嘘を売る人 第2部第7話:空白の代替要員

働く前の評価

正直屋へ届いた人事資料には、佐伯航の評価が2つあった。着任日は来月1日。評価日は今月15日。まだ働いていない人間に、協調性不足と改善指導済みの印がついていた。

真砂悠介(まさご・ゆうすけ)は、誤植だとは考えなかった。誤植なら、空欄のままでも業務は進む。だが佐伯の名は、榊原が口頭指示を認めた直後に責任者欄へ入った。会社が必要としたのは人ではなく、次に説明を背負わせる名前だった。

羽鳥ミカ(はとり・みか)は佐伯の経歴を集めなかった。弱点を先に知れば、守るためという名目で本人の物語を作ってしまう。2人は資料の差出人へ返却期限と閲覧範囲を確認し、佐伯本人には「被害者として協力してほしい」と言わず、評価の存在だけを伝えた。

佐伯は電話口で笑った。「採用されたと思っていました。もう叱られていたんですね」

その笑いを、真砂は勇敢さとして売らなかった。怖い人が笑うこともある。腹を立てた人が丁寧に話すこともある。

空欄の仕事

翌日、佐伯は店へ来た。38歳。前職では在庫管理を担当し、会社統合で契約が終わった。今回の求人票には「改善プロジェクト責任者候補」とあったが、面接では仕事内容を説明されなかったという。

「空気を変えてほしい、とだけ言われました」

空気は記録に残らない。変わらなければ、変えられなかった人の責任にできる。真砂は求人票、面接メモ、評価票を机に並べ、事実と推測を分けた。佐伯が採用されたことは事実。責任者になることへ同意した記録はない。協調性不足の根拠もない。会社が彼を身代わりにしたいというのは、まだ推測だった。

羽鳥が尋ねた。「何を売りたいですか」

佐伯はしばらく考え、「採用をなかったことにしたい」と答えた。辞退すれば逃げた人と書かれる。入社すれば、すでに付いた評価から始まる。どちらを選んでも、会社の説明が先に完成している。

真砂なら、潔白な転職者という物語を作れた。SNSで資料を公開し、会社を悪役にし、佐伯へ応援を集める。だが注目が消えたあと、次の採用先は検索結果だけを見る。救うための物語が、別の値札になる。

「採用を消すことはできません。けれど、同意していない役割を返すことはできます」

3人は辞退届ではなく確認書を作った。入社意思は維持する。責任者候補への同意は保留する。着任前評価の根拠、作成者、訂正手続きを尋ねる。回答が来るまで、業務範囲を一般職の求人票へ戻す。佐伯は最後の一文を自分で書いた。「私は改善の証拠として採用されたのではありません」

善意の推薦

会社からの返事は早かった。評価票は研修計画を立てるための仮入力で、正式評価ではない。責任者欄はシステム移行上の便宜。佐伯の不利益には使わない。整った説明だった。

同時に、榊原から推薦状が届いた。「佐伯氏は問題解決能力に優れ、困難な現場を再建できる人物である」。会ったことのない人への称賛だった。

佐伯は推薦状を見て、「悪く書かれるよりいい」と言った。真砂も一瞬、使えばいいと思った。会社の嘘に善意の嘘をぶつければ、均衡が取れるように見えた。

羽鳥は2つの文書の日付を指した。推薦状は、佐伯が確認書を送る前に作成されていた。会社は低評価と高評価を同時に用意し、本人の反応に合わせて使い分けるつもりだった。従えば再建者、異議を唱えれば協調性不足。どちらも佐伯本人を見ていない。

真砂は推薦状を買い取らなかった。破棄も暴露もせず、榊原へ返した。「会っていない人を推薦した責任」を記載した返却票と一緒に。

榊原から電話が来た。「守ろうとしたんだ。私が悪かったと認めたら、彼の採用まで消される」

「守るなら、佐伯さんの代わりに長所を発明しないでください。あなたが知っているのは会社が空欄を作ったことです」

榊原は黙ったあと、推薦状の代わりに、自分が見た手続きを証言すると決めた。佐伯の能力ではなく、評価票が着任前に作られた日時、責任者欄の変更履歴、口頭指示の会議を記録する。人を褒める文章より、仕組みを証明する文章の方が狭い。だから嘘が入りにくかった。

3人目の署名

会社とのオンライン面談には、人事、法務、佐伯、榊原、月島、そして外部相談員が参加した。真砂と羽鳥は代理人を名乗らず、佐伯が希望した記録補助として同席した。

人事は仮入力を削除すると提案した。佐伯は削除だけでは足りないと言った。最初から存在しなかったことにすれば、同じ欄へ次の名前を入れられる。

月島は、自分が使っていた帳票の仕様を説明した。責任者欄が空白だと保存できないため、管理者から指定された名前を入れていた。榊原は指定を口頭で伝えた。人事はシステムの必須設定を承認していた。3つの責任が、ようやく1人の名前から離れた。

法務は「全員に少しずつ不備があった」とまとめようとした。真砂は止めなかった。代わりに佐伯が尋ねた。「少しずつ、とは何をしたことですか」

曖昧な言葉を、1つずつ動詞へ戻した。月島は入力した。榊原は指示した。人事は空欄を許さない仕様を承認した。佐伯は何もしていない。それでも佐伯には、確認書を出すまで自分の評価を知る手段がなかった。

合意書には、評価の削除ではなく訂正履歴の保存、責任者欄の任意化、着任前評価の禁止、本人への開示手続きが書かれた。最後に会社は佐伯へ、入社するか辞退するかを改めて選べる7日間を渡した。どちらを選んでも、協調性評価へ反映しない。

署名欄は会社と佐伯の2つだけだった。佐伯は3つ目の欄を加えた。「手続きを確認する人」。外部相談員が署名した。会社と個人だけで約束を閉じれば、力の強い側が解釈を変えられるからだった。

選ばなかった7日間

1日目、佐伯は会社へ行かなかった。入社前なのだから当然なのに、何もしない時間が逃避に見えた。彼は求人票を読み直し、説明された仕事と書かれた仕事を二列に分けた。改善、再建、空気を変える。どれも成果の判定者が書かれていない。一般職の在庫管理だけが、数量と期限で確かめられた。

2日目、月島から連絡が来た。自分の訂正によって佐伯の採用が不利になったのではないかと謝った。佐伯は謝罪を受け取らず、拒みもしなかった。「あなたがした入力と、私が採用されたことを交換しないでください」と返した。月島は初めて、許してもらうためではなく、次の帳票を直すために話した。

3日目、榊原は会社を辞めるつもりだと告げた。真砂は、その決断を責任の支払いとして記事にしないよう止めた。辞職すれば証言者が消え、残った人だけで制度が元へ戻る可能性がある。榊原は退職届を出す前に、訂正手続きの完了を確認する役割を引き受けた。

4日目、会社は佐伯へ新しい役職名を提案した。「業務透明化推進担当」。空欄を埋める名前が、今度は立派になっただけだった。佐伯は役職ではなく、権限と評価基準を尋ねた。回答には会議への出席義務だけがあり、決定を止める権限はなかった。彼は保留した。

5日目、羽鳥は面接担当者の匿名を暴く材料を見つけたが、使わなかった。匿名の人が嘘をついているとは限らない。名乗れない条件そのものが証拠になることもある。質問票は佐伯の封筒にあり、正直屋にはない。店が勝手に主導権を取り戻さないため、羽鳥は調査メモを閉じた。

6日目、佐伯は前職の同僚と食事をした。仕事を失った人として慰められるのが嫌で、連絡を避けていた相手だった。同僚は助言をせず、「在庫表を直した夜、助かった」と1つだけ事実を話した。佐伯はそこで初めて、会社の推薦状ではなく、自分が実際にした仕事を思い出した。

7日目、佐伯は入社を選んだ。ただし改善責任者ではなく、求人票どおりの在庫管理担当として3か月の試用期間を求めた。会社が条件を拒めば辞退する。受け入れれば、働いた後の事実だけで評価を受ける。

「勝った話にはなりませんね」と佐伯は言った。

「勝ったことにすると、次に困ったとき負けたことになります」と真砂は答えた。

会社は条件を受け入れた。佐伯は喜びを演じず、翌日の持ち物を確認した。印鑑、身分証、昼食。責任者の空欄を埋める道具ではなく、1人の働く人が持っていく物だった。

入社前夜、佐伯は低評価票の写しを捨てず、訂正版と同じ封筒へ入れた。悪い評価だけ消せば、自分が声を上げた経緯まで消える。2枚を並べて持つことで、会社を疑い続けるためではなく、事実が変わった道筋を自分でも確かめられる。羽鳥はその封筒に題名を付けようとしたが、佐伯は断った。「働いてから、自分で付けます」。まだ売られていない未来に、店の言葉を貼る必要はなかった。決める権利も、名前を付ける権利も、佐伯の手元へ戻っていた。

空白のまま帰る

面談のあと、佐伯は正直屋へ戻り、7日後の選択欄を空白のままにした。「今ここで入社すると言えば、勇気がある話になる。辞退すると言えば、自分を守った話になる。でも、まだどちらでもないです」

真砂は空白へ値段をつけなかった。決められない弱さとも、慎重な強さとも書かなかった。佐伯へ確認書の原本を返し、店には本人が許可した訂正手続きだけを残した。

羽鳥が閉店札を裏返すと、郵便受けに新しい封筒が落ちた。差出人は会社ではなく、佐伯の採用面接を担当した人物だった。中には質問票が1枚あり、回答欄はすべて埋まっている。ただし、回答者の名前だけが消されていた。

最初の質問は、「会社が求める正直さとは何ですか」。回答は短かった。「後から責任者を選べること」。

佐伯はそれを読み、封筒を真砂へ渡さなかった。「これは、まず私が持ちます。売るかどうかは7日後に決める」

真砂はうなずいた。以前なら、匿名の内部資料を最高の商品だと思っただろう。今は、持ち主が決めるまで触れないことも、店の仕事だった。

佐伯が帰ったあと、羽鳥は面接質問票の封筒と同じ紙を、店の古い棚から見つけた。そこには真砂の父の筆跡で、回答者の消えた名前が書かれていた。

榊原でも、月島でも、佐伯でもない。羽鳥ミカの本名だった。

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嘘を売る人

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このシリーズの全話 24編
  1. 第1話:白紙の契約者
  2. 第2話:存在しない地主
  3. 第3話:紙の花を折る女
  4. 第4話:父の住所で待つ男
  5. 第5話:買い手を間違えた嘘
  6. 第6話:値段のない庭
  7. 第7話:黒瀬の寄付
  8. 第8話:悪役の領収書
  9. 第9話:嘘を買わなかった人
  10. 第10話:白紙に書かれた本名
  11. 第11話:嘘を売らない女
  12. 第12話:父が買わなかった真実
  13. 第2部第1話:未決済の買い手
  14. 第2部第2話:未来の領収書
  15. 第2部第3話:正直屋の開店日
  16. 第2部第4話:相棒を売った封筒
  17. 第2部第5話:2日目の値札
  18. 第2部第6話:値段のない上司
  19. 第2部第7話:空白の代替要員
  20. 第2部第8話:回答者の消えた面接票
  21. 第2部第9話:買われなかった署名
  22. 第2部第10話:父が断った依頼
  23. 第2部第11話:依頼人ではない代理人
  24. 第2部第12話:開店前の正直屋
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この記事を書いた人

NEW MYTH編集室は、AIと共同で未来構想と物語連載をつくるための筆名です。長期連載ではシリーズごとに人物関係、伏線、未回収の謎を記録し、読者が続きを追える構成を重視しています。Future Visionsでは、AIの使い方そのものではなく、AIによって暮らしや仕事、家族、創作の選択肢がどう広がるかを扱います。

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