少女の名札には、澪の名前が書かれていた。
朝倉澪(あさくら・みお)。
けれど、目の前の少女は澪ではない。声も、背の高さも、濡れた前髪を指で払う癖さえ似ているのに、決定的に違っていた。
彼女は、澪が知らないことを知っていた。
「雨が止む前に、ここを出たほうがいい」
少女は駅前のロータリーを見回しながら言った。
「雨が止んだら、呼び戻された名前は固定される」
「固定?」
「誰かの人生に、居場所を作ってしまうってこと」
澪は目次の紙を握りしめた。第4話の章題は、さっき浮かび上がったばかりだ。
未来を読んだ者の沈黙
その下に、まだ薄い文字がある。
読むことは、選ばなかった未来を殺すことでもある。
澪はその一文を読んだ瞬間、声が出なくなった。
目次は未来を教えてくれるものだと思っていた。危ない場所を避ける。消えそうな名前を呼び戻す。間違った駅へ行かないようにする。そういう、少し不思議で、少し親切なものだと。
けれど違うのかもしれない。
未来を読むということは、読まなかった未来を選ばないということだ。
「あなたは誰なの」
澪が聞くと、少女は少しだけ笑った。
「藤井(ふじい)。たぶん、今は」
「たぶん?」
「呼ばれた名前で、しばらくは形が決まる。でも、私はあなたの名前を持って帰ってしまった」
少女は胸元の名札に触れた。
「だから、ここに長くいると、あなたの記憶の一部が私のものになる」
澪は思わず一歩下がった。
少女はそれを責めなかった。
「怖がっていいよ。私も怖い」
駅員の男は、いつのまにか券売機の横に立っていた。名札の空白は、雨に濡れても白いままだ。
「未来を読んだ人間がなぜ沈黙するかわかりますか」
澪は答えなかった。
「読んだ未来を口にすると、その未来だけが強くなるからです」
男は券売機の画面を指さした。
そこには切符の行き先ではなく、3つの文章が並んでいた。
一、藤井を帰す。
二、藤井を残す。
三、藤井の名前を読む。
3つ目だけ、文字が少し滲んでいる。
「どれを選べばいいんですか」
澪は聞いた。
駅員は首を横に振った。
「聞いてはいけません。答えを聞けば、あなたはその答えを選んだ責任を他人に預けることになる」
藤井が小さく言った。
「私は帰りたくない」
その声は、予想より幼かった。
澪は少女を見た。
「どうして」
「帰ったら、また誰にも呼ばれない場所に戻るから」
ロータリーの雨音が強くなる。
藤井は続けた。
「選ばれなかった駅の向こうには、選ばれなかった人たちがいる。誰かの人生に入れなかった名前。途中で書き換えられた家族。生まれる前に消えた友達。あなたが呼んだのは、私だけじゃない」
澪の手の中で、目次が熱を持った。
第4話の下に、短い注釈が浮かぶ。
藤井は、澪が一度だけ忘れた親友である。
澪はその文字を見た。
親友。
そんな人はいない。
そう思った瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。小学校の帰り道。2人で分けた傘。誰かの名前を呼びかけて、途中でやめた声。思い出せないはずの記憶が、輪郭だけを持って浮かぶ。
「嘘」
澪は言った。
藤井は目を伏せた。
「未来を読む人は、たいてい黙る。読んだものが未来じゃなくて、忘れた過去だったと気づくから」
駅員が券売機に硬貨を1枚入れた。
切符が出てくる音がする。
「朝倉さん。選択は3つです。ただし、どれを選んでも、あなたは1つの未来を失います」
切符には行き先が印字されていた。
第5話 神話になる前の編集会議
澪は切符を受け取らなかった。
まだ選べない。
そう言おうとした。
けれど藤井が先に、澪の名前を呼んだ。
「澪」
その瞬間、雨が止んだ。
まだ名前のない神話
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