の点検料から少しずつ相殺する案を出したが、源六は困った顔をした。「それでは雨が降らなければ、いつまでも縛られる」。直吉は、貸出の数と関係なく月ごとの上限を決め、残りは一定の日に協議し直す案へ変えた。番頭にとっても、払った金の理由が帳面に残る。借りを消すために、将来の仕事を無期限で差し出さなくてよくなった。
お志乃は重ね紙の秘密を全部教えないと決めた。点検に必要な「浮きの見方」だけ源六と安吉へ伝え、紙を漉く手順は自分の家に置く。安吉は持ち手を一本ずつ外せる形へ作り直すため、最初の三本だけ試す。番頭は百本売る予定を手放したくなかったが、まず三本が戻って来る仕組みを見ない限り、百本目は同じ欠点を抱える。蔦は売上の約束で説得せず、試用の期限と失敗した場合の返品先を明記した。
三本の試作品を作る夜、お志乃は紙の端を少しだけ乾かしすぎた。安吉が急ぎ、源六は骨を先に組んでいた。誰か一人のせいではないが、急いだまま貼れば紙は剥がれる。お志乃が作業を止めると、番頭は明日の試しに間に合わないと渋った。直吉は黒い傘を見せ、「あれも急いで百本にする前に止めていたら、骨を一本替える方法を考えられた」と言った。三人は紙を乾かし直し、試しの日を一日ずらした。遅れは帳面に残し、職人の不履行にはしなかった。
新しい一本を作るには、元の傘を破るほうが早かった。源六が刃物を持つと、お志乃は止めた。「この一本は、そのまま置きたい」。三人が初めて一緒に仕上げた形だからだ。仕事を戻すために、過去の仕事を失敗として壊す必要はない。新しい試作品は骨の留め方だけを変え、黒い傘は相談市に展示する。客が丈夫さだけでなく重さと修理の難しさも確かめられるよう、三人の説明を横に置いた。
三日後、茶屋から試作品が戻った。紙は濡れていないが、柄がわずかに回る。安吉は「すぐ直る」と言いかけ、茶屋の娘が「返してよかったか」と聞くのを見て言葉を変えた。「返してくれて助かった」。持ち主が悪い使い方をしたのではない。試す間に見つかった欠点だ。点検料は番頭が払い、柄を直す仕事は安吉が受けた。直す理由が、壊れた客への責任転嫁ではなく、使える品を続けるための仕事になった。
番頭は帳面を見て、三本の貸出と点検では百本の売上に遠いと認めた。蔦も、必ず同じ儲けになるとは言わない。代わりに、今まで見えなかった返却者と修理の回数を見せた。丈夫さだけを値札にすると、買った瞬間で商いが終わる。使っている間の手間に値を付ければ、職人も客も困った日に戻れる。番頭は自分が試用責任者へ署名した意味を、そこでやっと引き受けた。販売を急がず、季節の終わりまで三本の記録を取ると決めた。
源六は、季節の終わりにまた番頭が一人で値を決めるのではと疑った。番頭は腹を立てたが、三年前の証文には確かに職人の再協議欄がない。蔦は新しい帳面の最後に、番頭と三人の職人、それから実際に借りた人が一人ずつ書ける余白を作った。誰かが意見を書かなければ、その空白を賛成として数えない。店の裁定も同じだと直吉は思った。百日の猶予が終わる時、自分たちに有利な声だけを集めても、失敗問屋の価値は証明できない。
直吉は黒い傘の札を書き換えた。「破れない」と大きく書き、その下へ「重い。骨は一本だけ替えられない。走る人には向かない」と続ける。売れなくなると番頭は苦笑したが、茶屋の娘は「立って待つ私には、むしろ欲しい」と言った。欠点を隠さない札は、品を貶すためではない。使える相手を探すためにある。直吉は百日後の裁定へ、売れた本数だけでなく戻ってきた仕事も記すことにした。
夕方、雨が上がると、町角に一人の飛脚が現れた。笠も荷も濡れていない。直吉は新しい傘の客だと思ったが、飛脚は傘を見ず、約束の日時を書いた紙を差し出した。配達先に着いているのに、相手が受け取れない日になってしまったという。「破れた物は何もない」と飛脚は言う。蔦は黒い傘の下に置いた三色の糸を指で押さえ、次の持ち込みの紙を受け取った。今度の失敗は、丈夫に守りすぎた約束の中にあるらしかった。
江戸の失敗問屋
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