退職届の行き先は、月だった 第3話:娘の署名が必要です

NEW MYTH 月面シリーズ

国枝修司(くにえだ・しゅうじ)の端末に「家族同意・最終確認」という通知が届いたのは、断水シミュレーションを終えた翌朝だった。画面の上には月面居住区ミナモの青い印章、その下には娘・咲の名前と空白の署名欄がある。署名がない候補者は32人目の生活負荷として算入する。昨日見た不可解な水使用記録は、誤作動ではなく制度だった。

修司は署名依頼を転送しかけ、指を止めた。会社なら締切と必要事項だけを書いて送っていた。「今日中にお願いします」。その短い文の裏で、相手が断りにくくなることを知りながら。今回は、咲の署名が月へ行く切符になる。だからこそ、同じやり方をしてはいけない。

彼は先に電話をかけた。咲は映像制作会社の編集室にいた。背後で誰かが秒数を読み上げている。「署名のことなら、まだしないよ」と挨拶より早く言った。「止めたいからじゃない。お父さんが、署名をもらえば話は終わりだと思っていそうだから」

修司は「そんなつもりは」と返しかけたが、言葉を飲んだ。つもりではなく、相手からどう見えるかを聞くのが生活調整官の仕事だった。「どう見えている?」と尋ねると、咲は少し黙った。「昔から、お父さんは家族のためって言って、1人で決める。異動を断った時も、退職を決めた時も。私たちに選ばせたようで、結論はもう決まっていた」

修司には反論できなかった。家族を守るという言葉は便利だった。相談しない理由にも、諦める理由にも使えた。月行きをやめれば、今度も「娘のためにやめた」と言える。その言葉を咲の肩へ置くことになる。行くと勝手に決めれば、これまでと同じだった。どちらも選ばず、条件を一緒に作るしかない。

電話を切ったあと、修司は古い社用ノートを開いた。最後のページに、退職面談で言えなかったことが一行だけ残っている。「家族が心配するので、挑戦は難しい」。まだ咲へ話してもいない時に書いた言葉だった。心配している家族を想像し、その想像を自分が動かない理由へ変えていた。修司はその一行へ二重線を引き、余白に書き直した。「心配の内容は、本人に聞く」。

「署名してほしい、とは言わない。署名できる条件を一緒に見てほしい」修司が言うと、咲は「今夜七時。30分だけ」と答えた。「それと、ミナモ側の人も入れて。家族同士だけで丸めないで」

夜七時、画面には修司と咲、運用責任者の瀬尾凛(せお・りん)、水循環技師の葉山拓海(はやま・たくみ)が並んだ。葉山は家族面談に呼ばれた理由が分からない顔をしていた。瀬尾は最初に謝った。「候補者を生活負荷へ算入する仕組みは、家族同意を急がせる意図で地球側が入れたものです。私は適切だと思っていません」

「でも使っていたんですよね」と咲が言った。瀬尾は言い訳をしなかった。「はい。期限に間に合わせることを優先しました」。葉山が横から「水使用は実消費ではなく予測値です」と補足した。咲はすぐ返した。「水が本物かどうかではなく、署名しない家族を不足の原因みたいに表示したことが問題です」

修司は娘の言葉を聞きながら、31年前の会議を思い出していた。総務部で一度だけ、引継ぎに失敗したことがある。介護休業へ入る同僚の仕事を一覧にし、「家庭の事情なので早く引き継ぐべきだ」と会議を終わらせた。仕事の名前は移したが、相談を受ける順番や、怒っている取引先へ電話する時刻は移せなかった。残された若手が3か月で休職した。修司はそれを人員不足のせいにしていた。

「私も同じことをしたことがあります」と修司は話した。「家族という言葉を出せば、急がせても反対しにくい。あの時は本人のためだと思っていました。でも、本人が大事にしていた順番を聞かなかった」

その同僚は、介護休業へ入る前に「月末の請求だけは吉岡さんへ渡したくない」と言っていた。修司は感情的な希望だと思い、担当表の空いていた吉岡へ割り振った。実際には、吉岡が取引先と交わした未解決の値引き約束があり、請求担当になれば1人で矛盾を抱えることになるという警告だった。二週間後、数字は合わなくなり、若手は謝罪を続けた。修司は今になって、引継ぎ表の空欄には人間関係の危険が書かれていたのだと分かった。

咲は父の告白を慰めなかった。「それ、今の同意書と同じだね。署名欄だけ埋めて、署名する人が何を怖がっているかは引き継がない」。修司はうなずいた。「だから今度は、空欄を急いで埋めない」。瀬尾は画面の議事録へ、その言葉をそのまま記録した。

葉山が腕を組み直した。「では、この同意書を廃止しますか」。瀬尾は首を振った。「月面勤務は家族の生活にも影響する。連絡遅延、緊急帰還、契約更新。説明と確認は必要です。ただし、家族に人事の拒否権を与えることと、無条件の賛成を求めることは違う」

咲は共有画面の同意書を拡大した。署名欄の上には「候補者の月面勤務を理解し、同意します」としか書かれていない。「理解って何を? 同意って、いつまで? 帰れなくなっても? この一行に全部押し込むから、署名するかしないかの喧嘩になる」

修司は紙のノートを開いた。「条件を3つ、出してくれる?」。咲は意外そうに笑った。「3つって決めてたの?」「前に、3つありそうな顔をしていた」。少しだけ空気がほどけた。

1つ目は、週に一度の私的な通信時間だった。会社の広報撮影にも、勤務評価にも使わない。会話を録音せず、話すことがない日には同じ空を映すだけでもいい。月と地球の時差ではなく勤務交代の都合で、毎週日曜の午後8時を第一候補にした。

2つ目は、緊急帰還の基準だった。「危険なら帰す、では曖昧すぎる」と咲は言った。医療上の基準、家族側の緊急事態、帰還費用を誰が負担するか、帰還できない期間がどれほどあり得るか。瀬尾は公開可能な運用表を一週間以内に作ると約束した。葉山も、地球側だけでなく月側の判断手順を併記すべきだと申し出た。

葉山は実際の帰還便一覧を開いた。最短でも6日、天候と軌道条件によっては21日。緊急という言葉から誰もが想像する「すぐ帰れる」は存在しない。「この数字を最初から見せるべきでした」と葉山は言った。咲は怖そうに画面を見たが、閉じなかった。「怖くならない説明じゃなくて、怖さの形が分かる説明がほしい」。その一言で、帰還表には日数だけでなく、待機中に家族へ何を連絡できるかという欄が加わった。

3つ目は、契約延長のたびに相談をやり直すことだった。「今日の署名を、1年後の賛成に使わないで。私は途中で分からないと言うかもしれない。お父さんも、行きたいと言った後で帰りたいと言っていい」。修司はその条件を聞き、胸の奥で固まっていたものが少し動くのを感じた。選んだ後に変える自由を、彼は自分にも家族にも認めてこなかった。

瀬尾は同意書の文面を書き換えた。「月面勤務への賛否」ではなく、「説明項目を確認し、未解決事項を継続協議する」。署名欄の隣には、留保条件を3つ書ける欄を設けた。咲はその画面を何度も読み、すぐには署名しなかった。

試しに修司が候補者欄へ署名すると、システムは「家族同意待ち」と赤く表示した。瀬尾はそれを「協議中」へ変え、審査担当者が未署名を減点できないよう権限も修正した。言葉だけを柔らかくしても、裏側の判定が同じなら意味がない。修司は会社で「要検討」と書かれた案件が自動的に期限超過扱いになっていたことを思い出し、表示と判定の両方を確認した。

さらに咲は、署名撤回のボタンがないことに気づいた。「一度安心したら、ずっと安心していることになるの?」。瀬尾は撤回ではなく「再協議を開始する」ボタンを追加した。押しても修司の採用が即座に取り消されるのではなく、通信、勤務、帰還の条件を再確認する。家族の不安を罰にせず、運用を見直す信号として扱う設計だった。

沈黙が1分続いた。修司は急かさなかった。署名がなければ次の面接へ進めないかもしれない。それでも、待つ時間を相手へ返すことが今回の試験だと思った。

やがて咲がペンを取った。「賛成したわけじゃないからね」。「分かってる」「分かってる、で終わらせないで。日曜八時、忘れたら1回につき地球のお菓子を1箱送ること」「月まで送料はいくらだ」「それを調べるのも生活調整官の仕事でしょ」

署名が送信されると、断水訓練のログが自動で開いた。32人目の行が消える、と修司は思った。しかし数字は残ったままだった。葉山が設定画面を見て言った。「署名の有無を変えても消えません。予測モデルそのものが、未同意の家族を消費者として数える設計です」

「なら、署名を集めるだけでは直らない」と修司は言った。瀬尾は地球側へ緊急変更申請を出した。家族の迷いを資源コストへ変換しないこと。未同意を欠陥として扱わず、協議中という状態を作ること。咲も同意書の当事者として変更理由へ一文を加えた。「家族は、候補者の合否を完成させる部品ではない」

翌朝、モデルの更新が承認された。32人目の水使用はゼロになったのではない。行そのものが消え、代わりに「協議中の家族1名」という欄ができた。水量は割り当てられていない。必要なのは水ではなく、時間と説明だった。

変更履歴には、提案者として4人の名前が並んだ。候補者、家族、運用責任者、水循環技師。誰か1人が正解を出した記録ではなかった。葉山は訓練ログへ「生活負荷モデルの対象定義を修正」と記し、その横へ小さく「家族の懸念は資源消費ではない」と追記した。修司はそれを見て、昨日まで対立していた技師もまた、仕組みを直す側へ移ったのだと知った。

修司は咲へ短いメッセージを送った。「最初の日曜、何を話す?」。返事はすぐ来た。「昨日の晩ごはん」。壮大な決意でも月の未来でもなかった。修司は冷蔵庫を開け、賞味期限の近い豆腐を見つけた。今日の夕食を自分で決め、その写真を撮った。

日曜の夜、2人は15分だけ話した。咲は編集で1秒を削るのに一時間かかった話をし、修司は味噌汁へ豆腐を入れすぎた話をした。最後まで月へ行くべきかという結論は出なかった。それでも電話を切った後、修司は「あー、話せてよかった」と声に出した。

ミナモ・デスクから次の審査通知が届いた。「第四審査は重力1/6を模した歩行面接です。候補者は、仕事を未完了のまま手放せることを示す品を1つ持参してください」

修司は長年使った机の引き出しを見た。11件の引継ぎ表、終わっていない改善案、誰にも頼まれなかった鍵の一覧。完成させてから去ろうとすれば、いつまでも地球を離れられない。月の面接官が求めているのは実績ではなく、置いていく技術らしい。

翌朝、修司は引き出しから1枚の紙を選んだ。それは31年間で唯一、最後まで埋められなかった引継ぎ表だった。持っていくのか、机へ残すのか。重力1/6の面接は、地球で最も重いものを選ぶところから始まっていた。

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退職届の行き先は、月だった

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このシリーズの全話 9編
  1. 第1話:月面配属、承認済み
  2. 第2話:地球では会議、月では断水
  3. 第3話:娘の署名が必要です
  4. 第4話:重力1/6の面接
  5. 第5話:持っていけない机
  6. 第6話:帰還予定のない椅子
  7. 第7話:31人分の湯気
  8. 第8話:眠れない壁の向こう
  9. 第9話:取り消した人の名前
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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